宮中の御簾の奥に隠された雲上人。
ごく一部の公卿、側近しかお姿を見ることができない高貴なお方。
これまでの天皇は、その存在は知っていても一般国民には遠い遠い人でした。
それが変わってきたのが明治時代です。
異国船の来航により混乱を極めた幕末期、その対応を巡って幕府と攘夷派とで熾烈な争いが起こりました。
やがて異国の排除が難しいと悟ると、弱腰の幕府では日本が侵略されてしまうと倒幕の動きが強まりました。
幕府ではなく天皇が政権を取るべきとの主張の元、薩長など雄藩の動きが激しくなっていきます。
孝明天皇薨去の後、14歳で天皇となった睦仁天皇は、その激しい流れの中、これまでとは全く違う天皇へと変化していくのです。
明治大帝と呼ばれ、日本を近代国家、列強としての大日本帝国へと発展させた第一の功労者となった明治天皇。
大河ドラマ「西郷どん」では、大河ドラマ初出演の野村万之丞さんが演じておられます。
大政奉還、王政復古を経て、明治維新を成し遂げ近代国家の礎を築いた明治天皇はどのような人生を送ったのでしょうか。
生い立ち
1852年11月3日、孝明天皇の第二皇子として生まれました。
諱は睦仁、御称号は祐宮(さちのみや)です。母は、孝明天皇の典侍だった中山慶子です。
中山慶子の父・中山忠能は宮中で権大納言として出仕していました。
慶子は、京都石薬師にある実家の中山邸で祐宮を出産し、その後4年間この地で祐宮を養育したといいます。
この時、中山家の家禄はわずか200石しかなく、祐宮の産屋建築の費用を賄えず、借金をして産屋を建築しました。この産屋は現在も京都御苑内に残っています。
祐宮が5歳になると、母・慶子は宮中に戻ることになり、祐宮も宮中の母の局に移り住みました。
その後、孝明天皇に他の男児が生まれなかったため、祐宮は1860年8月26日、准后女御・九条凪子の実子になるよう勅命が下され、1860年11月10日、親王宣下を受け、「睦仁」と名付けられました。
1864年8月20日に起こった禁門の変の翌日深夜、300人以上の不審者が宮中に入り込むという事件が起こりました。
当時11歳だった睦仁親王は、その混乱の最中一時卒倒してしまいました。
禁門の変で、長州の動きを支持していた外祖父・中山忠能は、長州藩に内通したとの嫌疑をかけられ、孝明天皇の怒りを買い蟄居処分が下されました。
しかし、孝明天皇が薨去すると、その後許され復帰しています。
1867年1月30日、父・孝明天皇が崩御し、同年2月13日に睦仁親王は践祚の儀を行い、わずか14歳という若さで第122代天皇となりました。
元服前の践祚だったため、立太子礼は行っていませんでした。
1868年2月8日に元服し、同年10月12日、京都御所にて即位の礼を執り行い、天皇即位を内外に宣下しました。
翌年1869年2月9日、睦仁天皇15歳の時、3歳年上の一条美子が入内し、皇后となりました。
幕末動乱期
睦仁天皇が即位した時期は、一部の公卿と薩摩藩など雄藩による倒幕の動きが盛んな時期でした。
薩長から宮中への工作が行われ、倒幕の密勅が下されると、それを察知した15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、倒幕への大義名分を消滅させました。
大政奉還は行ったものの、慶喜の狙いは天皇主権の元、自身が政治の中心となることで、これまでの幕藩体制とたいして変わらない体制を取るつもりでした。
しかし、慶喜を完全に排除したい倒幕派は、1868年1月3日に王政復古の大号令を発し、新政府を樹立させました。
薩摩藩・西郷隆盛は、江戸で挑発行動を繰り返し、それに業を煮やした旧幕府軍が挙兵し、鳥羽・伏見の戦いが始まりました。
この戦いを皮切りに、旧幕府軍と新政府軍の戦いである戊辰戦争が始まり、戦闘は1869年6月まで続くことになります。
明治新政府・中央集権の確立
戊辰戦争がまだ終結していない1868年4月6日、睦仁天皇は、新政府の基本方針となる五箇条の御誓文を発布しました。
福井藩出身の参与・由利公正が起案し、土佐藩出身の制度取調参与・福岡孝弟が修正、長州藩出身の参与・木戸孝允が加筆したものです。
新政府樹立後、混乱した国内をまとめるため、今後は幕府ではなく天皇を中心とした政治を行うのだということを、諸外国や国民にアピールするために、この五箇条の御誓文は必要だったのです。
五箇条の御誓文の内容を簡単にまとめると、
- 日本中の優秀な人材を集め、会議にて決める
- 身分に関係なく国家の秩序を整え治めること
- 政府、武士、一般庶民がそれぞれの責任を果たし、各自の目標を達成する
- これまでの悪習を止めて、道理に基づいた方法で何事も行う
- 知識を世界に広め、天皇を中心に日本の国柄や伝統を大切にして国を発展させる
ということでした。
この政府の基本方針を、京都御所の紫宸殿に設えた祭壇の前で、天皇・公卿・全国の諸大名が神明に誓い、新しい「国是」として表明しました。
五箇条の御誓文交付の翌日、幕府の高札が撤去され、新政府の暫定的な姿勢が書かれた「五榜の掲示」が立てられました。
五榜の掲示とは、太政官(明治政府)が民衆に対して出した最初の禁止令のことです。
その内容は、
- 第一札が五倫(君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)や憐れみの推奨、悪業の禁止。
- 第二札は徒党・強訴・逃散の禁止。
- 第三札はキリスト教・邪宗教の禁止。
- 第四札は明治新政府独自の万国公法の履行・外国人殺傷の禁止。
- 第五札は脱籍浮浪化に対する禁。
徳川幕府の統制や弾圧をそのまま受け継いだ「五榜の掲示」に書かれた条項は、その後の政策で撤廃されたり自然消滅して、効力を失い、わずか数年ですべて廃止され、これ以降は天皇からの勅書や太政官布告が出されるようになりました。
1868年5月3日、江戸城が開城され、奥羽や北越での戦いは続いていたものの、政府軍は関東以西をほぼ掌握していました。
王政復古の大号令の後、幕府や摂政・関白が廃止され、天皇親政が定められました。
新たに、天皇の下に総裁・議定・参与からなる三職体制が定められましたが、まだ年少であった睦仁天皇を補佐する体制が必要となりました。
1868年6月11日、「政体書」が公布され、太政官を中心とした三権分立性をとる太政官制が採られることになりました。
さらに、1868年10月23日、年号を明治と改元し一世一元の制を定めました。
これにより天皇在位中の改元は行わないことになったのです。
改元の詔書が出たのは1868年10月23日ですが、遡って1868年1月25日~1912年7月30日までを明治時代と呼んでいます。
ちなみに、新元号を委ねられたのは松平春嶽で、いくつかの候補を挙げた後に天皇がくじ引きで引いたのが「明治」だったそうです。
江戸城無血開城から半年後の1868年9月3日、江戸は東京と名を改め、都として定められました。
同年10月13日、明治天皇は初めて東京行幸を行い、江戸城を東京城に改称、東京奠都となり東京が首都となりました。
その後、一度京都に還幸後、1869年に東京に居を移し崩御まで東京で過ごされています。
1869年、王政復古や戊辰戦争に功績のあった人々に論功行賞が行われました。
薩摩藩や長州藩出身者への恩賞が厚く、他藩出身者から不満が起こり、新政府人事においても派閥争いが起こるなど、新政府の体制は磐石なものではありませんでした。
発足したばかりの新政府では財政も苦しく、その負担は民衆が請け負うことになってしまいました。
結果、その不満が爆発し、各地で反乱や騒動が頻発していました。
当時の新政府の中心的人物には、三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは、この不安定な新政府を改革するためには薩摩の西郷隆盛が必要であるとして、西郷を東京に呼び寄せることにしました。
しかし、西郷が薩摩を離れることに島津久光が難色を示すのではと危惧した岩倉らは、薩摩に勅使を送ることにし、西郷召喚を果たしたのです。
西郷を加えた新政府は、次々と改革を行うことになりました。
1869年に版籍奉還、1870年には宣布大教詔を出して、神道を国教と定め天皇に神格を与え、日本を「祭政一致の国家」とする国家方針を示しました。
1871年には廃藩置県を断行、激しい抵抗を予想していた新政府でしたが、西郷が創設に尽力した御親兵が睨みをきかせていたために、大きな暴動が起こることなく廃藩置県は行われました。
見えない天皇から見える天皇へ
新政府の改革は、宮中にも及びました。
これから新しい近代国家の天皇として、武断的な改革君主にふさわしい天皇になるべく、英才教育を受けることになったのです。
これまでの女官中心だった宮中から女官や公家は遠ざけられ、吉井友美、村田新八、山岡鉄舟、高島靹之助などを侍従として天皇の側近くに仕えることになりました。
天皇は、士族出身で気骨溢れる彼らから武術や馬術を習い、その人となりからも多大な影響を受けたのです。
教育を受け持つ侍講も代わり、新しく元田永孚や加藤弘之に漢学や洋学、儒学を学びました。
こうした教育の中で、天皇は西洋的立憲君主としての心得を学び、次第に近代国家となった日本の元首としてふさわしい存在となっていきました。
これまで僅かな公卿しか拝顔できない存在だった「見えない天皇」から、新政府の威光を印象付け、新政府の中心としての新しい天皇の姿を全国の民衆に知らしめる「見える天皇」となるため、鹿児島や函館、京都、神戸、東北や新潟など全国を回り始めました。
初期の頃の巡幸には、西郷隆盛が付き添い、神社や天皇陵、陸軍演習場、官庁、学校、陶器会社や紡績所など近代化に努力する国民たちを視察して回ったのです。
西郷の人となり、「敬天愛人」を大切にした考え方は明治天皇に多大な影響を与えました。
巡幸によって、全国を巡り、多くの国民と接し、自ら近代化を体現することによって新しい近代国家の君主としての存在を示し、これから日本は新しく変わるのだと印象づけました。
1871年、岩倉具視や木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らが参加する使節団が1年以上の月日をかけて、アメリカやヨーロッパ諸国を巡るため、日本を出発しました。
西郷は岩倉らから留守を託され、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備や断髪令などの改革を行いました。
1872年、天皇は関西・中国・西国に巡幸し、西郷はそれに随行しています。
西南戦争
この頃、留守政府の中では征韓論争が起こり、政府内は紛糾していました。
李朝鮮が日本の国書を拒絶し、使節を侮辱し、居留民の生活の安全が脅かされる事態が起こり、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要となっていました。
板垣は武力による解決を主張しましたが、西郷がそれに反対、自分が全権大使となって朝鮮に行き、話し合いで条約締結を促すと主張しました。
何度も議論がなされた後、西郷案が閣議決定されました。
この決定を三条から報告された天皇は、岩倉の帰国を待って、岩倉と熟議して奏上せよ、と勅旨を出しました。
岩倉や大久保らが日本に戻り、西郷らの遣韓論を聞くと、大久保は西郷の派遣に反対し、今は内政を優先させるべきとの意見を主張し始めました。
西郷・板垣・副島・江藤らと岩倉・大久保・木戸・大隈・大木喬任らの意見は対立を深め、それに心を痛めた三条実美は急病になり、岩倉が太政大臣代行となりました。
閣議決定では西郷派遣と決定されていたのですが、岩倉は西郷派遣延期の意見書を天皇に提出し、天皇は岩倉の意見を採用しました。
西郷派遣の無期延期の裁可を受け、西郷・板垣・副島・後藤・江藤ら参議は辞職を願い出ました。
西郷らに同調する薩摩閥をはじめとする政治家、官僚、軍人ら600余名も次々と辞職する事態となりました。(明治六年政変)
1877年、下野に下った西郷は、私学校を開き、士族の子弟を集め文武農の教育に励んでいました。しかし、新政府は西郷の私学校の存在が新政府に敵対するものになるのでと恐れ、鹿児島から武器弾薬を秘密裏に運び出そうとしました。
政府の姑息なやり方に憤慨した私学校の生徒と視察と称してやってきた新政府の役人との間に衝突が起こり、それが広がり西南戦争となりました。
西南戦争は、新型兵器を用いた新政府軍の勝利で終わり、西郷は激戦の末、自刃しました。
天皇は、影響を受け、信頼していた西郷の死を悼み、戦争終結後の宮中の歌会で「西郷隆盛」という題で歌を詠むように命じました。
その際、西郷隆盛の罪を入れることは禁じられたそうです。
これまでの西郷の多大な功績がこの度のことでその勲功を見過ごしてはいけない、という意向があったそうです。
西南戦争後、信頼していた西郷を失った天皇は、収まらぬ氏族の反乱や農民一揆の征伐に消極的になり、政務も滞るようになってしまいました。
侍補と内閣
西南の役の最中、天皇の政治教育係「侍補」となった元田は、この事態を天皇統制の危機と感じ、内閣の重要な会議に天皇を出席させるよう画策、天皇の政治関与を図りつつ、侍補らの閣議への陪審を求め、内閣の人事にも口を出し始めました。
このことは、内閣の中心であった伊藤と侍補の対立のきっかけとなりました。
1878年、紀尾井坂の変で内務卿・大久保利通が惨殺されると、その後任人事に関して対立が起こりました。
同年秋に行われた北陸・東海道巡幸において、民衆の疲弊を目にした天皇が、勤倹重視を岩倉に告げると、侍補は勤倹・親裁・漸次立憲政体の確立を求める議案を作成しました。
巡幸中の学校視察では、欧米式の教育法による学課のあり方に不満を覚え、本邦固有の道徳を浸透させることの大切さを意見しました。
天皇の意見を取り入れつつ、侍補・元田は「教学大旨」を作成、政府の教育令制定を批判しました。
これに対し、伊藤は井上毅に教育議を執筆させ元田の動きを退けました。
1881年、自由民権運動が盛り上がりを見せ国会開設問題が浮上していました。
大隈重信による急進的な意見を嫌った岩倉や伊藤は、大隈罷免を天皇に願い出ますが、明治天皇は大隈罷免の願いに簡単には頷かず、公正公平に大隈罷免の是非を問うたといいます。
また、黒田清隆の汚職疑惑については黒田を厳しく問いただし、黒田は辞職となっています。
天皇は、1881年10月12日に国会開設の詔を出し、10年後には国会を開設すると示しました。
これによって自由民権運動は落ち着き始めたのです。
政治の中枢にいた伊藤博文は、天皇を西洋的な立憲君主として国家の中心にと考えていました。
しかし、明治天皇の教育係である侍補らは、儒教に基づいた教育を行い、東洋の専制君主のように天皇親政を行うべきと考えていました。
目指す天皇像が違うため、伊藤は侍補を廃止しようと考えますが、元田らを重用していた天皇は、それを許しませんでした。
一方で天皇は、信を置く侍補からの意見であっても、公正公平に判断し軽々しく左右されることはありませんでした。
伊藤は、天皇と宮中の関係を改めさせようと考え始めるのですが、それを実行できたのは1884年宮内卿に就任した後でした。
キリスト教信者である森有礼が文部省御用掛に内定したことに、教学聖旨を無視したとして、不快感を表した明治天皇は、病気と称して伊藤ら政府要人との謁見を拒む出来事が発生しました。
この内定が、政府よりも早く宮中の側近から天皇にもたらされていたことがわかり、伊藤は激しい衝撃を受けたといいます。
内閣制度を導入して自ら初代内閣総理大臣と宮内大臣を兼務した伊藤は、天皇に自らが目指す立憲君主制、政策や方針を説明するとともに、天皇が閣僚の仕事ぶりに対し疑問や不満を感じた時にはその意向を閣僚に伝え、天皇と閣僚との間が円滑になるように心を砕きました。
そうした伊藤の姿勢を見る中で明治天皇は、以前は拒否していた宮中での儀礼に欧米様式を導入しても反対はせず、伊藤の政策に理解を示すようになりました。
1886年、伊藤は「機務六条」を提案し、明治天皇は多少の条件をつけたものの、それを受け入れました。
機務六条とは、
- 第一条-総理大臣の要請なしに閣議には加わらない
- 第二条-国政に関する天皇の顧問には所管大臣と次官がつくこと
- 第三条、四条-天皇の好き嫌いで儀式を拒絶しないこと
- 第五条、六条-体調に配慮はするものの、健康を理由にむやみに大臣との謁見を拒み国務を滞らせないこと
などです。
この機務六条が定められてから明治天皇は、閣僚と直接謁見して政策について下問したりするようになりました。
外国人に対する恐怖から積極的ではなかった外交団との謁見にも応じるようになり、立憲君主としての振る舞いを積極的に行うようになりました。
1887年、不平等条約の改正問題や、欧化政策を進める伊藤に反発した宮中側近の意見を明治天皇は認めず、伊藤の宮内大臣職続投と憲法草案作成の職務にあたるよう指示しました。
以後、明治天皇は機務六条の原則を遵守し、御前会議などの内閣の要請が無い限りは内閣の政務に直接参与することはなくなり、立憲君主としての立場を明確にするようになりました。
近代国家の確立
新政府樹立後、明治天皇は外国からの要人との会談という重要な仕事も増えて行きました。
まず1869年、英国のヴィクトリア女王の息子のアルフレートと会談を行いました。
次に、1879年7月3日から9月3日まで日本に滞在した前アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが来日、会談を行い、ユリシーズからは国際社会に日本が認められるための助言をたくさん受けたと言われています。
1881年、ハワイ国王カラカウアが来日した際も会談を行っています。
この頃、1877年に起こった西南戦争や1878年の竹橋事件、自由民権運動などが起こり、設立間もない軍部に動揺が広がっていました。
精神的支柱を確立し、軍部の動揺を抑えるために1882年、明治天皇は軍人勅諭が出しました。
その内容では、前文に天皇が軍の大元帥で統治権を保持していると示し、軍人の政治不関与、軍人には選挙権を与えないと命じています。
1885年は、議会創設に備えて、これまでの太政官制度に代わり新しい内閣制度が創設されました。初代内閣総理大臣には伊藤博文が任命されました。
市町村制・府県制・郡制の制定、官僚制の支配体型の整備・皇室財産の設定を行いました。
1889年、大日本帝国憲法を公布しました。
この憲法は、天皇大権を明記しており、立憲君主制国家の確立の基礎となりました。
1890年には第2次世界大戦前の日本の道徳教育の根幹となる教育勅語を発表し、国民道徳の育成に努めました。
帝国議会が開設されたばかりの頃には、藩閥政府と政党勢力との諍いもありましたが、天皇はしばしば詔勅を発し、明治維新で功績のあった元勲らの政策や感情上の諍いにおいても宥和に努め、政府内の調停者的役割を担いました。
列強との同盟
1894年には日英通商航海条約を締結し、日本政府の悲願だった治外法権の撤廃・領事裁判権の撤廃・関税自主権の部分的回復・片務的だった最恵国待遇を相互的にするなど、江戸時代にされた不平等条約が改正されました。
1902年には日英同盟を締結するなど、大国との条約を締結し、日本は列強の一員として軍事力、経済力の増強を図っています。
1894年、日本が初めて直面した日清戦争、1904年の日露戦争では、明治天皇は大本営に赴き、直接戦争指導を行いました。
日清戦争に勝利した日本は、アジアの大国となり、欧米列強に衝撃を与えました。
その後の日露戦争での勝利は、有色人種が初めて白色人種の国家に勝った戦争として、白色人種に虐げられてきた有色人種の人々に、大きな勇気と希望を与えました。
日英軍事同盟と日露戦争での働きにより、明治天皇は1906年、イギリスのガーター勲章が授与されました。
1911年には、開国以来の懸案事項だった各国との不平等条約の改正を完了させ、日本は名実共に列強の一員となったのです。
1912年7月30日、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発、満59歳で崩御されました。
明治天皇の逸話
ドナルド・キーン著の「明治天皇を語る」には、明治天皇のお言葉やエピソードが数多く紹介されています。
明治天皇が日本全国を行幸していた時のことです。
ある日、寝ようとしていた時に天皇が蚊の大群に襲われたことがありました。
侍従から蚊帳に入るよう進言を受けても、一般の民衆と同じような体験をしたいと蚊帳に入ることはしませんでした。
また、臣民の多くと同じことがしたい、という考えのもと、酷暑であっても酷寒であっても自分だけのんびりと避暑地で静養することを良しとしませんでした。
日清戦争、日露戦争の折も、戦場の兵士達を思い、寒い日でも暖炉や火鉢を使わなかったそうです。
西南戦争後、従軍した士官を労うための晩餐会の席で、負傷した兵士一人一人の傷に「疼痛既に去れりや」と触れ、兵士たちを勞ったそうです。
日清戦争、日露戦争の勝利で日本国中が沸いていた時、明治天皇は両国の友好関係回復に関する詔勅を公布し、「日本の勝利に驕慢となり、理由なく相手国を侮蔑することなど友好国の信頼を失うようなことがあってはならない」というお言葉を残しています。
明治天皇役の野村万之丞さん
狂言方和泉流能楽師、人間国宝の野村萬を祖父に持ち、父は野村万蔵、叔父に野村萬斎。
次期野村万蔵家当主となるべく、2017年6月22日、六世野村万之丞襲名披露を行いました。
大河出演は初めてとありますが、実は子役として「利家とまつ」に松千代丸の幼少期役で出演していました。
明治維新で近代化が行われ、西郷による宮中改革が行われました。
これまでの見えない天皇から見える天皇へ、御簾の奥でお顔がぼんやりとしか見えなかったのが、ようやくはっきり拝見することができました。
おっとりとした天皇から日本帝国軍の大元帥として戦争の指導に当たるほどに逞しく変貌する明治天皇。
逸話からも分かるように、明治天皇はいつも国民を気にかけ寄り添おうという姿勢を貫き通しました。
野村万之丞さんが演じる明治天皇は、どのような変化を見せてくれるのでしょうか。
楽しみです。
最後に
14歳という若さで天皇に即位し、倒幕・攘夷の象徴として存在し、明治維新がなった後には、見える天皇として近代国家の指導者として国民を導く天皇として多大な功績を残しました。
日常生活では質素を旨とし、乗馬を好み和歌を生涯で9万3千首以上も詠まれました。
実は、気さくで茶目っ気のある性格で、皇后をはじめとする周囲の女性たちにあだ名を付けたりしていたそうです。
倒幕、大政奉還、近代国家への改革の数々、これまでの天皇とは全く違う仕事をしなければならず、14歳という若さで日本の中心となった明治天皇にはどれだけの重圧がかかったことでしょう。
海外での評価も高く、明治天皇を尊敬し、慕う人々も多くいました。
大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死するほど、慕われていた明治天皇。
明治天皇の誕生日は現在、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とした文化の日として国民の祝日になっています。