2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回、第37回「最後の晩餐」は、日本で最初のIOC委員となった嘉納治五郎(役所広司さん)が孤軍奮闘し、1940年のオリンピック開催権を承認させたお話でした。
しかし、帰国の途で、嘉納治五郎は帰らぬ人となってしまいました。
1937年、日本軍は中国への戦火を拡大させていました。
国民は緊張と我慢を強いられ、若者は日々戦場へと送られていきます。
そんな中、平和の祭典であるオリンピックを日本で開催するのは矛盾ではないかと立憲政友党の河野一郎(桐谷健太さん)は、オリンピック反対論を唱え始めました。
オリンピックを開催するために建設した神宮外苑競技場でしたが、4万人ほどの収容しかなかったためオリンピックのメインスタジアムとして相応しくないと新たに10万人の人々が収容できるスタジアムの建設が必要と唱え始める政府や嘉納。
ベルリンオリンピックの絢爛豪華さに対抗し、国力を見せつけようという嘉納に副島(塚本晋也さん)は疑問を感じ始めていました。
そのため、オリンピックが国威発揚の場となることを恐れた副島は、嘉納に黙って内閣総理大臣・近衛文麿に政府が本気でオリンピックを支持するのならば追加の補助金を、それが無理ならば開催権を返上すべき、と進言したのです。
戦争が激化する中、平和の祭典であるオリンピックを日本の国力を見せつける場にしようとしている嘉納に副島は、「名誉ある撤退を!」と叫びます。
オリンピックを目指す選手たちも、世間の人々が出征するのに、自分たちだけがオリンピックを目指して良いのか、苦悩していました。
政治は、若手選手らの不安を吹き飛ばすように、「時間がない、練習に励め」と言うのですが、政治自身も戦火を広げる日本がオリンピックを開催してよいものか、釈然としない思いを抱えていました。
東京オリンピック開催時に聖火ランナーとして参加予定の金栗四三(中村勘九郎さん)は、弟子の小松勝(仲野太賀さん)を伴い、熊本から東京に来ていました。
弟子の育成に励む四三は、議員の河野がラジオで連日オリンピック反対論を流しているのを聞き、河野と話がしたいと、朝日新聞社にやってきました。
しかし、河野は記者をやめており、その場には政治たち記者しかいません。
四三は政治に本当に東京でオリンピックはできるのだろうかと疑問を投げかけました。
四三が体力的にピークの時、戦争によりオリンピックは中止になりました。
今回、戦争の当事者である日本がオリンピックを開催できるのか、それは矛盾ではないのか、と四三は政治に問いかけるのです。
政治も四三と同じように、ずっと矛盾を感じ続けていました。
矛盾があろうとなかろうと、四三は小松をオリンピックで走らせたい、政治は東京でオリンピックをやりたいだけなのです。
そして政治は、嘉納に思いをぶつけることにしたのです。
エジプト・カイロで行われるIOC総会に嘉納は出席しなければなりません。
1940年のオリンピック開催に向けての進捗状況を報告するためです。
しかし、神宮競技場ではダメと却下したものの、代替地は見つからず補助金のあてもなく、報告できるものは何もありません。
それでも日本ならできると宣言してくると言う嘉納は、政治に同行を求めました。
しかし政治は、嘉納が開催権を返上するならついていくと、同行を拒みました。
政治は土下座をして嘉納に「開催権を返上してくれ」と懇願するのですが、嘉納の意見は変わりません。
今なら、戦争が収まった後、またオリンピックを招致できるけれど、このまま土壇場まで行ってしまったなら、もう二度とオリンピックを呼ぶことはできない、と政治は必死に訴えるのですが、その言葉は嘉納に届きませんでした。
カイロの総会では、嘉納は針のむしろにいるような心地でした。
各国から非難を浴びる中、嘉納は孤軍奮闘、自分を信頼して欲しいと頭を下げ、総会の承認を勝ち取ってきたのです。
報告すべきことが何もない状況なのに、承認を得てきた嘉納に、政治は驚愕し落胆しました。
承認されてしまったなら、もうやるしかありません。
政治は、河野に「助けてくれ」と訴えるのでした。
総会を終え、カイロからの帰国途中、嘉納は外交官の平沢和重(星野源さん)と一緒に横浜まで帰ることになりました。
横浜までの船旅の中、体調を崩した嘉納は、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
嘉納の最後を看取った平沢は、嘉納から託されたというストップウォッチを政治に渡し、それを受け取った政治は、ただ涙するしかありませんでした。
前回、第37回「最後の晩餐」を見逃した方はぜひこちらをどうぞ。
それでは、第38回「長いお別れ」のあらすじと感想です。
古今亭志ん生、倒れる
昭和36年(1961年)12月、巨人軍の優勝祝賀会に呼ばれていた古今亭志ん生(ビートたけしさん)が脳出血で倒れました。
高座を終えた五りん(神木隆之介さん)がやってきて、眠ったままの志ん生を呆然と見つめ続けています。
志ん生は、左即頭部近くの血管が切れ、意識が戻っても最悪言葉が喋れなくなるかもしれない重症です。
治っても一生大好きなお酒は飲めない、と次女・喜美子(坂井真紀さん)も泣いていました。
妻・おりん(池波志乃さん)や娘・美津子(小泉今日子さん)は、意識が戻らない志ん生の枕元で見守っていました。
嘉納治五郎の死
昭和13年(1938年)、日本スポーツ界は嘉納治五郎という大黒柱を亡くしました。
葬儀には金栗四三や可児徳(古舘寛治さん)や野口源三郎(永山絢斗さん)、永井道明(杉本哲太さん)ら嘉納に縁のある人々が集まりました。
車夫の清さん(峯田和伸さん)もやってきて、柩に取りすがり「俺たちにオリンピックを見せてくれるんじゃねえのかよ」と悲しみをぶつけました。
清さんの悲しみに咽ぶ声を聞きながら、四三は「オリンピックはやる、必ず」と決意を新たにしたのです。
四三の呟きを聞いていた政治は驚いたように顔を上げ、嘉納に託され未だに動き続けるストップウォッチをポケットから取り出しそれを見つめていました。
1961年、五りんは父が書いた絵葉書を見ながら志ん生に付き添っていました。
志ん生を見ていた五りんは、志ん生の微妙な変化を感じました。
嘉納の遺志
政治は嘉納に貰ったストップウォッチを握り締め、嘉納の遺志を継ぎオリンピック開催に向けてまっしぐらに突き進もうとしていました。
しかし、政府や軍の上層部と意見が合わず苦慮しています。
聖火リレーのコースを説明していれば、陸軍次官の梅津から、東京オリンピックは紀元2600年の記念行事であるため、日本がギリシャから聖火をもらうのは言語道断。
聖火の代わりに神火ではどうかと提案したのです。
宮崎の高千穂から出雲大社を巡り、明治神宮を目指すというコースを提案され、政治は絶句します。
東京市長がメインスタジアムとして神宮外苑競技場ではなく、駒沢競技場を建設する、と提案するのですが、建設には1000tの鉄骨が必要です。
1000tもの鉄骨があれば何隻の駆逐艦ができるかと言われ、貴重な鉄骨を使用することはできない、いっそ木で作ればいいと言われてしまいます。
副島のもとにIOC会長・ラトゥールから私信が届き、イギリスとフランスが正式にボイコットを表明したと知らされました。
ラトゥールは、日本がこのまま戦争を続けるようならば参加を拒否する国々が多数出てくると案じ、そうなる前に自ら辞退した方が良いと勧めてきたのです。
副島は苦悩し、オリンピックを返上しようと政治らたちに提案します。
自分の独断として総理大臣に直訴するから黙認してくれ、という副島を政治は必死で引き止めます。
副島が倒れてまでムッソリーニに会いに行ったのに、そんな苦労が無駄になってしまってもいいのか、政治が良くても、嘉納はどうだろうか、と政治は副島に問いかけます。
ため息を付きながら、嘉納はもういない、という副島に、政治は嘉納に託されたストップウォッチを見せながら、「いるんだよここに、動いてるんだよ、ストップウォッチが!」と叫びました。
「気持ち悪くないかね、腰の曲がったじじいだよ、手ぶらでエジプト行って、年下の西洋人にボロクソ言われて吊るし上げられてそれでも守り通したオリンピック!いいのかな、止めちゃって」
「副島さん、総理大臣に頼むんだったら戦争の方じゃないの、戦争をやめてくれって電話してくださいよ!」
せめてオリンピックの期間だけでも、一時停止にならないのか、と政治は叫びました。
副島は今の政府で難しいだろうと難色を示し、嘉納のストップウォッチは政治が持っているようにと言いました。
気が熟せばもう一度いつか東京オリンピックがやれる、と政治を諭したのです。
幻のオリンピック
1938年7月14日、政府は東京オリンピック中止を決定しました。
副島は売国奴、非国民と蔑まれ、総会の席上でも自分の隣に誰も座らない孤立無援の状態であっても政府に開催権返上を働きかけ続けていたのでした。
返上が半年遅れたら、どの国でも開催できないという苦渋の決断でした。
政治はマラソンの練習に励む四三のもとに赴きました。
名前を呼びかけても手を振るだけで一向に練習をやめようとしない四三の態度に業を煮やした政治は、走る四三の前に飛び出し、「もう走らんでいい、頼むから走らんでくれ」と頭を下げました。
自分は良くても小松になんて言ったらいいか、という四三の言葉を聞くと、政治は大声で「東京オリンピックは中止!」と叫んで小松を止めました。
オリンピック開催権を返上した、と言葉を続ける政治に小松は、「返上ならオリンピックはやるんですよね?」と聞き返します。
「やるんじゃないか?ヘルシンキで」と答えると、ならば自分はヘルシンキに出るから問題ない、と小松は練習を再開したのです。
副島はラトゥールに返上の経緯を書いた手紙を送り、ラトゥールは項垂れて「幻のオリンピック」とつぶやいたのです。
りくの結婚
政治は断腸の思いでオリンピック中止の記事を書いていました。
自分がその記事を書かねばならないことにやりきれない思いがこみ上げ、嘉納に託されたストップウォッチをしばらく見つめ、それを机に叩きつけようと腕を振り上げました。
しかしその瞬間、ストップウォッチの音が乱れ政治は思いとどまりました。
ストップウォッチを大切に机にしまい込むと、先程まで書いていた記事を入稿したのです。
1961年、岩田幸彰(松坂桃李さん)は執務室でチッチっという時計の音が気になり、音が聞こえる政治の机の引き出しを開けてみました。
動いているストップウォッチを止めようと手にかけると政治が飛び込んできて、ストップウォッチを止めるな、と岩田を止めました。
政治は嘉納の形見のストップウォッチをあの時からずっと止めずに大切に持っていたのです。
意識不明のままと言われていた志ん生ですが、実は意識が戻っていました。
しかし、五りんの前でだけ普通に過ごし、他の人には意識が戻ったことを知らせていないのです。
五りんにお酒を買ってくるように命じても、五りんは志ん生の体を心配して断っていました。
五りんは志ん生にハリマヤスポーツへ行って得てきた情報を伝えました。
五りんの父はオリンピックを目指していた学生でしたが、オリンピックが中止となり学徒出陣で出征し、満州へと旅立ったのです。
1939年、ナチスドイツが同盟を組むスロバキア、その後ソビエト連邦がポーランドに侵攻するポーランド侵攻が始まりました。
ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスがドイツに宣戦布告をし、第二次世界大戦が始まりました。
四三は小松に熊本に帰るか、と尋ねます。
オリンピックがダメなら他の大会に出る、という小松に、オリンピックは中止、今スポーツをしている人はこの国にはいない、と四三は叫びます。
この頃の大会は、銃を持ちながら障害物を越えて走るという軍隊の訓練のような大会です。
一生懸命走った学生には悪いけど、そんなのはスポーツではない、と四三は吠えます。
それを聞いていた黒坂辛作(三宅弘城さん)は「辛気くせえなあ」と四三を非難します。
これまで何年も家賃も取らずに四三を2階に住まわせていたのは楽しいから、というのです。
役立たずだけど、四三が家にいると家の中が明るくなる、四三だけはバカみたいに笑ってなきゃダメなんだよ、と四三を責めます。
憮然とする四三に助け舟を出すと思いきや、妻のスヤ(綾瀬はるかさん)も辛作に同意し、小松が熊本に帰りたくない理由は何もオリンピックのことだけではない、とりく(杉咲花さん)に同意を求めました。
りくも小松も挙動が不信になり、小松は「すんません、ちょっと走ってきます」と出て行ってしまいました。
辛作はりくと小松が恋仲であると全く知らずにいたため、寝耳に水のことに驚きを隠せません。
スヤに促されたりくは、小松を追いかけました。
小松の伴走をしていたりくに小松はプロポーズし、2人は結婚することになりました。
結婚式で父・増野(柄本佑さん)は小松に関東大震災の時の大変だった事を語り、「りくを大切にされても腹が立つけど、りくを大切にしなければ殺すよ」と小松を脅しました。
この翌年、りくと小松の子供、金治が生まれました。
金治は五りんの本名です。五りんはりくと小松の子供だったんですね。
この年は、美濃部孝蔵(森山未來さん)が古今亭志ん生を襲名した年でもありました。
妻のりん(夏帆さん)は「志ん生」の名を継いだ者は代々短命だと襲名を嫌がっていました。
しかし孝蔵は、自分が志ん生になって長生きをして看板を大きくしたら早死した師匠たちも喜ぶ、と宣言したのです。
学徒出陣
1941年、東條英機内閣が誕生しました。
志ん生となった孝蔵は、この日の寄席で後の三遊亭圓生となる山崎松尾(中村七之助さん)に会いました。
この頃の寄席も軍の検閲が入り、不謹慎と思われる演目は上演してはならないと通達がありました。
孝蔵はその通達に怒り出すのですが、圓生はこのくらい演じられなくてもネタはまだある、と通達を受け入れました。
売り言葉に買い言葉、孝蔵も圓生の言葉に同意し、へでもねえ、と受け入れたのです。
12月、太平洋戦争が勃発、連日日本軍大勝利の報がもたらされるのですが、戦況が正確に伝えられることは既になくなっていました。
金栗四三が始めた箱根駅伝は2年連続して中止となりましたが、昭和18年復活。
靖国神社箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会、と名を変えての復活です。
小松も走り、見事な成績を残しています。
戦火が拡大したため、20歳以上の文系学生も徴兵の対象となりました。
学徒出陣です。
小松は対象となり、出兵することになってしまいました。
小松の出征が決まった夜、播磨屋に増野が現れ、小松を蹴り飛ばしました。
小松の胸ぐらをつかみ、「約束を破ったね」と詰め寄ります。
しかし、四三や辛作に宥められ、子供たちに諫められて、増野は冷静になりました。
小松に「立派に戦ってくるんだぞ、お国のために」と声をかけたのです。
スヤは金治に、「あんたのお父ちゃんはいだてんだから、走って弾を避けて、避けて避けて必ず帰ってくる」と話します。
小松は金治を抱きしめながら、涙を流しました。
「この子は体が弱いから3つになったら冷水浴をさせてください」と四三に頼み、りくはもちろんそこに集まった人々は全員涙を流し、歯を食いしばりながら「小松勝、万歳」と叫ぶのでした。
昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が行われました。
オリンピックを呼ぶために嘉納治五郎が建設したスタジアムは、皮肉にも若き学徒を戦争に送り出す場所となってしまったのでした。
スタンドにいた政治は、東龍太郎(松重豊さん)に今競技場にいる人は何人いるかと尋ねました。
東はスタンドに5万、グラウンドに出陣学徒3万、と答えます。
政治は、そんなに入れるならオリンピックができた、と悔しがります。
こんなことになるなら、オリンピックをやっていれば良かった、と嘆きました。
グラウンドに河野の姿を見つけた政治は、河野を追いかけ詰め寄りました。
厳しい表情を浮かべる河野に、「これで満足かね」と政治は問いかけます。
「俺は諦めん、オリンピックをやる、ここで、この場所で」と政治は改めてオリンピック招致に向けての決意を固めたのでした。
スタジアムにいた四三、りく、スヤは涙を流し万歳を叫びながら、小松が行進する姿を見つめていました。
次回、第39回「懐かしの満州」
とうとう小松は出兵し、満州の地を踏むことになります。
慰問のため、志ん生と圓生も満州へ行っていたというのです。
志ん生はそこで五りんの父・小松と会っていました。
戦争の噺をしたがらない志ん生に満州の地で何が起こったというのでしょうか。
五りんと志ん生の繋がりがとうとう明らかになります。
いだてん小松に向けられる銃口、逃げる小松。
次回、第39回は「懐かしの満州」です。
小松の無事が気にかかりますね。
手に汗握る展開に緊張が走りますね、次回も見逃せませんよ。