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「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その19 幕末。池田屋事件から禁門の変)。
直虎関連記事八月十八日の政変で政治の中心である京都から追放されてしまった長州藩。しかし、彼らは長州で大人しくしてはいませんでした。 長州・土佐の尊皇攘夷派たちは公武合体派が主流となっている京に潜伏し、次なる一手を画策します。 池田屋事件 元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都三条木屋町にある旅籠・池田屋に新選組が襲来しました。池田屋には、御所焼き討ちなどの計画を企てていた長州藩・土佐藩の尊攘過激派の志士が潜伏していました。新選組が池田屋襲撃に至るまでの経緯を考えてみましょう。 池田屋事件経緯 ... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その18 幕末。浪士組結成から八月十八日の政変)。
直虎関連記事1862年、文久の改革によって政治総裁職についた松平春嶽に「急務三策」という建白書を提出した者がいました。清河八郎です。当時、朝廷から攘夷を行うよう言われていた幕府は、清河の建白書を見て、この案に飛びつきました。 それによって結成された浪士組。どのような経緯で結成に至ったのでしょうか? 清河八郎の動き 清河八郎は、出羽の庄内藩にある清川村の郷士・斎藤治兵衛の長男として生まれました。幼い頃から学問好きで、18歳で江戸の東條一堂に師事、経学を学んでいます。21歳の時、京で梁川星厳に師事、... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その17 幕末。生麦事件発生前から島津久光の動き)。
直虎関連記事朝廷からの勅使と共に江戸に向かった薩摩藩主の父・島津久光は、薩摩から率いてきた武力を背景に幕府に幕政改革を迫り、成功させています(文久の改革)。江戸からの帰り道、大名行列を横切った4人の英国人に対し、薩摩藩士は無礼討ちにしてしまいます。これが生麦事件です。 この事件が引き金となって、薩摩藩と英国との全面戦争が始まってしまいます(薩英戦争)。生麦事件とはどんな事件だったのでしょうか。 文久の改革 寺田屋事件により、朝廷の信頼を厚くした久光は勅使・大原重徳に随行する形で江戸にやってき... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その16 幕末。寺田屋事件と精忠組)。
直虎関連記事桜田門外の変に続き、坂下門外の変が起こり、幕府の権威は下落するばかりでした。水戸藩を始めとする尊攘過激派の動きはますます活発になり、京には攘夷志士を名乗る荒くれ者が街を跋扈するようになってきました。そこでついに薩摩藩主の父・島津久光が兵を率いて上洛する決意を固めたのです。 寺田屋事件経緯~薩摩藩の動き 1858年に島津斉彬が亡くなると、斉彬の遺言により弟・久光の実子である忠徳が薩摩藩12代藩主となりました。しかし、若年であったため祖父の斉興が後見につき実権を握り、斉興が死去すると... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その15 幕末。皇女和宮降嫁と坂下門外の変)。
直虎関連記事桜田門外の変で幕府の最高権力者であった井伊直弼が暗殺されたことにより、幕府の権威は地に落ちました。直弼に変わり、幕政の中心となったのは老中首座となった安藤信正と老中・久世広周でした。 彼らが幕府の難局を乗り切るためにとった政策は公武合体、皇女和宮の降嫁でした。 皇女和宮降嫁 安藤らは井伊政権時から検討されてきた孝明天皇の妹・和宮と将軍・家茂の結婚を推進し、公武合体を持って幕府の権威を回復させようと考えました。尊攘派の一派からの反感を回避し、朝廷との共同政策をすることで国難を乗... -
西郷どん。徳川家定の生涯や篤姫との仲は?又吉直樹さんが好演!
西郷どん関連記事大河ドラマ「西郷どん」で又吉直樹さんが演じる徳川家定が、カラスに挨拶する様子や米国公使ハリスに「幾久しく友好を保ちたいと大統領に申し述べるべし!」を5回も繰り返した姿が描かれていました。 後の世の人からは「暗愚(あんぐう)」とか「変人」などと言われた徳川家定の生涯と3人目の妻・篤姫との仲についてまとめてみました。 徳川家定の生涯 お菓子作りが大好きで「イモ公方」と越前福井藩主・松平春嶽からも呼ばれていたと伝えられる徳川家定、饅頭やカステラまで作って家臣にも食べさせていました。その... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その14 幕末。桜田門外の変)。
直虎関連記事井伊直弼が行った安政の大獄。これにより100人を超える大量処分者が出ました。中でも戊午の密勅を天皇から降下された水戸藩士に対する処罰は厳しいものでした。戊午の密勅を返納するかしないかで水戸藩内は割れ、穏健派は返納に同意するのですが、過激派は抵抗を強めます。 藩を出て、元凶となった井伊直弼に対する恨みをはらすため、直弼襲撃計画が立てられました。それが「桜田門外の変」です。これにより、水戸藩も幕府も彦根藩も大ダメージを受けることになります。 経緯 この桜田門外の変が起こるまでに、様... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その13 幕末。安政の大獄)。
直虎関連記事きっかけは、日米修好通商条約でした。アメリカ側に領事裁判権があり、日本に関税自主権がないこの不平等条約を朝廷の勅許を得られないまま結ばざるを得なかった大老・井伊直弼は一橋派の反発を受けることになりました。 攘夷派である水戸藩前藩主・徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬は抗議のために行動を起こし、その結果、井伊直弼による大規模な粛清が始まります。 安政の大獄 経緯 1858年7月29日、日本はアメリカ合衆国と日米修好通商条約を締結しました。日米和親条約締結から、自由通商についての条約締結を計画... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その12 幕末。日米修好通商条約)。
直虎関連記事日米和親条約締結のため、日本初の総領事となったタウンゼント・ハリス。彼は、当初からアメリカ大統領の命を受け日本との通商を目的としていました。 しかし、幕府は通商には消極的で、ハリスの駐在も拒否しようとしていました。水戸藩・徳川斉昭や薩摩藩・島津斉彬を始めとする攘夷派の動きも活発になり、開国派と攘夷派の対立も激しくなってきました。不平等条約と呼ばれた「日米修好通商条約」を幕府が締結するまでの経緯とその影響を考えてみましょう。 日米修好通商条約調印 日米和親条約により、日本初の総... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その11 幕末。黒船来航と将軍後継問題)。
直虎関連記事イギリスの産業革命に伴い、欧米諸国の動きが激しくなってきました。日本近海にも欧米の船の姿が頻繁に見られるようになり、様々なトラブルも起こり始めてきました。頑なに鎖国を続ける日本に対し、外交があったオランダ国王は1844年に幕府に世界情勢を説き開国を進言するのですが、幕府はこの進言を退けています。 その後、開国・通商を要求してくる異国人たちを排斥しようとする攘夷派と外国の軍事力との差を認識し、開国もやむなしとする開国派と分かれていきます。しかし、その対応を担うはずの幕府は将軍が病... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その10 幕末。幕末年表と諸外国の動き)。
直虎関連記事「幕末」というといつからいつのことを指すと思いますか?「幕末」とは、読んで字のごとく幕府の末期。江戸幕府が政権を握っていた時代の末期を表します。いろいろな説はありますが、1853年の黒船来航から戊辰戦争が終わる1869年までの期間を「幕末」と定義することが多いようです。徳川将軍家で言うと、12代家慶が亡くなり、13代家定~15代慶喜までの期間です。これまで徳川将軍家の動きを中心に見てきましたが、この幕末という時代は、様々な思想を持つグループが同時に動いてきます。将軍家の動き、幕府の動き、そし... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その9 江戸時代の3大改革。徳川吉宗から徳川家慶の政治)。
直虎関連記事文治政治を作り上げていた時代は、元禄文化という文芸・芸能の素晴らしい作品が世に出てきた、非常に華やかな時代でした。しかし、長崎だけとは言え海外との貿易で日本の金銀は大量に海外に流出していきました。気づいた時には、銀は国内にあった4分の3もの量が流出していった後だったのです。深刻な財政難に陥った幕府は、様々な対策を考えますが、実を結びません。そこで、新しく将軍になった紀州家の吉宗の出番です。この改革期には、吉宗の行った改革をもとにして「江戸の3大改革」と呼ばれる改革がなされてい... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その8 文治政治の始まりから元禄期。徳川家綱から徳川家継の政治)。
直虎関連記事家光が48歳で亡くなり家綱が4代将軍職を引き継いだ時、家綱は僅か11歳でした。秀忠や家光のように大御所としてサポートしてくれる父はいません。しかし、家綱には信頼できる優秀な家臣たちがついていました。彼らの補佐を受けながら、家綱はこれまでと同じように、武力による政治を続けるはずでした。しかし、大名たちへの苛烈な締めつけは、大名や領民の疲弊をうみ、治安の悪化などの事態を引き起こしました。そんな時に、これまでの政治を見直さなければいけない事件が起こりました。それをきっかけに、武断政治... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その7 徳川秀忠から徳川家光の政治)。
直虎関連記事尊敬する祖父・家康の遺志を継ぎ江戸幕府の礎を盤石なものとするために家光は奮闘しました。 父・秀忠が遺言で残したとおり、未完成だった武家諸法度を改訂し、より強固な政策を実行しました。そのかいあって、初代から家光までの3代の間に江戸幕府の体制は整えられました。 武力を背景にして諸大名を取り締まる政治、それを「武断政治」と呼んでいます。 秀忠に引き続き、家光が行った政治をみてみましょう。 3代将軍・家光の政治 1623年、2代将軍・秀忠が隠居し20歳の家光が3代将軍となりました。 将軍職を譲られ... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その6 武断政治から徳川秀忠の政治)。
直虎関連記事戦乱の世を終わらせ、泰平の世を作り上げた家康。 武勇に優れ、織田信長が恐れていたという説がある長男・信康。 結城政勝の養子になり、信康と同じく勇猛果敢と言われた次男・結城秀康。 3男である秀忠は割と陰に隠れ印象が薄いのですが、実は幼い頃から家督を継ぐという前提で教育を受けてきた人です。 武において、目立った活躍は知られていませんが、政治家としては非常に優れた人と言えます。 始まったばかりの江戸幕府を安定に導いた秀忠の政治を見てみましょう。 2代将軍・秀忠の政治 初代将軍・家康は将軍... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その5 江戸時代の始まりと武断政治)。
直虎関連記事さて、豊臣を滅亡させ、天下統一を果たした徳川家康。 戦乱の世を終わりに導いた家康が次に目標としたことは長く続く泰平の世を作ることでした。 平和な世を築くために家康が作った政策がいくつかあります。 未完成なものもありましたが、2代・秀忠、3代・家光まででほぼ完成することになります。 その政策、江戸幕府の特徴とは一体どういうものだったのでしょうか? 幕藩体制の確立 まず家康は織豊政権では確立されていなかった社会制度を整えました。 強力な領主権を持つ将軍と藩主である大名が、土地と人民を統... -
おんな城主 直虎「第50回(最終回) 石を継ぐ者」のネタバレとあらすじと感想。
おんな城主 直虎毎週日曜日20時から、NHK総合他にて放送中の大河ドラマ「おんな城主 直虎」。2017年12月17日、第50回(最終回)「石を継ぐ者」が放送されました。 今回のサブタイトル「石を継ぐ者」は、1977年に発表された、ジェイムズ・P・ホーガンのデビュー作で、「星を継ぐ者」というSF小説です。未読の方は、これを機会に是非チェックしてみてはいかがでしょうか? 星を継ぐもの (創元SF文庫)posted with カエレバジェイムズ・P・ホーガン 東京創元社 1980-05-23 Amazonで調べる楽天市場で調べるYahooショッピングで調べる7netで調べる... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その4 徳川幕府の誕生と豊臣家滅亡)。
直虎関連記事関ヶ原の戦いを制し、徳川家康は征夷大将軍となり、武家の棟梁として諸大名の頂点に立つことになりました。 江戸幕府も開かれ、日本全土を統治するべく体制を整え始めています。 しかし、気にかかるのは豊臣家の存在です。 他の諸大名は家康に屈しましたが、豊臣家とは緊迫した状態になっていました。 将軍の座を秀忠に譲り、政権を豊臣に返すつもりがないことを明確した家康。 年老いていく家康と成長著しい秀頼。 永きに渡る泰平の世を目指す家康は、江戸幕府存続を脅かす存在、豊臣家を潰しにかかります。 江戸... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その3 徳川家康の天下統一への道)。
直虎関連記事泰平の世を目指して戦に明け暮れた徳川家康。政権掌握まで後一歩のところまでやってきました。 家康の前に立ちはだかる歴戦の武将たちも鬼籍に入り、もはや残すところは豊臣秀頼ただ一人。 若い秀頼に比べあまり時間が残されていない家康は、今までになく強引に天下取りに突き進みます。 その過程を見てみましょう。 豊臣家内部抗争 関ヶ原の戦いの遠因と言われているのが、豊臣家臣内部の抗争です。 豊臣政権では、政務を担った諸将を文治派、軍務を担った武将を武断派と呼んでいます。 文治派の代表格は石田三成... -
「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その2 徳川家康の織田・豊臣への臣従時代)。
直虎関連記事長きに渡る江戸時代を作り上げた初代将軍・徳川家康。家康が江戸幕府を成立させるまでには長い年月が掛かりました。 幼少期から11年に渡る人質生活を経て、晴れて独立を果たし、岡崎に戻ったものの、まだ若く力のない家康は、有力武将と同盟を結び、自領を守りつつ力をつける必要がありました。 家康はどのようにして力をつけていったのでしょうか。 清洲同盟 今川義元討ち死にの混乱に乗じて岡崎に戻った松平元康(後の徳川家康)。1561年、東三河における今川の拠点である牛久保城を攻撃し、元康は今川氏からの独...