2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回、第39回「懐かしの満州」は、古今亭志ん生こと、美濃部孝蔵(森山未來さん)が慰問のために満州に行った時のこと、そこで出会った五りんの父・小松勝(仲野太賀さん)との関わり、そして最後が描かれた回でした。
意識不明のフリをして家族から隠れてお酒を飲む古今亭志ん生(ビートたけしさん)に言われてお酒を買ってきた五りん(神木隆之介さん)。
ウォッカを手渡すと、志ん生は「昔これでひどい目にあった」と昔のことを語り始めました。
その昔のこととは、弟子の五りんが何度も聞かせてくれと頼み、それでも聞かせてもらえなかった満州でのことでした。
戦時下の日本・東京では連日連夜の空襲で、お酒などの嗜好品はもちろん食べる物にも苦労する有様です。
お酒が大好物の孝蔵も、東京では自由にお酒を飲むことができなくなっていました。
そんな時、寄席の席亭から圓生(中村七之助さん)と共に満州に慰問に行って欲しいと言われました。
席亭の話では、満州に行ったら好きなだけ酒が飲めるといいます。
孝蔵は家族に背中を押されて満州に渡ることになりました。
そして5月、孝蔵は圓生とともに満州に向けて出発しました。
満州では軍隊への慰問も、日本人相手の興行も大成功、お酒もたらふく飲めて、孝蔵は大満足でした。
そんな時、孝蔵の所に小松勝が訪ねてきたのです。
小松は、孝蔵の噺の中でのマラソン描写がなっていないと指摘しに来たのです。
怒った孝蔵は、小松に差し出された金栗四三著の『ランニング』という本を投げつけて小松を追い返しました。
一緒にいた圓生は、小松がこれから部隊ごと沖縄へ行く、と言っていたことを気に留め、沖縄はかなり危ない、と日本軍を危惧していました。
7月になり、孝蔵と圓生は大連から奉天に移動していました。
そこで知り合ったのちの大俳優・森繁久彌から沖縄の日本軍が全滅し、南から米軍が攻めてくる、と聞かされました。
さらに、北からはソ連軍も進軍してきます。
ソ連の南にある満州は、最前線となってしまうというのです。
孝蔵たちは日本に帰る手立てを探すのですが、石油が不足していて日本に帰る船が出ません。
帰りたくても帰れない状況をどうすることもできません。
奉天の街は、ソ連軍が攻めて来る、という噂が流れ、逃げる人々で騒然としていました。
そんな時、孝蔵がスリにあってしまいます。
怒った孝蔵がスリを追いかけると、途中で逃げることを辞めたスリは笑いながら振り返り、走り方がましになった、というではありませんか。
振り返ったスリは、小松勝だったのです。
沖縄に行くはずだった小松は、部隊長の英断により逃亡兵となっていたのです。
奉天から大連に戻るという孝蔵たちに小松は付いて行こうとするのですが、逃亡兵と一緒では困ると圓生に言われ、小松は引き下がるしかありませんでした。
そんな時、暴漢が日本人に向けて発砲するという事件が起こりました。
小松は孝蔵と圓生を背に庇い、暴漢に相対します。
その暴漢は、小松が優しく接した中国人だったため、「次は殺す」と言われたものの、見逃してもらえました。
志ん生はこの時のことを覚えており、五りんに「お前の親父さんのおかげで助かった」と語っています。
結局、小松と共に大連に到着した孝蔵たちは、そこで日本の敗戦を聞きました。
すると、大連の街は手のひらを返したように日本人に冷たくなり、日本人が経営している場所は次々と襲撃を受けてしまいます。
興行を行うはずだった寄席も暴徒にぐちゃぐちゃにされてしまいました。
途方にくれた孝蔵たちでしたが、その日の夜は圓生が手に入れてきたウォッカを飲んで憂さを晴らします。
家族に会えない辛さを吐き出し、子供の成長を楽しみにしていると語り合う3人でした。
翌日開催された孝蔵と圓生の二人会は、100人もの人々が訪れ大盛況となりました。
しかし、どの顔も死を覚悟した暗い顔ばかりです。
圓生は『居残り佐平次』を演じ、場を盛り上げます。
孝蔵は、この場で何を演じればいいのか迷うのですが、小松から『富久』をやってほしいとねだられます。
『富久』は、かつて小松が孝蔵の走りの描写にケチをつけた噺です。
孝蔵は嫌がるのですが、小松の「距離が短いから悪い、浅草から日本橋ではなく芝まで行けばいい」という提案を取り入れ、『富久』を話し始めました。
今度の『富久』では、孝蔵は姿勢を正し顎を引き、腕の振り方に気をつけて、スッスッハッハッと正しい走り方で久蔵を演じています。
迫力のある『富久』を聴いた小松は涙を流し、矢も盾もたまらず夜の街を走り始めました。
久しぶりに走る歓びを感じ、大連で中国人に貰った絵葉書に『志ん生の富級は絶品』と書き綴り、妻・りく(杉咲花さん)に送ろうとした瞬間、ソ連兵に見つかってしまいました。
走って逃げるものの背後から構えられる銃口からは逃げられず、小松勝は銃殺されてしまいました。
高座が終わった孝蔵は、小松の亡骸を抱きかかえ涙を流しました。
なんとか小松を連れ帰りたかった孝蔵でしたが、ソ連兵に見つかりそうになり、やむなく小松を置いて逃げたのです。
その後、小松の遺品は日本のりくのもとに届けられました。
孝蔵たちは日本に帰ることもできずに満州に留まっていました。
所帯持ちは優先的に日本に帰れると聞いた圓生は満州在住の女性と偽装結婚し、孝蔵にも相手を見繕うのですが、孝蔵は逃げ出し、今日死ぬか、明日死ぬか、と思いながら生きるために何でもやったと、後に志ん生は語りました。
1947年1月、満州に来てから2年、ようやく日本への船が出て、孝蔵は帰国しました。
1か月の予定で満州に渡ったはずが2年経っても帰らず、もう二度と会えないかもしれないと覚悟していた孝蔵の妻・りん(夏帆さん)や家族は喜び、孝蔵に飛びつきました。
孝蔵は家族とともに這い上がることを決意し、翌月2月、帰国して初の高座に上がりました。
演目は『富久』
小松勝が「絶品」と称した演目でした。
前回第39回「懐かしの満州」を見逃した方はぜひこちらをどうぞ。
それでは最終章、第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のあらすじと感想です。
志ん生退院 五りんの降格
寄席では、志ん生の弟子・五りんが前座として登場です。
以前二枚目にまでなっていましたが、志ん生の意識が戻っていても家族に黙っており、あまつさえ言われるがままにお酒を飲ませていたことがバレて、二枚目から前座に降格となってしまったのです。
五りんは、志ん生から父のことを聞き、自分の生い立ちがわかったと語ります。
播磨屋の黒坂辛作(三宅弘城さん)に「親父と足の形がそっくり」と言われ、自分用の金栗足袋を作ってもらった五りんは、金栗足袋を履いて、父が語った「息子がオリンピック選手になったら嬉しかでしょうね」という言葉を思い起こしながら、走り始めました。
最終スピーチ前の危機
1959年(昭和34年)、東京は、1964年に開催されるオリンピック招致に向けて瀬戸際の時期になっていました。
IOC委員である東龍太郎(松重豊さん)は、東京都都知事に就任しました。
政治は、迫るIOC総会の決戦に向けて万全の体制を期していました。
しかし、厄介な事が起こってしまったのです。
政治は、外交官として活躍後、NHKの解説員になっている平沢和重(星野源さん)を呼び出しました。
平沢は、時事問題を15分に要約し、人々にわかりやすく伝え、お茶の間の、特に御婦人方の人気者になっていました。
本当ならば、外交官でフランス語に堪能な北原が最終スピーチをする予定だったのですが、運動会に参加した時にアキレス腱を切ってしまったのです。
アキレス腱を切って松葉杖を付いた人間に言われても説得力がないというのです。
オリンピック招致に向けての最終スピーチを平沢に頼みたいという依頼だったのですが、平沢はオリンピック反対論を掲げて招致に反対していました。
政治は、かつて講道館の機関紙『柔道』嘉納治五郎追悼号に平沢が寄稿した「心から東京オリンピックの成功を祈らざるを得ないのである」という文章を持ち出し、説得しようとするのですが、それは幻になってしまったオリンピックのことで、1964年のオリンピックのことではないと平沢は反論するのです。
敗戦からまだたったの14年しかたっておらず、戦争で何もかも失った今の日本に必要なのは、オリンピックのように金が掛かるお祭りではない、と平沢は言い放ちました。
むしろ、自分が何故オリンピックに反対しているか、NHKの番組でも行っているように15分で簡潔に説明すると言い始めました。
平沢がオリンピックに反対している理由は5つ。
- 対アメリカ問題
- スポーツ教育の遅れ
- 人材不足
- 交通や宿泊施設の不備
- 開催国の選手としての実力不足
これらを踏まえて、平沢は時期尚早だと主張していました。
平沢の主張を聞いた政治は、テーブルの上の書類を全てなぎ払いテーブルの上に正座し、なんと落語家のように話し始めたのです。
「平沢さん、俺には俺の考えがあって、戦後スポーツの復興のために全力を尽くしてきた。はええかおせえか論じるのはこの15分間俺のオリンピック話を聞いてからにしてくれえ」
内容は、終戦からオリンピック招致までの14年間の政治のオリンピック噺です。
政治のオリンピック噺
1945年(昭和20年)、終戦を迎え、焼け野原となった東京を歩いていた政治の足は、明治神宮外苑競技場に向かいました。
空襲で爆撃を受け、ボロボロになってしまった競技場は、米軍に接収されていました。
壊れた外壁、穴だらけのスタジアムを見た政治は、嘉納の遺品であるストップウォッチを握り締め、東京にオリンピックを招致しようと改めて決意したのです。
そして、barローズに行くと、松澤一鶴(皆川猿時さん)と東龍太郎と再会し、無事を喜び合った後に、オリンピック招致に向けて動き出すと宣言をしたのです。
「そんな馬鹿な」と言う松澤に東はオリンピック創始者のクーベルタン男爵が近代オリンピックを開催した理由は、普仏戦争に負けた祖国フランスをスポーツで盛り上げようとしたことだ、と語り、敗戦国である日本だってできるのではと希望を見出します。
そして政治はオリンピック関係者15人を呼び出し、バラックに新しい日本体育協会を復活させました。
政治が水連理事長となり、東が体協会長に就任。
その頃、水泳選手だった小池(前田旺志郎さん)や宮崎(西山潤さん)が戦地から戻ってきました。
政治は彼らを指導員に迎えて若い選手の育成を始めました。
炭水化物は闇市で何とかなったものの、タンパク質が足りず、かえるを捕まえて選手たちに食べさせていたと政治は語ります。
そのかいあって、いい選手が育ち始めました。
政治が地元浜松で見つけた自由形の有望選手・古橋廣之進(北島康介さん)。
古橋は日本選手権で世界新記録を出したのですが、日本が敗戦国となり国際水泳連盟から除名されていたため、公式記録と認められませんでした。
裏オリンピック
神宮競技場は、ナイルキニックスタジアムと名を変え、神宮プールは白人専用プールとなっていました。
自由の女神が建てられ、まるでアメリカのような佇まいになっていました。
1948年、12年ぶりにロンドンでオリンピックが開催されました。
しかし、占領下にある日本の参加は認められず、それに憤った政治は「裏オリンピック」を開催したのです。
裏オリンピックとは、オリンピック水泳競技の同日、同時刻に合わせて日本選手権を行う、というものでした。
進駐軍も政治の熱意に負けて、4日間だけ神宮プールを使わせてくれたといいます。
ロンドンオリンピックの会場と電話を繋げ、選手入場からスタートの号砲まで全て合わせます。
政治は選手たちに、ここは日本ではない、アメリカでもない、ロンドンだ、と檄を飛ばします。
ロンドンと同時にスタートし、一番早く泳いだ者がワールドチャンピオンだというのです。
そして電話の合図とともにスタート。
1500m自由形、ロンドンの金メダリストは19分18秒5の記録でしたが、日本の古橋の記録は18分37。橋爪四郎は18分37秒8という記録です。
ロンドンに出場していれば、日本は金銀メダルを獲得できていたのです。
ここまでの話を聞いていた平沢は、「往生際が悪い」と政治たちの努力を否定します。
オリンピックは参加することに意義がある、というオリンピック精神に反し、勝ち負けにこだわる政治たちは見苦しい、という平沢に対し政治は、「参加することより勝つことに意義があったんだよ、あの時は」と反論します。
東も、政治に同意、敗戦に滅入っていた日本人の心を明るくし、若者を鼓舞した、意義があったと主張します。
松澤も平沢に、その結果、日本は国際水泳連盟に復帰し、全米選手権に招待を受けたと話します。
平沢は、占領下にあった日本がパスポート発行もできないのにどうして全米選手権に行けたのかと疑問を投げかけました。
その疑問に答えたのは岩田幸彰(松坂桃李さん)。
政治が米軍の連合司令官であるマッカーサーに直談判をしたというのです。
戦前、選手団長としてオリンピックに参加したことがあるマッカーサーは、根っからのスポーツマンです。
全米選手権に参加する日本人選手を前にしてマッカーサーは「よく聞け、アメリカと戦う時、少しの手心も加えるな、徹底的にやっつけてこい、そうすれば、日本人を尊敬する、アメリカとはそういう国だ」と選手たちを鼓舞しました。
戦争に負けたからといて卑屈になるな、いかなる時も諸君は日本人の誇りを忘れるな、と演説したのです。
全米選手権では6種目中5種目を制した古橋。世界新記録も樹立しました。
水泳日本の強さを世界に知らしめたのです。
1950年、東がIOC委員に選出されました。
1952年、ヘルシンキオリンピックが開催されました。
日本もオリンピックに参加し、政治は選手団長として103人の選手を率いて参加できたのですが、日本水泳のエース、古橋はピークを過ぎており体調不良でメダルに期待が持てなくなっていました。
代わってメダルを期待された橋爪は銀メダルでしたが、かつての水泳日本としては、不甲斐ない結果で終わってしまいました。
ヘルシンキオリンピックを振り返り、ヘルシンキの大会は、市や国からの援助がなく、入場料だけで費用を賄ったと聞き、貧しい日本では真似ができない、と東はため息をつきます。
そこで政治は、オリンピック組織委員長フランケルが言った言葉を披露しました。
「オリンピックは金儲けになる」
敗戦国である日本が文化国家として立ち上がるためにオリンピックを利用するのは何ら恥ずかしいことではない、と政治は高らかに宣言します。
「貧しいからこそオリンピック」、という主張を掲げ、東と政治は時の総理大臣・吉田茂に直談判に行きました。
平沢は資金面を疑問に思い、金の出処を聞いてみると、浜松の名家だった政治の実家田畑家から資金が出ていたことが分かりました。
オリンピック開催のために実家の土地を切り売りしてスポーツ選手たちの遠征などに使っていたため、広大な土地を持っていた田畑家は、もう母屋と山の一部だけになっていました。
オリンピック招致のために腰が重い政治家ばかりでは話にならないと、政治は会社を辞め衆議院議員に立候補しました。
1953年、静岡3区から立候補したものの、話す内容は「東京にオリンピックを」これでは浜松市民の心に届くはずもなく、本命視されていたものの落選してしまいました。
1956年、ついに聖火は南半球に渡りました。
メルボルンで開かれたオリンピックで、英語に堪能な秘書・岩田とともに出席し、ロビー活動を行いました。
敗戦から立ち上がった日本を見に来て欲しい、と懸命にアピールを繰り返していました。
その結果、次のIOC総会は日本で行われることが決定されました。
IOC総会前の最後のアピール
改めて神宮外苑競技場に足を踏み入れた政治たちは、あまりの古さにスタジアムの改修工事を行うことに決めました。
松澤は嘉納が残したこの地を壊すのかと難色を示すのですが、懐かしくても、古いものは古い、と政治は主張。
「新しい東京をアピールするんだよ」と言います。
1958年(昭和33年)春、神宮外苑競技場は、改修工事が行われ、8万人が収容できる国立競技場として生まれ変わりました。
各国のIOC委員たちは、超短期間の工事と、その完成度の高さに驚き、賛辞を送りました。
東京で行われたIOC総会で、IOC会長のブランデージは、日本が初めて参加したオリンピックではたった2名しか派遣できなかったが、1932年の大会では水泳日本として日本水泳は世界中を沸かせた、と語ります。
日本は、オリンピックを開催する資格が十分にある、と断言し、ブランデージは日本開催を後押ししてくれたのです。
そして政治は、最終手段として、IOC委員である東を東京都知事にしようと画策します。
東は、自分はただの医者だから、そんなことはできない、となかなか首を縦には振らないのですが家族と話し合う、として話は一旦持ち帰りとなりました。
その日の夜、政治宅に東の妻と長男が押しかけてきました。
政治の夢に東をまきこむな、と言うのです。
押しかけた妻たちに追いついた東は、自分が都知事になったってできっこないのはわかっている、だからこそ応援して欲しい、どうしても東京にオリンピックを招致したい、と自分の意見を告げたのです。
政治の妻・菊枝(麻生久美子さん)も、田畑の夢は一人では叶えることができません、どうか東の力を貸して欲しい、と東の家族を説得しました。
こうして、政治のオリンピック噺は終わったのですが、説明を聞き終えても平沢はオリンピック開催に懐疑的でした。
平沢は、自分の5つの疑問に全く答えていない政治に呆れつつ、どうしてそこまでオリンピックに魅せられるのか、その理由が知りたい、と言い始めました。
しばらく逡巡した後、政治は、平和のためにやっている、と語り始めました。
5年前、フィリピン遠征がありました。
そこに赴いた政治たちは、当然、歓迎されると思っていました。
経済も上向き、オリンピックも開かれ、戦争に一区切り付いたと思っていたのです。
しかし、現地の人々は、日本選手団を見ると憎々しげに睨みつけ、石やらボールやらを投げつけ、憎しみ、悲しみをぶつけてきました。
彼らの中で、戦争はまだ終わっていなかったのです。
政治は、当然歓迎されると考えていた自分を恥じました。
もう、日本に帰ろうか、とさえ思ったのですが、指導者となった宮崎が、泳ぎに来たんだから泳ごう、と叫びました。
自分たちは泳ぐしか能がない、だから泳ごう、というのです。
政治は、「お前らが泳ぐのをやめても何にも変わらないけど、お前らが泳げば何かが変わるかも知れない」と遠征続行を決定したのです。
政治は言います。
「アジア各地で酷いこと、酷いことをやってきた自分たち日本人は、面白いことをやらなければいけない」と主張します。
「時期尚早?冗談じゃない、遅すぎるくらいだよ」といいながらストップウォッチを掲げます。
平沢は、嘉納治五郎が亡くなる前に平沢に言っていた言葉を思い出しました。
「これから一番面白いことをやるんだよ、東京で。皆が驚く、皆が面白い、そんなオリンピックを見事にやってのける、うん!これこそ、一番」
嘉納の言葉を思い出した平沢は、「面白いことならやらせてもらいます」と最終スピーチを引き受けることにしたのです。
ただし、NHK解説者として、北原の原稿をただ棒読みするのではなく、自分の言葉で自由に伝えたい、と言い、政治たちはそれを了承しました。
最終スピーチ
その後、平沢は自分の娘にオリンピック招致の最終スピーチを頼まれたことを話しました。
すると娘は「オリンピック、オリンピック、こう聞いただけでも私たちの心は踊ります…」と言い始めました。
そして、ミュンヘンで行われたIOC総会、最終スピーチの場で、平沢は嘉納治五郎を看取った人物として紹介され、壇上に上がりました。
平沢は、日本の小学6年生の教科書に「五輪の旗」という文が載っている、と話し始めました。
“「オリンピック オリンピック こう聞いただけでも私たちの心はおどります。
全世界から、スポーツの選手が、それぞれが国旗をかざして集まるのです。
すべての選手が同じ規則に従い、同じ条件のもとに力を競うのです。
遠く離れた国の人々が、勝利を争いながら仲良く親しみ合うのです。
オリンピックこそが、まことに世界最大の平和の祭典ということができるでしょう」”
IOC委員たちは日本の子供たちにオリンピック精神が根付いていることに驚き感心したといいます。
オリンピックの五輪の紋章に表された5つの大陸、その第5の大陸であるアジアにオリンピックを導こう、と平沢は締めくくりました。
総会会場は拍手の渦に包まれました。
そしてとうとう、1964年開催のオリンピックが東京で開催されることに決定されたのでした。
次回、第41回「おれについてこい!」
平沢の名スピーチにより、東京に決定されたオリンピック。
政治は事務総長に就任し組織委員会が発足されることになります。
開催国として、メダルが取れる種目をオリンピック正式種目にしたいと考え、政治が思い付いたのは女子バレーボールでした。
人見絹枝、前畑秀子に継ぐ女子メダリストは現れるのでしょうか。
オリンピックを開催するとなると、会場の建築から映画の製作、あらゆる分野のスペシャリストを集めなければなりません。
曲者ぞろいのスペシャリスト達を政治がどのようにまとめられるのか、オリンピック開催までにまだまだ問題は山積みです。
次回、第41回は「おれについてこい!」です。
いよいよ、最終章のスタート、新キャストも満載!楽しみがいっぱいですね。
次回も期待しています。