2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回第19回は、箱根駅伝発祥の物語でした。
オリンピックベルリン大会中止から主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)は、日本中を駆け巡りました。
あらゆる大会に精力的に参加し、京都から東京まで517Kmを駅伝で走り、後輩らと企画した日光東京間130Kmマラソンを20時間ぶっ続けで走るという無謀な挑戦にも果敢に挑み、それら全てを見事走破しました。
そして四三は一言「もう、日本に走る道は無か」と呟きました。
日本に走る道がなければ海外に行けばいい、そう考えた四三はアメリカ横断を思いつきました。
サンフランシスコからニューヨークまで4000Km、途中にはロッキー山脈まである過酷なコースです。
流石に一人で走りきるには難しい距離のため、四三は駅伝方式で走ることを思いつきました。
後輩の野口源三郎(永山絢斗さん)と相談をしているところに、播磨屋にゴム底の足袋を買いに来た明治の沢田英一(矢崎広さん)が現れ、予選会を開こうと提案しました。
山越えまである過酷なコースのため、予選会のコースも山越えを含むコースにしなければなりません。
四三は自室の窓から見える箱根山をコースに選びました。
嘉納治五郎(役所広司さん)に箱根駅伝開催の報告に行くと、嘉納から8年ぶりにオリンピックが開催されることを聞かされました。
ベルギーアントワープで行われるオリンピックに四三は奮起します。
四三が行う箱根駅伝は、オリンピック代表選手選考会も兼ねることになりました。
正月、熊本に帰郷した四三は、初めて息子に対面しスヤにこれまで苦労をかけ続けたことを謝ります。
今度のオリンピックで結果を出し、引退して熊本に帰ってきて家族と一緒に暮らすというのです。
スヤはもし結果が出なかったらと不安がよぎるのですが、四三ならちゃんと金メダルをとれるはずと思い直すのでした。
東京に戻った四三は更に練習に打ち込むようになりました。
後輩たちも育ってきて、オリンピックでは金銀銅を日本が独占できるほどの実力をつけていると、オリンピック選手枠を増やして欲しいと四三は嘉納に進言します。
しかし、大体協で会議をしていた嘉納は、四三の進言に困り果ててしまいました。
それというのも、アントワープオリンピックではマラソンが競技種目から外されていたからです。
ストックホルム大会では猛暑のため死者を出し、今回の開催地のアントワープは戦争の余波で街は瓦礫で滅茶苦茶でした。
そんな状態では、マラソンの開催はかなり難しい。
嘉納はクーベルタン男爵にマラソンの開催を直訴しようと考えていましたが、他の委員たちはマラソン抜きの選手決めに着手していました。
そこへ来てマラソンが入っていないなど、なんの疑いも持たない四三からの進言です。
他の委員たちは早く伝えた方が良いと言い、嘉納は8年間誰よりも努力し続けた四三に、マラソンが無いなどとは言えないと悩み、真実を隠したまま、四三の進言を受け入れたのです。
そして、1920年2月14日午後1時、記念すべき第1回箱根駅伝はスタートしました。
参加した学校は、東京高師・明治・早稲田・慶応の4校です。
四三は運営として、車に乗り込んで伴走します。
1日目は7時間30分36秒で東京高師を振り切って明治の勝利。
2日目、箱根の山は6cmの積雪で、とても走れるような状態ではありません。しかし、地元の協力でコースから雪がどかされ、選手の転倒対策のために、四三は金栗足袋のゴム底に溝をつけて滑りにくい加工を施して駅伝を続行させました。
あまりの寒さに車は動かなくなり、四三は走って選手たちを追いかけます。
最終区では明治の選手が足を負傷しながら走り、2番を走っていた東京高師に並ばれてしまいます。
激しいデッドヒートが繰り広げられ、ゴール手前最終コーナーで明治の選手が転倒、それを追い抜かし、第1回箱根駅伝大会は東京高師優勝で幕を閉じました。
この駅伝大会で、これまで否定的な意見を発していた大体協理事の一人・岸清一(岩松了さん)も駅伝の魅力に引き込まれ、アントワープオリンピックにマラソン開催を呼びかける直訴に賛成したのです。
そして嘉納は、クーベルタンに親書を送り、マラソンがどれほど日本の中に根付いているのか、素晴らしい選手が育っているのかを説明します。
マラソンの歴史はオリンピックの歴史、ぜひご一考されたし、と書き送りました。
前回第19回「箱根駅伝」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第20回「恋の片道切符」のあらすじと感想です。
マラソン復活!代表選手選考
箱根駅伝は大成功に終わり、マラソンに懐疑的だった岸もマラソンの素晴らしさにはまり、アントワープオリンピックにマラソンがないのはおかしい、やるべきだ、と主張するようになりました。
嘉納はIOC会長のクーベルタン男爵に直訴状を送り、それを読んだクーベルタンはオリンピックにマラソンを復活させたのです。
今回のオリンピックでは、岸の手腕により選手団の渡航費が出されることになりました。
そのうえで、選手選考が行われます。
マラソンの出場人数は4人。
四三と、箱根で好成績を出した高師の茂木、早稲田の三浦、小樽中学の八島が選出されました。
四三がストックホルムから持ち帰った投擲の道具に興味を持った野口は十種競技に出場することを宣言しました。
そして、今回は陸上だけでなく、水泳とテニスも出場です。
水泳といえば、名門は浜名湾游泳協会です。
その頃、東京を追われた美濃部孝蔵(森山未來さん)は浜松の勝鬨亭に世話になっていました。
勝鬨亭のちいちゃんと孝蔵は「八百庄」のまーちゃんについて噂話をしていました。
まーちゃんこと田畑政治(原勇弥さん)は18歳、春から帝大の学生になっていました。
競技者になる道は絶たれましたが、政治は浜名湾游泳協会で後輩指導に当たっていました。
今度のアントワープオリンピックで浜名湾から内田正練が代表選手に選ばれました。
この頃の日本水泳は源平時代から受け継がれた武術としての古式泳法(日本泳法)を行っていました。
なるべく体力を使わず、水に顔をつけず、甲冑をつけていても足を縛られていても泳いで逃げられるようにと考えられた戦で役に立つ泳法です。
内田は、海外ではクロール泳法が主流になっているが、自分の「片抜手一重伸」泳法ならば、クロールにだって勝てると豪語します。
政治も内田に同調、日本水泳は負けないと自信に満ち溢れていました。
女子スポーツ
東京で、シマは相変わらず1人で誰にも見つからないようにこっそりとマラソンの練習に励んでいました。
いつもは四三の早朝冷水浴よりも前に走り終えていたのですが、その日はなぜか四三が早く冷水浴を終わらせていて、練習を四三に見つかってしまったのです。
オリンピックが決まったから寝ていられず早起きしてしまったと話す四三にシマは、オリンピックに女子の参加はないのですかと、尋ねます。
体が違うから男のように出場はしないという四三にシマは不満をぶつけます。
「運動は推奨するのに競い合ってはいけないなんて理不尽です、男が走れば喝采を浴びるのに、女は人目を気にしてこっそり走らなければならないなんて、女子体育には間に合いましたが、女子スポーツには、私まだ早すぎたんでしょうか」とシマは葛藤します。
四三は世の中が変われば、オリンピックの輪に女子の輪が加わる、とシマを慰めるのでした。
監督は誰?
今回のオリンピック日本選手団の人数は総勢15人。
可児徳(古舘寛治さん)は、今回こそ自分が監督を、と考え、ライバルである永井道明(杉本哲太さん)に監督の打診があったかと探りを入れてきました。
永井は、打診はあったが断ったと可児に告白します。
嘉納との柔道の最中に監督の打診を受けた永井は、国家のために辞退をすると断ります。
自分が行っても何一つ選手を指導できないからと言うのです。
これまで自分はスウェーデン体操と肋木こそが日本人の体力向上に繋がると信じ、指導をしてきたが、時代はどんどんと移り変わり自分の理論は古くなってきてしまった、もはや淘汰されるべきなのだと言うのです。
そのため、日本スポーツ界が変わるためそして、自分の美学を貫くために、自分は大体協を去る決意を固めたと永井は告白しました。
可児は、これで自分が監督、と色めきたつのですが、大正9年5月、アントワープオリンピック壮行式で監督と紹介されたのは東大陸上部出身の弁護士の辰野保でした。
出発
今回の旅程はアメリカ周りで5か月かかります。
横浜から船でサンフランシスコ、そこから陸路でソートレイキシティ、シカゴ、ニューヨーク、ここで嘉納とテニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎が合流。
ニューヨークからオリンピック号という船に乗り換えロンドン経由でアントワープを目指します。
四三は熊本のスヤに手紙を書きました。
四三は勤めていた獨協中学に辞表を出し、オリンピックに集中すると報告していました。
前回のような孤独はなく、調子は良い、必ず金メダルを手土産に帰ると力強い手紙でした。
スヤは、四三がまた勝手に仕事を辞めたことに驚くのですが、四三の覚悟を肯定し励ます返事を書いたのです。
しかし、届いた先は四三の東京での住まい。
留守番の美川(勝地涼さん)はスヤの心のこもった手紙を勝手に読み、四三に転送するとスヤに手紙を書きました。
「心はアントワープに飛んだようですが、手紙は東京に届きました。中身を読むべきかの葛藤はもはや美川にはありませんでした」なんて、まったく、困った美川ですね。
船の中で、時々写真を見ている四三を不思議に思った同じ日本選手団の面々は、写真の中の女性が誰なのか推理します。
野口は四三には3人の女性の影があるといいます。
1人は四三に水をぶっかけた女性、2人目はミルクホールの女給、3人目は女講師の二階堂トクヨ。
野口は写真の女性は二階堂トクヨだと推理します。
その頃、東京のトクヨは悩んでいました。
弟から見合いを勧められたものの、自身の心の中は他の男に奪われているというのです。
その男とは、野口源三郎でした。
トクヨは断りきれない見合いにシマを行かせ、自分の代わりに断ってくれるようにシマに頼み込むのでした。
写真の女性は誰かという謎は、ロンドン到着とともに明らかにされました。
というのも、旅券が戻された時、四三は本名の「池部四三」と呼ばれたからです。
不思議がる日本選手団に、四三はとうとう自分は7年前に池部に養子に入り結婚し子供までいることを告白しました。
そして、嘉納にのみ写真を見せたのです。
同時に、野口も赴任先の松本で結婚し息子が1人いることを告白、トクヨの思いは破れてしまいました。
アントワープオリンッピック開幕
1920年8月3日、日本選手団はアントワープに到着。
8月14日には開会式が開かれます。
当日、日本選手団の控え室に、かつて四三とともにストックホルムを戦った三島弥彦(生田斗真さん)が顔を出しました。
自分たちの時代とは全く違い、日本専用の控え室をみて、弥彦は感動します。
四三は、そこにいる選手たちを弥彦に紹介し、自分たちに憧れてスポーツを始めた選手たちがオリンピックに出場していると語ります。
弥彦は、緊張している選手たちに天狗倶楽部直伝の応援を行い、選手たちを鼓舞しました。
四三はプラカードを、野口は国旗を持ち、意気揚々と開会式に足を踏み出しました。
アントワープオリンピックの開幕です。
報告会
そして3か月後、日本にてアントワープオリンピック報告会が行われました。
しかし、その中に四三の姿はありません。
団長・嘉納の姿もなく、主将・野口が報告を始めました。
まず、嘉納はベルギー・ドイツ視察後に帰国することを報告します。
そして、結果の報告です。
テニスの熊谷一弥がシングルスで銀メダル。
ダブルスで熊谷一弥と柏尾誠一郎が銀メダル。
陸上十種競技に出場した野口は12位。23人中11人が棄権した中で野口は十種全てをやり遂げ最下位の12位。悔いは無いとブーイングの中、堂々と宣言しました。
他の陸上は全て予選落ちか棄権、水泳もクロール泳法に全く歯が立たず、惨敗。
報告会の中で内田は、クロール泳法の早期修得と普及、そのための優秀な指導者の必要性を訴えました。
そして、22日午後2時から始まったマラソン。
小雨が降る中行われました。
雨が心配と言う永井に、四三は羽田を思い出すと力強い言葉を残し、スタートラインに向かいました。
茂木・八島・三浦は、完走を目標に、四三はメダル獲得を目標にスタートします。
スタートから飛ばす西洋人選手を見ながら、四三は後輩選手たちを「自分のペースで」、と無理をさせないように励まし導きます。
途中、四三はペースを上げ、折り返し地点では25位、茂木らとすれ違った時には順位を5位まで上げていました。
しかし、35Km地点で失速。順位を落とします。
原因は、8年間日本中を駆け巡ったことによる無理がたたり、足が限界を迎えていたからでした。
スタート前、弥彦は四三が足を庇っているのを見て心配しますが、四三は、オリンピックが急に決まるから足を休ませ無茶をしないようにすることもできなかったと笑いました。
8年間、よく頑張ったと労う弥彦に、四三は心情を吐露しました。
ベルリンが中止になった後の4年間はやけくそで走っている間だけ不安から逃れられたと言います。
8年という年月は四三の心と体に大きな負担を科していたのですね。
四三の記録は2時間48分45。16位でした。
茂木は20位、八島は21位、三浦は24位でした。
この結果に、報告会に集まった記者たちから怒号と罵声が湧き上がります。
選手たちは、自分たちを必死に守り導いた四三を悪く言われ「この非国民が!」の言葉に怒りを爆発させ、一触即発の状態になってしまいました。
二階堂トクヨは、本来ならなかったはずのマラソンを、日本がメダルを狙えるからという理由で復活させておきながらこの体たらく、赤っ恥をかいたと辛辣な言葉を投げかけます。
嘉納の責任を問い、辞任を要求するのです。
頑張った選手たちを非難する記者たちに怒りを爆発させたスヤは「しぇからしかっ」と立ち上がりました。
四三は頑張った、自分にとっては金メダル、参加した選手たちもよく頑張ったと選手たちを労います。
トクヨに誰だと問われたスヤは、自分は金栗四三の家内であると告げるのです。
話は終わっていないとまだ激昂するトクヨを宥めたのは永井でした。
「体協のオリンピック第一姿勢を改めない限り、我が国の体育の向上はない!」と言い切り、「50年後100年後に世界レベルに達するには私たちは何をするべきか」、と語るトクヨに永井は、嘉納が大体協の会長職を辞任するつもりであることを明かしました。
日本が世界レベルに達するには、かつて永井が行っていたように50年、100年かかるのかもしれない、しかし、重要なのは、50年後100年後の選手たちが運動やスポーツを楽しんでいてくれたら嬉しい、と嘉納の心情を語りました。
永井は野口やトクヨの肩に手を置き、古い自分たちは退くから、これからの日本の体育を頼むと、彼らに託すのでした。
その頃、四三はヨーロッパを彷徨っていました。
東京の戻っても職もない、目標もない、妻との約束も果たせませんでした。
因縁の地・ベルリンを訪れた四三は、このまま熊本に帰るか、このままずっとヨーロッパを彷徨うか迷っていました。
そこへどこからか槍が飛んできて四三の足元に刺さりました。
驚く四三の前に現れたのは女性。
槍を投げていたのは女性だったのです。
男子顔負けの力強い投擲を見て、四三は目を見張ります。
この女子たちを見て、四三は何を思ったのでしょうか。
次回 第21回「櫻の園」
ヨーロッパから戻った四三は、新たな職場として女学校を選択しました。
オリンピックが終わったら熊本に帰るとスヤと約束したのに、またもや四三は勝手に女学校に就職を決めてしまっていました。
女子スポーツを根付かせるという目標のために、四三は力を尽くすのですが、まだまだ世の中は女子スポーツに厳しいようですね。
その中で、シマはお見合い?トクヨ先生のお相手でしたよね?
これまで坊主だった四三の髪型も気になるところ。
次回、第21回「櫻の園」。女子の活躍に目が離せませんね。