2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回第18回は、女子体育の新時代の幕開けと、主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)が日本全国を走破したこと、マラソン足袋の完成というお話でした。
旅の師匠・小円朝との旅を終え、美濃部孝蔵(森山未來さん)は東京に戻ってきました。
孝蔵の帰還を喜ぶ清さん(峯田和伸さん)ですが、タイミングが悪いと頭を抱えてしまいます。
それというのも、遊女の小梅(橋本愛さん)が男と駆け落ちをしてしまい、そのせいで孝蔵がヤクザ者に追われているというのです。
小梅は、囲われていた徳重(榊英雄さん)に「売れない芸人の三遊亭朝太に惚れている」と言って飛び出してしまいました。
本当の相手は四三と東京高師の同級生・美川(勝地涼さん)で、地方を巡っている孝蔵ならば徳重の手が届かないという、小梅の考えでした。
そこに運悪く帰ってきてしまった孝蔵は、清さんに言われ、隠れることになりました。
小梅と美川は四三を頼り、美川は四三のもとで匿われることになりました。
その頃、女子体育には変革が起こっていました。
英国に3年留学した二階堂トクヨ(寺島しのぶさん)は、女子体育の服装について7つの間違いがあると指摘します。
女子の体のことを全く考えない服装に疑問を投げかけ、代わりとして新たにチュニックを推奨します。
これまで、永井道明(杉本哲太さん)の教えに感銘を受けていたトクヨですが、3年の留学で「女子の体育は女子の手で、子を産み、母となる体を作るために、優雅なるダンスを学ぶのです!」
と女子体育に革命を起こしました。
マラソンに強い興味を持っていたシマ(杉咲花さん)は、マラソンに不向きな和装にたすき掛け、四三と同じように足袋という姿で、たった一人、マラソン練習に励んでいました。
しかし、トクヨの女子体育の変化を受け、息苦しい帯を取り払い、勢いよく走り始めたのです。
女子体育の新時代の始まりでした。
もうすぐ臨月を迎える四三の妻・スヤ(綾瀬はるかさん)は、再び東京に来ていました。
しかし、四三はマラソンに忙しく、播磨屋にいないばかりか、スヤの妊娠のことすら店主・黒坂辛作(三宅弘城さん)に伝えていなかったのです。
部屋にいない四三の代わりに部屋に住んでいるのは美川です。
美川から四三がしていること、成し遂げようとしていることを聞いたスヤは、四三が何を考えているのか分からず、美川にその怒りをぶつけます。
怒りをぶつけられた美川は、四三の日記を取り出し、スヤに朗読し始めたのです。
その日記で、四三の気持ちを知ったスヤは、戻らない四三に会わずに熊本に帰ろうと市電に乗りました。
夜遅く、練習から帰ってきた四三は、スヤがたった今出て行ったと聞き、裸足のまま市電を追いかけたのです。
辛作は、四三が置いていった底がボロボロになった足袋を手に取り、見つめました。
なんとか市電に追いつき、スヤに会えた四三は、肌身離さず持っていた安産のお守りをスヤに手渡しました。
何かと蔑ろにされ、不安を感じていたスヤは、四三の不器用な優しさにただ微笑むのでした。
そして、1919年(大正8年)4月28日、スヤは熊本にて元気な男の子を出産。
四三は、後輩の秋葉(柴田鷹雄さん)とともに、下関東京間1300Km走破に挑戦、20日かけて成功しました。
一方、清さんに言われ隠れていた孝蔵でしたが、運悪く徳重に見つかり、清さんの体を張った足止めのおかげで、徳重から逃れ、東京を離れることになりました。
四三は更に東京日光間130Km、マラソン対駅伝という対決を思いつき、四三1人に対し、学生は駅伝で走る、という無謀な挑戦を企画しました。
野口源三郎(永山絢斗さん)らは、四三の無謀な企画に驚愕しますが、その話を聞いた辛作は、四三にゴム底に改良した足袋を手渡し激励したのです。
その足袋は、四三が辛作にずっと改良を頼んでいた物でしたが、「紐で縛り、底がゴムならそれは足袋ではない、靴だ」と改良を拒んでいたものでした。
四三は辛作に深く頭を下げ、この挑戦に挑んだのです。
そして、行われたマラソン対駅伝の戦い、四三はさすがに駅伝には勝てなかったのですが、これまでと違い、足袋を替えることなく130Kmを完走。
辛作は「130kmに勝った」と大喜びです。
辛作は金栗足袋を完成させ、これからのランナーのためになくてはならない存在となったのです。
走り終えた四三は、「もう日本に走る道は無か」と呟きました。
その頃、嘉納治五郎(役所広司さん)に、クーベルタン男爵から8年ぶりにオリンピックを開催するという知らせが届いていました。
前回第18回「愛の夢」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第19回「箱根駅伝」のあらすじと感想です。
次はアメリカ横断大駅伝レース
前回、日光東京間130Kmを20時間かけて1人で走破した四三は、もう日本に走る道はないと呟きました。
そして思いついたのが、アメリカ横断マラソンです。
サンフランシスコからスタートしてロッキー山脈を走って超えて、中部農村地帯横切り、ニューヨークまで4000Km。
1日40Km走るとして100日掛かると気づいた四三は、一人ではなく駅伝方式で走ることを思いつきます。
走る選手も熟考しなければ、と野口と考えているところに、明治大学の沢田英一(矢崎広さん)がやってきて、予選会を開いたらどうかと提案します。
今や、全国で名を知らぬ者がいないほどのマラソンランナーである四三が呼びかけたら足に自信がある者達が集ってくるというのです。
一理あると考えた四三は、予選会を開くことを決定、コースはどこにしようかと迷います。
アメリカ横断・ロッキー山脈を越えることが前提になっているマラソンですから、生半可なコースでは選考になりません。
そこで、四三の部屋から見える箱根の山がコースに選ばれました。
箱根の山は天下の険、こうして、アメリカ横断マラソンの予選会は箱根で行われることになりました。
昭和36年東京、志ん生の自宅でもお正月を祝っていました。
お正月にやる落語を駅伝落語と銘打ち、3人の噺家で1つの話を繋いでいこうというのです。
しかし、第一走者(噺家)の五りんは、お題の『富久』が全く覚えられず、兄弟子の今松(荒川良々さん)や志ん生(ビートたけしさん)の娘・美津子(小泉今日子さん)に怒られてばかり。
ついにはふてくされて、志ん生の妻・りん(池波志乃さん)に泣きつきます。
すると志ん生は、『富久』ができないならば新作を自分で作れと五りんにアドバイス。
その言葉を待っていたかのように、五りんは新作落語『箱根駅伝』を志ん生に見せるのでした。
四三は、箱根駅伝を開催することを嘉納(役所広司さん)に報告します。
嘉納は喜ぶのですが、すかさず岸清一(岩松了さん)が予算はどうするのかと尋ねてきます。
四三は報知新聞がスポンサーについた事を報告し、予算面はクリアできました。
嘉納は四三に嬉しい知らせがあると言い、ストックホルムから8年ぶりにオリンピックが開かれることを明かしました。
開催は1920年の夏、次の場所は、ベルギーのアントワープ。
戦争の傷がまだ癒えない地域での開催のため、これまでよりも規模が縮小されるかもしれないが、戦争で被害を受けたこの地の現実を見て欲しい、とアントワープのIOC委員が主張した結果でした。
嘉納は、アントワープの心意気は素晴らしいと讃えます。
そして四三に箱根駅伝は、アントワープオリンピックの予選会でもあると嘉納は四三に告げたのでした。
正月は箱根の準備で忙しく正月返上で頑張ろう、という嘉納に力強く頷く四三ですが、スヤや幾江の顔が次々と思い浮かび四三の頭は一気に冷えました。
四三は迷いを吹っ切るように深夜、冷たい水を浴びながら考えます。
そこで思いつきました。
前回、ストックホルム大会は自腹と言われ、高師の人々の好意と実次が田んぼを売って池部家から借金してできた金。
今回も大体協からお金が出ることなどないと踏んだ四三は、今回の池部家の財産を当てにする他なし、覚悟を決めました。
熊本へ帰郷
四三からの「帰らない」という手紙をスヤが読んでいた所に四三は帰ってきました。
スヤは驚きつつも喜び、池部の人々も喜びます。
一人、幾江だけは四三に冷たい態度です。
四三は、この時初めて自分の息子に対面したのでした。
幾江から新年の挨拶を任された四三は、何を話せばいいか戸惑いつつ、今度アントワープでオリンピックが開かれると意気揚々と語ります。しかし、喜んだのはスヤと実次だけ。
話を盛り上げようとしたところで幾江から「明けましておめでとうございます、乾杯」と声がかかり、途中で遮られてしまいました。
その頃、東京の大体協では、臨時の理事会が開かれていました。
アントワープ大会の競技種目の中に、マラソンが見当たらなかったからです。
前回、死者がでたマラソンは、選手の安全を考えても外すべきだと言うのです。
それでも、亡きラザロの遺志を継ぎ、次の大会でもマラソンを開催するとクーベルタンは誓ったと嘉納は主張します。
そこに、二階堂トクヨは現在のベルギーの市街地の写真を嘉納に見せたのです。
戦地となったアントワープの地は荒れ果てており、道はボロボロ沿道には瓦礫、これでは選手は走れず、沿道で観客が見ることもできません。
日本が唯一メダルを狙える競技だからといって、直訴するのはいかがなものかと、大体協の面々も直訴に否定的です。
実次が四三の元にやってきて話しかけますが、その話し方はまるで偉い人を敬うような話し方。
「四三さん」と語りかける兄に戸惑いながら、次に行われる箱根駅伝について熱く語っていると、幾江はいつ玉名に帰ってくるのだと四三に問いかけます。
四三は答えることができません。
結婚して6年もたったのに、未だに四三と一緒に暮らすことができないスヤを不憫に思っての発言でした。
実次は、「オリンピックを立派にやり遂げたら帰ってきます」と断言し、四三にも無理やり頷かせたのですが、幾江の顔は渋いままです。
四三は、義母・幾江の放つ威圧感にたじろいでしまうのでした。
夜、スヤと長男・正明と川の字になって横になる四三は、スヤに謝りました。
正明の夜泣き、育児の大変さを知り、今度のオリンピックで勝ったらマラソンを引退し、玉名に帰ってくるから、一緒に暮らそうと約束するのです。
しかし、スヤに負けたらどうするの?帰ってこないの?と問われ、言葉が出ません。
スヤは、四三は必ず勝つからそんな心配はいらない、と言い、四三のこれまでの苦労を労いました。
東京に戻った四三は、有力選手たちと練習に励みます。
大体協では、オリンピック選考選手についての話し合いが行われていました。
今回は、岸清一(岩松了さん)の手腕により、監督1名、選手6名分の費用が出せそうです。
嘉納はそれに喜ぶのですが、まだ四三にマラソンがないことを伝えられず、クーベルタンに直訴する方向で考えていました。
言えないなら言いましょうか、と他の委員が言っても、8年間誰よりも努力し続けてきた男に、マラソンがないなんて言えるか、と嘉納は叫びます。
ちょうどその時、四三が選手たちを引き連れて大体協にやってきました。
オリンピックのマラソン選手枠を6名に増やして欲しいというのです。
次々と好記録を出す有力選手たちがいれば、金銀銅は、日本が独占できると意気揚々と語る四三に、嘉納は本当のことを言えず、その要求を受け入れてしまいます。
箱根駅伝に向けてエールを送り、四三たちを送り出しました。
箱根駅伝、開催
昭和36年、古今亭志ん生が箱根駅伝落語に挑戦していました。
第1走者(噺家)は古今亭志ん生。落語の作者は弟子の五りんです。
噺家達がリレー方式で箱根駅伝について話し始めます。
アメリカ横断駅伝の予選会として企画された箱根駅伝ですが、アントワープオリンピックの予選会も兼ねていました。
出場に名乗りを上げた学校は、明治・東京高師・早稲田・慶応の4校だけでした。
箱根駅伝のコースは、往路5区間、復路5区間の全10区間217Km。
スタート地点は東京有楽町、往路のゴールは箱根の芦ノ湖です。そこで一泊して2日目は芦ノ湖から有楽町まで帰ってくるのです。
四三らは距離を計算して朝の8時にスタートしようとしていましたが、これが永井やトクヨに猛反対されました。
8時は授業中、10時もダメ、12時は昼食を取れ、と言われ、仕方なくスタートは午後1時。
そして1920年2月14日午後1時、記念すべき第1回箱根駅伝はスタート。
アントワープオリンピックの代表選手の候補を探すべく、四三は車に乗り込んで伴走します。
ここで、箱根駅伝落語の走者が代わりました。
第3走者(噺家)は今松。
原作に書いていない目先の笑いを取りに行き、五りんはご立腹です。
そこに現れたのは志ん生の長男、美濃部清(森山未來さん)。
飛び入りですが第4走者(噺家)として話し始めます。
もはや真打で金原亭馬生の名がある馬生の語りはなめらかで、五りんのノートをちらっと見ただけで完璧に話します。
第1区は有楽町から鶴見に向かいます。
1位は明治、2位高師、3位早稲田、4位慶応の順に中継地点を通過していきます。
鶴見から戸塚、戸塚から平塚、平塚から小田原。順位は変わりません。
ここで、噺家は志ん生の次男・古今亭朝太 (森山未來さん)こと美濃部強次に代わりました。
まだ二枚目ながら華がある噺家で、役者としてテレビや舞台にも出ています。
小田原から箱根への道のりは、山道を進まなければなりません。
見張りがいないと聞いた学生たちは、近道をしようと山に下見に入り、目印をつけていました。
トップを走る明治の沢田も、下見で近道に目印をつけていました。
しかし、1時からのスタートで、時間は既に夜だったため印が見えず、迷子になりかけていました。
そこに現れたのは、地元の青年団。
猪よけの空砲を鳴らし、松明を持った中学生達がゴールまで先導してくれました。
1日目、午後8時、往路の優勝は明治、記録は7時間30分36。
明治に遅れて8分後に東京高師、更に16分遅れで早稲田。慶応は箱根の山で迷子になり1時間22分遅れでゴールしました。
箱根駅伝2日目
2日目、四三が朝目覚めてみると箱根は一面の銀世界。
積雪6cm気温はマイナス4度で、とてもではありませんがマラソンをできる天候ではありませんでした。
本部の野口は四三に大会の中止を進言するのですが、その頃箱根では、地元の青年団、住民、学生、湯治客まで総出で雪かきをしてコース整備をしてくれているのです。
四三は、これで中止はできないと続行を宣言。
しかし、雪が積もった道では滑ってしまって選手たちが危険です。
四三は、選手が履いている足袋を集めて、ゴム底に溝を掘り始めたのです。
選手は皆、辛作が開発した金栗足袋を履いていました。
ゴム底に溝をつけたことにより滑り止めができ、選手は無事山を下ることができるようになったのです。
こうして2日目は予定通り朝7時にスタートしました。
車で付いていく予定の四三でしたが、雪で車が動かず、選手たちの後を追って走ってついて行ってしまったのです。
箱根から小田原、小田原から平塚、平塚から戸塚と続く道を四三は選手1人ひとりについて叱咤激励しながら伴走します。
平塚から戸塚へ向かう道ではまた雪が降り始め、沿道の人々が選手たちの通る道に傘のトンネルを作り、走り続ける選手たちのために、おにぎりを差し出すなどの光景が見られました。
途中経過を電報で知らされていた嘉納は、いてもたってもいられず、ゴール地点に向かうことに。そして、今までマラソンにあまり興味を示さなかった岸も行くと言うのです。
ゴール有楽町に、大体協の委員たちが集まりました。
最終区、鶴見から有楽町。雪を蹴り上げてのデッドヒートが繰り広げられていました。
1位明治の選手は足を負傷したらしく、足を引きずりながら走っています。
2位高師との差は約5分。
そして新橋あたりで2校はついに並びました。
報知新聞社に向かう最終コーナーで明治・西岡が転倒、追いかける高師・茂木が明治を抜き、1位でゴールしました。
記録は15時間5分16。
転倒した明治の西岡を岸は懸命に応援し、ゴールまで励まし続けます。
西岡をゴールにまで導いた岸は、嘉納のもとに走り寄ると、クーベルタンに直訴しようと嘉納に訴えました。
こんなに感動するマラソンをオリンピックでやらないのはおかしい。
戦争の被害にあったアントワープだからこそ、やったほうがいいと力説したのです。
そして嘉納はクーベルタンに向けて手紙を書きました。
日本ではマラソンは国民的スポーツとして成長・浸透しており、いだてんを筆頭にメダルを狙える選手がたくさん育っている、マラソンの起源は古代ギリシャのマラトンの戦い、マラソンの歴史はすなわちオリンピックの歴史である、ぜひ、ご一考されたし、と書き送りました。
昭和36年の箱根駅伝落語も終を迎えています。
五りんが最終区を務めていますが、どうしても最後の下げ(落ち)が出てきません。
ここで志ん生が現れ、「マラソンのないオリンピックなんて、黒豆のないおせち料理のみたいなものです」としめました。
次回、第20回「恋の片道切符」
いだてん2度目のオリンピックの開催です。
箱根駅伝に感動した岸は、四三に「必ずアントワープに連れて行ってやる!」と断言していましたが、どうなるのでしょうか。
諦めずにオリンピックを待ち続けた四三の挑戦の結果が気になりますね。
久しぶりに三島弥彦(生田斗真さん)も出てくるようで、期待大ですね。
次回、第20回「恋の片道切符」。次回も、目が離せませんね。