2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回第10回「真夏の世の夢」は、主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)が遠い異国、スウェーデンストックホルムの環境に慣れず苦しみ、同じ日本代表の三島弥彦(生田斗真さん)は、体格の良い西洋人との体力差、実力差にだんだんと自信を失い、監督の大森兵蔵(竹野内豊さん)は、持病を悪化させ練習に参加することができず、団長の嘉納治五郎(役所広司さん)は待てど暮らせど合流できず、たった4人の日本選手団が崩壊の危機に陥るお話でした。
長旅を終え、ストックホルムに到着したものの、夜でも陽が沈まず明るい白夜という環境に四三も弥彦も眠ることができず苦しみます。
監督の大森は、長旅の疲れが出たのか持病が悪化し、部屋から出てこれず、四三と弥彦はそれぞれ1人で練習を始めました。
他の国の選手たちは皆集団で互いに切磋琢磨しながら練習をしていますが、たった1人で練習しなければならない四三と弥彦は孤独に苛まれていました。
西洋人との体格差、速さの差を見せつけられた弥彦はだんだんと自信を失い、練習に身が入りません。
四三の履く足袋が周囲の目を引き、四三はストックホルムの新聞に取り上げられるほど注目されているのに、日本では速くても西洋人の記録に比べたら平凡な記録な弥彦は、周囲に全く期待されていないことに落胆し、四三に八つ当たり。
部屋に引きこもってしまいます。
弥彦の状態を知らせ、何とかしてもらおうと四三は大森の部屋を訪れるのですが、大森の病状はかなり悪く、ベッドから起き上がることができません。
そんな状態の大森に絶句し、四三は絶望します。
日本選手団、崩壊の危機となってしまいました。
さらに、弥彦は飛び降り未遂を起こし四三に止められます。
四三は弥彦に馬乗りになりながら「落ちたら走れない、一生後悔する」と弥彦に叫び、「自分たちの一歩は日本人の一歩。速かろうが遅かろうが我らの一歩には意味が有る」と訴えます。
その言葉に弥彦は目が覚めたようで、落ち着きを取り戻しました。
ほぼ裸の弥彦に馬乗りになる四三の姿を目撃した安仁子夫人(シャーロット・ケイト・フォックスさん)は、何か勘違いをしたようで、弥彦に大森からのメモを渡すとそそくさと立ち去ろうとします。
誤解を解こうと四三が安仁子夫人に追いすがる姿が非常に面白かったですね。
孤独な練習をやめ、弥彦を支えるために一緒に練習するようになった四三。
弥彦も少しずつ痛快男子ぶりを取り戻していきます。
大森の状態も少しずつ良くなり、グラウンドに出て弥彦の指導ができるほど回復してきました。
ようやく、日本選手団に好転の兆しが見えてきました。
スウェーデンは夏至になり、夜が完全になくなってしまいました。
毎年この時期は、ストックホルムの人々は夜通し踊り明かすのですが、オリンピックイヤーでもある今年は特に盛り上がり、夜に眠りたい四三たちの眠りを妨げます。
抗議しようと四三たちが祭りに乗り込むと、抗議は聞き入れてもらえず、逆に日本の歌を歌えとねだられてしまいます。
弥彦は躊躇するのですが、四三は厳しい顔つきで日本の国家「君が代」を歌い切りました。
初めて聞く日本の歌にストックホルムの人々は驚きますが、その場は大きな拍手に包まれます。
そんな中を日本選手団団長・嘉納治五郎がやってきました。
嘉納はオリンピック開会式1週間前にようやく到着できたのです。
開会式が迫る中、入場行進で使うプラカードの表記について、四三は「日本」でなければ自分は出場しないと主張し、大森は国際大会であるため、英語の「JAPAN」が妥当と主張します。
海外に来て、日本人であることを強く意識した四三の決意が見えた瞬間でした。
前回第10回「真夏の世の夢」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第11回「百年の孤独」のあらすじと感想です。
プラカード問題
1960年、東京オリンピック招致を考える田畑政治(阿部サダヲさん)らは、1912年の初めてオリンピック記録映画を探し出しました。
1912年6月23日、嘉納が来て、ようやく全員が揃った日本選手団は、入場行進に使うプラカードの表記について揉めていました。
四三は、漢字表記で「日本」がいいと主張します。
対して大森は、四三らが日本人であると分からせるためにも英語で「JAPAN」が良いというのですが、四三は主張を取り下げません。
外国人が勝手に決めた「JAPAN」という表記ではやる気が出ない、奮い立たないと言います。
表記を「JAPAN」にするならば、自分は辞退すると言い放つ四三。
険悪なムードが漂う中、日本選手団同士でいがみ合う姿に嘉納は驚き、自分がいない間に何があったのかと皆に問いかけます。
一言では言えないたくさんのことがあったと安仁子夫人は答え、弥彦は自分が自信を喪失し一度押し潰されたのは、嘉納のせいだと噛み付きます。
プラカードの表記を「日本」にしないのならば、辞退するという四三に弥彦も同調し、嘉納は頭を抱えてしまいました。
九州から東京、遠く離れたストックホルムまで来て1か月。
くじけそうになるたびに日本の、熊本の、東京高師の皆のことを思い出して、なんとか奮い立たせてきた、西洋人を悪く言うつもりはないが、「JAPAN」では西洋人と対等に戦えない、自分は「JAPAN人」ではなく「日本人」だと四三は自分の気持ちを伝えます。
「日本」では四三が日本人であることも西洋人に伝えられないと大森は反論するのですが、それでもいいと四三は引き下がりません。
嘉納はこのいがみ合いを見て、自分が遅く来たためにできてしまった軋轢なのではないかと心配したのですが、それは、お互いを認め合っているから遠慮なく意見が交換できるのだと気づきました。
自分が遅れてきたためにバラバラになったのではなく、遅れてきたからこそ皆が成長したのだと嘉納は安心したのでした。
オリンピック開会式
そして明治45年(1912年)7月6日、28カ国3000人の各国代表選手が集まるオリンピックが始まろうとしていました。
入場行進では京都帝国大学の田島錦治(ベンガルさん)も頭数を増やすために参加することになっていました。
四三が持つプラカードをちらりと見ると、国際大会なのにJAPAN表記ではないことを指摘し、イタリアのIの次ならJであるというのですが、プラカードを持つ四三も国旗を持つ弥彦もこれでいいのだと、頷き合うのでした。
開会式1週間前、対立する大森と四三の意見を、嘉納は「双方一理」と言い、結局表記はローマ字で「NIPPON」ということになりました。
日本の本当の読み方がわかるから良い、というのです。
双方これでいい、と納得した結果、表記は「NIPPON」、この表記はストックホルム大会でしか使われておらず、次からは「JAPAN」に変わったといいます。
大スタンドを埋め尽くした2万人の拍手に迎えられ、四三たちは颯爽と歩きます。
スタンドから安仁子が「ニッポン」と叫び、 日本コールが起こりました。
四三は、「生きた心地なし」と後に心境を語っていました。
記録映画を食い入るように見つめる田端たち。
日本の入場行進はあっという間に画面から消え、田端たちは拍子抜けしてしまいました。
しかも、公式の記録では入場行進の際の写真では四三の顔・体が写っておらず、安仁子が撮った写真では、弥彦の顔が旗で隠れるというアクシデントが起こりました。
男子100m予選
入場行進が終わるといよいよ競技開始です。
四三らはスタンドの席に移動して弥彦の勇姿を見守ります。
なかなか登場しない弥彦に田島は、怖気づいて棄権したのではないかというのですが、四三は、弥彦はそんなことはしないと反論します。
その頃弥彦は、控え室でプレッシャーと戦っていました。
椅子に座り項垂れる弥彦の前に現れたのは、監督・大森でした。
大森は、短距離はタイムを計る競技だといい、一緒に走る選手らはライバルではなくタイムという敵に立ち向かう同士だと大森は言います。
その言葉を聞いた弥彦は周りを見渡し、気持ちを落ち着けることに成功したのでした。
その言葉、3週間前に聞きたかった、という弥彦の真剣な顔がちょっと怖かったですね。
その頃、千駄ヶ谷の三島邸には、3週間前、弥彦が自信を失い飛び降りを考えていた時に書いた手紙が届けられていました。
もうだめだ、これが最後の手紙になる、という内容の手紙を見た女中のシマ(杉咲花さん)は慌てふためき、弥彦の母・和歌子(白石加代子さん)や兄・弥太郎(小澤征悦さん)に報告すると、弥太郎はスウェーデン大使館に連絡を取って、弥彦を連れ戻そうと口に出します。
しかし、字が読めないはずの母・和歌子は、字が読めないにも関わらず、弥彦の筆跡を見て言葉では弱気なことが書いてあるが、筆跡から弥彦の本心を探れば、弥彦は三島家の誇りのために頑張ってくれるはずだと言い切ります。
母の言葉通り、弥彦は胸を張って競技場に現れました。
三島家の誇りのため命を賭す覚悟で臨むといいます。
とうとう弥彦の出番です。
四三は神に祈り、弥彦のスタートを見守ります。
そして、スタートのピストルが鳴りました。
100m、弥彦は胸を張り軽快に走り出しました。
しかし、西洋人選手たちのスピードはものすごく、弥彦を突き放します。
弥彦の懸命な走りも力及ばず、結果は最下位。
しかし、大森からタイムを見せられた弥彦は満面の笑みを浮かべ、大森と抱き合いました。
四三らも控え室に行き弥彦の健闘を讃えます。
弥彦の記録は11秒8。自己最高記録をたたき出していました。
素晴らしい走りだったと弥彦の頑張りをねぎらう四三に、弥彦は笑顔で「日本人には短距離は無理」と語りかけます。
この日を境に、大森の病状が悪化、部屋に篭る日々が続くようになってしまいました。
4日後、200m予選、弥彦の結果は惨敗。
東京 浅草
東京の美濃部孝蔵改め三遊亭朝太(森山未來さん)は、師匠の橘家円喬(松尾スズキさん)から初高座を命じられていました。
何の小噺もできないと抗議するのですが、師匠は「出来るよ」の一言で取り合いません。
「君には何かあるから」という師匠。
朝太は師匠の仕草を真似するように練習を重ねますが、思うように進みません。
初高座の日が近づくにつれて朝太は落ち着かなくなり、とうとう酒に手を出し落ち着こうとしました。
車夫の清さん(峯田和伸さん)から飲んでていいのか、しくじるな、と励まされました。
なんでも初めてのことは力が入ること、朝太の緊張は解けるのでしょうか。
その頃の四三
マラソン競技本番3日前のこと。
四三は気持ちを落ち着けるために押し花をしていました。
それを見た嘉納は、四三に外に行けと言うのですが、午前中スタジアムに行き、選手の頑張り、興奮したスタジアムの様子を見た四三は、焦ってモヤモヤして、気が落ち着かなくなったため、押し花をして気持ちを落ち着けていると言うのです。
そんな四三に嘉納は、日本中の期待を背負ってプレッシャーを感じる必要はない、のびのびと走れとアドバイスします。
四三が弥彦最後のレースとなる400m前の弥彦の部屋を激励に訪れました。
部屋で上半身を鍛える弥彦を見てびっくり。
日本人には短距離は無理、の言葉の真意を聞いてみた四三。
弥彦は明日走れることが楽しみだと笑いました。
こうなったら徹底的に負けてやる、という弥彦。
四三はこれまで胸に溜まってきていたモヤモヤした気持ちを弥彦に打ち明けます。
弥彦は「何も考えずに走れ、我々はただ精一杯走ればいい」と四三を励まします。
しかし、四三はその言葉に納得が行かず逆ギレ。
この言葉は四三が弥彦に向けて言った言葉でした。
それを指摘すると短距離と長距離は違うとさらに逆ギレ。
四三のそのモヤモヤはプレッシャーであると弥彦は指摘します。
モヤモヤの正体がわかった四三はすっきりし、元気づけられたのでした。
弥彦 最後のレース
7月12日、400m予選。
病気が悪化している大森に変わり、四三がコーチとして参加しました。
正面から写真を撮ってくれ、と頼まれた四三は正面から弥彦の走りを狙います。
弥彦が走る400m予選組参加者は5名、しかし、そのうちの3名は棄権。
予選組上位2名は決勝に進出できるので、弥彦は出場するだけで決勝に進出できるはずです。
スタートの号砲が鳴り、弥彦は素晴らしいスタートダッシュを見せました。
四三も嘉納も声を枯らして応援します。
ゴール前に抜かれてしまいましたが、弥彦は素晴らしい走りを見せました。
ゴール後、グラウンドに倒れ込んだ弥彦は「次はないです。準決勝は辞めます。日本人に短距離は無理です。」と告げました。
「100年かかっても無理です、走りました。察してください」と笑顔を見せました。
座り込む弥彦に四三は「楽しかったか」と尋ねます。
「楽しかった」と笑顔で答え、嘉納からの「悔いはないのか」との問いにも弥彦は笑顔で「はい」と答えました。「ならば良し!準決勝は棄権しろ」と嘉納は許可したのです。
こうして弥彦は400m準決勝を棄権、弥彦のオリンピックは終わりました。
7月14日、マラソン競技当日。
早朝から四三は日課の冷水浴をしていました。
白夜とプレッシャーで全然眠れなかった四三。
そこに弥彦が現れ、一緒に冷水浴をします。
四三は弥彦に昨日の400mのことを話しました。
「がむしゃらな鬼の形相で走る弥彦に奮い立ちました。おるも三島さんのように笑ってゴールします。それだけは決めてます。見とってください」と決意を伝えました。
次回第12回「太陽がいっぱい」
とうとう始まったマラソン当日。
この日のストックホルムは猛暑で、スタートラインに立つ人数もだいぶ減ってしまいました。
四三は無事スタートするもののとにかく暑い、軽快に走る四三に猛暑の影響が出始めてしまいます。
熊本ではスヤ(綾瀬はるかさん)が四三を応援しています。
しかし、この猛暑の中、レースは、四三はどうなってしまうのでしょうか。
次回第12回「太陽がいっぱい」、緊迫のレース展開が気になります。