2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回第17回は、主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)が新たな目標として、優秀なランナーを育成する指導者となる道を選び、大阪から東京までの516Kmを大勢のランナーがタスキを繋いで走破するという偉業を成し遂げたお話でした。
四三が目指していたオリンピックベルリン大会が、欧州戦争の長期化が原因で中止となりました。
ストックホルム大会での雪辱を果たそうと、教職になる道を捨てランナー一本で懸命に奮闘してきた四三。
結婚したばかりの妻・スヤ(綾瀬はるかさん)を故郷の熊本に残し、無茶な訓練をこなしながら成長を続け、四三はランナーとしてピークに達していました。
金メダル間違いなし、と言われ自身でも手応えを感じていただけに、この大会の中止は四三に大ダメージを与えました。
部屋に引きこもって出てこない四三を高師の仲間や車夫の清さん(峯田和伸さん)が励ますのですが、四三はこれまでオリンピックのために家族を顧みずにマラソン一筋に生きてきて、この大会が終わったらもう終わろうと思っていたのに、さらに4年後など望めない、と叫ぶのです。
そこに、ベルリン大会中止を新聞で知り、四三を心配して熊本からスヤがやってきました。
四三の興奮した様子を見たスヤは、冷たい井戸水を四三にぶっかけます。
スヤに水をかけられて落ち着いた四三でしたが、スヤから熊本に帰ろうと誘われても首を横に振るばかり。
しかし、スヤに本心を引き出された四三は、スヤに縋り付いて思い切り泣いたのです。
翌日、吹っ切れたように走る四三の横には、自転車で伴走するスヤの姿がありました。
夜、これまでの言動をスヤに謝り、これからは居たいだけ居てもいい、もう追い返さない、と四三はスヤ詫びたのでした。
これからのことを考えなければと枕を並べる2人は話し合うのですが、スヤはこれからの2人のことを考え、四三はこれからのマラソン界について思いを馳せます。
呆れたスヤは、四三が50人いればいいのに、と返します。
それを聞いた四三は、自分が50人いるところを想像し、自分のようなランナーをたくさん育てようと、指導者になると決意を固めたのです。
自分の決意を恩師である嘉納治五郎(役所広司さん)に伝えると、嘉納はオリンピックに代わる新たな目標が見つかったと、四三の決意を喜んだのでした。
1916年、神奈川師範に教員として着任した四三は、地理の教師として勉学を教え、放課後にはマラソンの指導に力を注ぎました。
練習方法の確立、足袋の改良、自らも後輩たちと走り、マラソンの指導と普及に尽力します。
大阪・東京間をマラソンで走破するという夢に向かい、四三や嘉納は動き始めました。
ミルクホールで相談していると、話が聞こえてしまったと読売新聞社の大村が話しかけてきました。
読売新聞でも遷都50年の記念に大運動会を開きたいと考えていたというのです。
四三らの計画に協力を申し出た読売新聞社の主催で、京都・東京間516Kmを走破する、東海道五十三次を辿るマラソン大会「東海道五十三次駅伝競走」が企画されたのです。
足袋の改良を播磨屋足袋店店主・黒坂辛作(三宅弘城さん)に頼み、長距離を何人ものランナーで繋ぐためのタスキの制作も依頼、駅伝競走開催に向けて着実に準備は進みます。
そして、1917年4月27日、日本初の駅伝レースが開催されました。
関東対関西の対抗戦で京都三条大橋から東京上野の不忍池まで516Km、23区間に分けて46人のいだてんが走り抜けます。
途中、浜名湖横断では走らず舟に乗って渡る、という奇妙な区間もありましたが、昼夜を問わず走り抜けたこの駅伝は、29日午前11時34分に関東軍のアンカー四三がゴールを切り勝利という結果に終わりました。
運動史上初の駅伝はこうして終わり、後にお正月の風物詩、箱根駅伝大会に繋がれていきます。
熊本に帰ったスヤが体調不良を訴え医者に見てもらうと、スヤの懐妊が発覚しました。
これで池部の家は安泰、と喜ぶ義母・幾江(大竹しのぶさん)と実兄・実次(中村獅童さん)。
東京で知らせを受けた四三も喜び、熊本方面に向かって「でかしたー」と叫ぶのでした。
前回第17回「いつも2人で」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第18回「愛の夢」のあらすじと感想です。
孝蔵の帰還と小梅の駆け落ち
ベルリンオリンピックを目指していたのに、あえなく中止となってしまったことに落ち込んだ四三ですが、熊本から駆けつけてきた妻・スヤのおかげで気持ちを持ち直し、再び走り始めました。
それからの四三は暴走機関車のごとく、全国各地を走り回ります。
まずは、極東選手権、次に東西対抗戦、さらに富士登山競走と立て続けに出場、日本中を駆け巡ります。
一方、美濃部孝蔵も一度目の旅が終わり、東京に戻ってきていました。
車夫の清さんは、孝蔵が戻ったことを喜ぶのですが、タイミングが悪いと困ってしまいます。
それというのも、浅草の知り合いであった小梅(橋本愛さん)が、変な野郎と駆け落ちをしたからだというのです。
小梅は独身なので、誰とくっついても駆け落ちにはならない、と孝蔵は不思議がるのです。
1か月前、いつの間にか小梅はヤクザ者の徳重(榊英雄さん)の囲い者になっていました。
徳重の方が小梅に入れあげており、しかし、小梅は気に入らないことがあるとぷいっと出て行き、他の男に目移りしてしまいます。
小梅の態度に業を煮やした徳重は、小梅に「今度の男は誰だ」と問い詰めます。
すると、小梅は「売れない芸人の三遊亭朝太に惚れている」、と徳重に言ってしまうのです。
怒った徳重は朝太(孝蔵)に落とし前をつけさせようと浅草中を探し回っています。
とんだ濡れ衣で、とばっちりを被った孝蔵は憤るのですが、清さんに「今は出歩かない方がいい、話は付けてやるから」と諭されました。
本当は、小梅は美川(勝地涼さん)と良い仲になっており、美川を庇うために出た嘘でした。
小梅と美川は播磨屋を訪れ、美川を匿って欲しいと小梅は四三に頼み込みます。
四三はそれを了承し、美川は四三の部屋に居候することになりました。
美川を四三に託した小梅は、徳重の元に戻るのでした。
小梅に守られた美川ですが、悪びれた風もなく、自分は絵かきになろうかと思う、と言うと、向かいに住むシマに目を付け、シマに軽口をたたきます。
突然話しかけられたシマは困惑し、「お静かに!」と叫ぶと、部屋の窓もカーテンも閉めてしまうのでした。
女子体育の歩み
そのシマは、四三の走りに憧れ、マラソンに強い興味を持っていました。
四三たちが企画した駅伝競走でも女子のランナーの存在を尋ねてみたものの「遊びではない」と怒られ、嘉納からも「女子は将来子供を産むのだから」と取り合ってもらえません。
それでも諦めきれないシマは、早朝、誰もいない道を袴にたすき掛けという重たく息苦しい格好で走り始めました。
ここで古今亭志ん生(ビートたけしさん)の寄席のシーンが入ります。
寄席のテーマは女子体育の歩みについて。
志ん生は弟子の五りん(神木隆之介さん)に席を譲り、自分は観客席で五りんの話を見守ります。
五りんは女子体育の話の前に、まずは大正時代の一般的な美人について語り始めます。
大正時代に美人とされていたのは「花顔柳腰」という特徴を持った女性、まさに小梅のように華やかな顔立ちとしなやかな柳腰を持つ女性でした。
そういった人々は体育には全く興味はなく、むしろブスになってしまうからと体育を嫌う者たちばかりだったといいます。
実際、芸者たちは不細工になってしまうとして体育を禁止している店もあったそうです。
当時の女子の体育の服装は、非常に動き難いものでした。
半袖短パンのような露出の多い服はもってのほか。
袴姿にブーツ、たすき掛けが女子の体育着だったのです。
試しに知恵が動いてみますが、とても運動できる服装ではありません。
その現状に立ち上がったのは二階堂トクヨ(寺島しのぶさん)でした。
3年間イギリスに留学してきたトクヨは、今の服装の改良すべき点を語ります。
和装には7つの罪があるというのです。
胸は襟で十文字に締め付けられ
腰は袴で紐まみれ
そのくせ行灯包みのだらしない下半身
家事をやれば袖は水浸し
襷をかければ猫背になる
腕を上げれば脇が丸見え
極めつけはこの帯、腹を締め付けられるから深い呼吸ができない
だから日本の婦人は若くしてバタバタ死ぬんです!と力説します。
トクヨは播磨屋にチュニックの制作を依頼、腹部を締め付けず袖も邪魔にならない服装を推奨しました。
トクヨの授業はダンスが中心の軽やかで優雅に体を動かす美しいものです。
それを見た永井道明(杉本哲太さん)は驚愕し、トクヨに抗議するのですが、トクヨはそれを聞かず、これまで永井の教育方針を尊敬してきたが、3年間のイギリス留学で様々なことを学び、永井の理論がいかに偏り、女性の体のつくりを無視したものであったか理解したというのです。
永井の理論は時代遅れだと反論します。
「女子の体育は女子の手で、子を産み、母となる体を作るために、優雅なるダンスを学ぶのです!」
女性の体育が新時代に入りました。
シマは、たった一人でマラソンの練習を続けます。
腹部を締め付ける帯を取り払い、思いっきり駆け出しました。
スヤの怒り・四三の想い
臨月近くになったスヤは、東京の四三の元にやってきていました。
播磨屋の辛作からチュニックをプレゼントされたスヤは、妊婦にも優しい服だと喜びます。
スヤの言葉に辛作は驚愕しました。
四三が結婚していることは知っていたけれど、スヤが妊娠していることまでは知らなかったというのです。
どうして四三は話さないのかと言う辛作に、スヤは妊娠のことは知らないふりをして欲しいとお願いします。
何も言わないのは、四三なりになにか考えがあるからだというのです。
せっかく身重の体でスヤが来たというのに、四三が家にいないことを辛作が非難しようとすると、スヤは、四三を庇い「直に帰ってきます」と言いかけたのです。
そこに美川が播磨屋に帰ってきて、四三は帰ってこないと言うのです。
数日前、秋葉(柴田鷹雄さん)という弟子が訪ねてきて、下関から東京までの1200Kmを走破する計画を立てていたというのです。
そのため、四三と秋葉は夜遅くまで練習していると言います。
さらにその傍ら、著書「ランニング」の出版記念講演会で全国を巡っているという四三の多忙さにスヤは驚きます。
その間、自分が四三の部屋で留守番をしている、と寝っ転がる美川に、スヤは怒りをぶつけます。
「美川に言ってもしかたがないけど!」
夏には帰ると言っているけど、四三が何を考えているかわからない、四三はマラソンをするために自分と結婚したのか、結婚したことも誰にも言わず、四三は何を考えているのか!
マラソンをやめたら自分は、子供はどうなってしまうのか!
スヤは美川に思いっきり怒りをぶつけました。
すると美川は、四三の日記を取り出しました。
読んだのかと美川を非難するのですが、好奇心には抗えず、美川が四三の日記を朗読するのを認めてしまいます。
すると、美川はあるページを探し出し、読み始めました。
「スヤの夢ば見る」
その言葉を聞いたとたん、スヤは美川から日記を奪い取り、自分で読み始めました。
四三の日記にはスヤの夢を見たと書き始めてありました。
その中ではベルリン大会は中止になっておらず、きちんと開催されその中で四三はマラソンで金メダルを取っていたというのです。
祝勝会で様々な人々から祝福を受ける四三。
一緒に走った選手たちも祝勝会に参加し、四三は勉強したドイツ語でお礼のスピーチをしています。
祝福にお礼を言い、支えてくれた人々に感謝を述べ、そして妻・スヤを紹介します。
スヤは人形のような白いドレスを着て登場しました。
四三はスヤを傍らに呼び、参加者全員にスヤを紹介し祝福を受けたというのです。
「これまでの励ましと支援に応えるに、金メダルより相応しきものなし」、と金メダルをスヤにプレゼントして感謝の気持ちを表したのです。
そして目が覚めた四三は、いつか必ずこの夢を叶えてみせる、スヤと生まれてくる子供のために、と決意を固めたのです。
四三の日記を読んだスヤは、忙しい四三には会わず熊本に帰ることにしました。
夜遅く、播磨屋に戻った四三は、辛作からスヤが今帰ったばかりだと聞かされ、裸足のままスヤを追いかけます。
辛作は四三が履き忘れた足袋を手に取り、底がボロボロになっていることに気づきました。
スヤの乗った市電になんとか追いついた四三は、市電に乗り込みスヤの隣に座り込みました。
スヤの体調を気遣う四三にスヤはそっけない態度です。
四三はスヤの手を取りお守りを握らせます。安産のお守りを確認したスヤは、四三が裸足のまま自分を追いかけてきたことに気づき、思わず笑ってしまいました。
四三なりにスヤを想っている事に気づいたんですね。
「夏には帰る」という四三ですが、途中で何かに気づいたように目が泳ぎます。
スヤはそんな四三を見て、笑顔のままそっと目を伏せるのでした。
1919年(大正8年)4月28日、熊本でスヤは無事、男の子を出産しました。
名前は正明と命名されました。
その夏、四三は秋葉と計画していた下関東京間1300Km走破に挑戦、20日間かけてそれを見事完走していたため、約束していた夏の帰郷はしていなかったのです。
ひどいお父さんですね。
播磨屋の足袋
四三は足袋の更なる改良点を見つけ、辛作に頼み込んでいました。
しかし辛作は、それだけはどうしても受け入れられないと四三の要求を退けます。
その改良とは、足袋の底をゴム底にして欲しいというのです。
下関東京間1300Kmを走った際に、足袋は途中でだめになってしまったと言うのです。
長距離を一足で走るためには、どうしてもゴム底で無ければならないと四三は主張するのですが、辛作は底をゴムにしてしまったらそれはもう足袋ではない、靴だ、と言うのです。
靴職人に作ってもらえ、と言い放つ辛作に四三は、辛作のマラソンシューズに勝るものはない、と熱弁をふるいます。
しかし、「シューズ」という言葉が気に入らなかった辛作は、四三の土下座に目も呉れず、立ち去ってしまいました。
その頃、自動車の普及に伴い、街のいたるところの舗装が進んでいました。
車夫の清さんは足袋で街中を走り回りますが、舗装された道路では足が痛くてたまらないと愚痴をこぼしています。
その頃、孝蔵は清さんに言われて身を隠していました。
ヤクザ者の徳重に探され、寄席を見張られているため寄席にも出られません。
徳重と話をつけた清さんは、孝蔵に東京をしばらく1年ほど離れていろと言うのです。
そして孝蔵の飲み代を支払い、出世払いでいいと笑うのです。
今は孝蔵よりも上手い芸人は多いけれど、これから先、孝蔵はどんどん上手くなって大物になると清さんは言うのです。
徳重に見つかりそうになったことに気づいた清さんは、孝蔵の首を掴み、走れ、と孝蔵を送り出し、自分は徳重やその手下に突っ込み、孝蔵を逃がすために満身創痍になりながら足止めをしたのです。
清さんが気になりながらも孝蔵はその足で東京を離れました。
1919年、パリ講和会議を経て、第一次世界大戦が終わりました。
その頃、四三は日光から東京130Kmに及ぶ駅伝大会を開催しようと企画していました。
学生たちは駅伝で参加し、四三はたった一人で130Kmを走破するというのです。
人間の持久力の限界に挑戦する、という四三に野口(永山絢斗さん)は驚愕します。
その話を聞いた辛作は、四三のもとに行き、ゴム底の足袋を手渡したのです。
足袋のせいで完走できなかったと言われたくない、という辛作に四三は深く頭を垂れ、感謝したのです。
2年間アメリカに留学していた可児徳(古舘寛治さん)が帰ってきて女子体育の授業に加わり、女子体育も活発になり始めました。
その頃、嘉納治五郎は大体協が揉めているためスタジアムが作れない、と憤っていました。
四三が新しい夢を見つけた頃、嘉納もまた日本にストックホルムで見たようなスタジアムを作り、いずれは日本にオリンピックを招致したいという夢を持ち始めていました。
人々が集い、身体を動かすための競技場、世界に恥じないスタジアムを作りいずれはここでオリンピックを!と夢を語ります。
そして四三は日光東京間、130Km駅伝対マラソン大会を決行、勝負は駅伝に負けたものの四三は130Kmを20時間で走破しました。
ボロボロになりながら戻ってきた四三の履いていた足袋を見た辛作は、底が抜けておらず一足で130Kmを走破したことに驚喜します。
駅伝に四三は負けたけど、播磨屋の足袋は130Kmの道のりに勝った!と大喜びです。
そして、四三に感謝の言葉を言うのでした。
走り終えた四三は、こんな言葉を残しました。
「もう、日本に走る道は無か、燃え尽きた」と地図の上で大の字に倒れるのでした。
嘉納宛にフランスから手紙が届きました。
相手はオリンピック創始者のクーベルタン男爵です。
1920年の夏、8年ぶりにオリンピックが開催されるという知らせを受けた嘉納は、驚喜したのです。
次回、第19回「箱根駅伝」
ストックホルム大会から8年ぶりにオリンピックが開催されることになりました。
四三は新しい箱根駅伝の構想に力を注ぎながら、オリンピックが気になります。
オリンピック選考会として箱根駅伝が開催され、大盛り上がりを見せます。
お正月の風物詩、箱根駅伝発祥のお話です。
毎年欠かさず見ている箱根駅伝の始まりのお話には興味がつきません。
次回、第19回「箱根駅伝」、次回も見逃せませんね。