2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回、第35回「民族の祭典」は、1940年に開催されるオリンピックの開催地がついに決定、そして、水泳総監督・田畑政治(阿部サダヲさん)率いる日本選手団がベルリンオリンピックに参加するお話でした。
1936年春、嘉納治五郎(役所広司さん)からの依頼により、上京してきた金栗四三(中村勘九郎さん)と弟子の小松勝(仲野太賀さん)が播磨屋を訪ねると、関東大震災で行方不明となったシマ(杉咲花さん)そっくりの女性がいました。
シマが生きていた、と女性に抱きつき喜ぶ四三でしたが、その女性はシマの娘・りく(杉咲花さん)だったのです。
りくは、播磨屋でお針子として働いていました。
四三が東京を離れてから播磨屋はハリマヤスポーツと名を変えて、四三と試行錯誤しながら作り上げた金栗足袋を作る、マラソン足袋メーカーとしてたくさんの職人を抱え大きく発展していました。
四三が東京に戻ってきたことで、四三がまたオリンピックを目指すのかと皆が期待する中、四三は嘉納に聖火リレー選手として呼ばれたと説明します。
更に、熊本から伴った弟子の小松を育てて、東京五輪に出場させるというのです。
四三の頃と違い、今は日本に併合されている朝鮮人ランナーがマラソン界を席巻しています。
播磨屋店主・黒坂辛作(三宅弘城さん)は、自分の足袋を作って欲しいという小松に「うちの足袋で走る以上、勝ってもらわなきゃ営業妨害になる」と檄を飛ばしました。
1936年7月31日、ベルリンオリンピック開幕前日にIOC総会が開かれました。
日本からIOC委員の嘉納治五郎・副島道正(塚本晋也さん)が参加、田畑政治(阿部サダヲさん)も同行していました。
1940年に開催されるオリンピック開催地がこの日にとうとう決まります。
懸命なロビー活動の結果、ライバル・ヘルシンキと同等の票を獲得する見込みができました。
しかし、まだ中国のIOC委員の票が読めません。
日本は満州事変を起こし、中国には悪感情を持たれています。
中国からの投票は望めないだろうと嘉納は考えていました。
オリンピック開催権獲得のために最初に演説をしたのは日本の嘉納でした。
嘉納は日本の良いところ、日本で開催した場合のメリットを話しますが、これまで欧州でばかり行われてきたオリンピックが、アジアに来ることを心待ちにしていると演説します。
オリンピックは、全ての大陸・国・民族に解放されるべきであり、現在、戦争と平和の狭間にあるアジアで、平和の祭典を行いたい、と締めくくりました。
そして東京の運命を決める投票が始まりました。
各国委員がそれぞれ投票した国のIOC委員と力強い握手を交わしています。
中国のIOC委員は、嘉納を一瞥して投票をしました。
そして3時間後に発表された開催地は「TOKYO」
中国は東京に投票したのでした。
嘉納は中国のIOC委員の元に駆け寄り、何度も感謝の気持ちを伝えます。
中国代表は、同じアジア人として日本を支持、スポーツと政治は関係ない、という考えのもと、日本に投票したのでした。
「政治は関係ない」といえども、中国代表が母国に戻れば、非難を受けるのは目に見えています。
それでも、同じアジア人として支持してくれた中国代表の1票を、嘉納たちは重く受け止めました。
IOC会長であるラトゥールを見つけ、話しかけた政治にラトゥールは「日本はヒトラーに感謝した方が良い」と囁きました。
政治は混乱してしまいます。
この知らせは遠く離れた東京にも届き、四三や辛作を始め、東京中の人々が喜び、戒厳令が敷かれていることなど忘れて、3日間お祭り騒ぎが続きました。
ベルリンオリンピックが開幕されると、そのスケールの大きさと統率の採れた派手な演出に嘉納をはじめとする日本選手団は驚きを隠せませんでした。
ベルリンオリンピックでは、聖火リレーの導入・オリンピック記録映画の作成など、初めての試みがたくさんありました。
日本はヒトラーに迎合するように、ロスで被っていたカンカン帽から日本軍の軍用帽を被って行進します。
ベルリンオリンピックの選手村では、日本だけが破格の待遇で、西洋人と一緒で気疲れしないよう日本人選手・関係者だけの生活なのですが、政治は他国の選手とふれあえない選手村に不満を持ちました。
また、選手村内で働いているユダヤ人青年・ヤーコブは、ナチスドイツの制服を見かけるたびに「ハイルヒトラー」と敬礼しています。
政治は、どこを見ても軍事色が消えないベルリンオリンピックに違和感を感じていました。
陸上競技からオリンピックは始まります。
日本陸上陣は田島が三段跳びで金、原田が銀、西田が棒高跳びで銀、大江が銅、走り幅跳びで田島が銅メダルと好調な滑り出しを見せました。
マラソン競技では、日本代表として朝鮮出身の孫基禎と南昇竜が出場しました。
前回大会優勝のアルゼンチンのザバラがトップで折り返しを通過するのですが、猛暑のため33Km地点で棄権。
最初にスタジアムに戻ってきたのは、日本の孫基禎でした。
そのままゴールを切り、日本悲願のマラソン優勝を勝ち取ったのです。
ラジオで実況を聞いていた四三や辛作は涙を流して喜びました。
表彰台には、金メダルの孫基禎と銅メダルの南昇竜、2人の日本代表が上ることになりました。
表彰式には、金メダル獲得者の国歌が流れ、国旗が掲揚されます。
しかし、そのことは選手には知らされていませんでした。
朝鮮出身であるにも関わらず流れるのは日本の君が代、スタジアムに翻るのは日本の日の丸です。
播磨屋では、孫の気持ちを慮っていました。
孫や南は、播磨屋で足袋を作りオリンピックに出場した選手です。
辛作は、日本人でも朝鮮人でも播磨屋の足袋を履いて走った選手は応援し、金メダルを獲ってくれたら嬉しい、と語ります。
四三は、そんな辛作に、それでいいと思うと伝え、この金メダルは播磨屋の金メダルだ!と辛作を胴上げしたのです。
陸上の次は水泳ですが、水泳総監督の政治は「ヒトラーにお礼を言え」と言われた言葉をずっと考え、いつもの調子が出ずにいました。
すると、深夜のプールに一人泳ぐ前畑秀子(上白石萌歌さん)の姿があります。
前畑はプレッシャーと戦い、眠れぬ夜を抱え、練習に励んでいたのです。
政治はこのオリンピックは嫌い、というのですが、前畑は「金メダルを取って好きになる」と強い決意を見せました。
政治はそんな前畑に「前畑がんばれ」と何度も励ましたのでした。
前回、第35回「民族の祭典」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第36回「前畑がんばれ」のあらすじと感想です。
プレッシャーとの戦い
政治から「がんばれ、前畑がんばれ」と励まされた前畑秀子は、「がんばれなんて言うな」と政治をプールへと突き飛ばしました。
前回ロサンゼルスオリンピックで、10分の1秒の差で銀メダルに終わった前畑は、今回の大会では必ず金メダルを取らなければいけないという強迫観念に囚われていました。
銀メダルをとって意気揚々と凱旋したのに、当時の東京市長・永田秀次郎(イッセー尾形さん)からは、なぜ金メダルを取ってこなかったのか、と皆の前で責められてしまいました。
それから、前畑は引退することもできずに、ただひたすら練習練習の毎日を過ごしていました。
前畑が毎日泳いでいた練習メニューは、
- 200m×10本
- 100m×10本
- 50m×30本
- 25m×30本
これを朝昼晩と泳ぎ、前畑が毎日泳いでいた距離は、およそ2万mです。
信じられない量の練習を繰り返していました。
そのかいあって、前畑はついに世界記録を更新、さらに、自身が持つ記録を3度も塗り替えるという快挙を成し遂げていました。
このような実績ができたため、前畑は自信がついたかと思いきや、新聞に世界記録の事が載ってしまったため、かえってプレッシャーを強く感じてしまいました。
「オリンピックで金メダルを取らなければ殺される」と思い込むほど、前畑はプレッシャーに押しつぶされそうになっていました。
ベルリンオリンピック開幕
1936年8月1日、ベルリンオリンピックが開幕されました。
スタジアムは連日満員、オリンピックは最高潮に盛り上がっていましたが、前畑は毎晩毎晩眠れない夜を過ごしていました。
眠れない前畑は、部屋でもベッドに飛び込み、練習に励んでいます。
1960年、連日オリンピック噺を担当している五りん(神木隆之介さん)は、前畑のレース実況が記録されているレコードを聞きながら、オリンピック噺の練習に余念がありません。
師匠の古今亭志ん生(ビートたけしさん)が五りんの前座を務め、場を温めておいてくれました。
五りんの「オリンピック噺」が始まります。
1936年、ベルリンオリンピックでの陸上日本の活躍には目を見張りました。
水泳も陸上に続き、いい成績を残したいところではありますが、水泳総監督・政治は、いつもの調子が出ずにいました。
前畑の最大のライバルはドイツのマルタ・ゲネンゲル、予選にて前畑が世界新記録を叩き出すと、すぐにマルタが前畑の世界新記録を打ち破ります。
数日おきにお互いの記録を打ち破るということをもう3度も繰り返していました。
どちらが勝ってもおかしくない状況に、前畑の不安は強まるばかりでした。
前回に比べ、結果が残せない男子水泳陣に檄を飛ばしていた政治は、扉の前で前畑が聞いていると気づきました。
前畑はプレッシャーに押しつぶされそうになっており、特に「頑張れ」という言葉にナーバスになっていました。
政治は前畑に気を遣い、「頑張れ」という言葉を言わないように前畑を励まそうと必死になっていました。
いつも傍若無人に好きな事を言っていた政治が、前畑に対しては「秀ちゃん、だ、大丈夫、大丈夫。記録なんか気にしなくていいんだからねー」と気を遣う姿に、女子水泳陣たちは驚きました。
翌日の準決勝のレースでは、前畑は予選を通過したもののタイムを落とし、その表情は暗くなる一方でした。
一方のマルタはタイムを縮めて万全の状態で準決勝を勝ち残りました。
女子200m平泳ぎ、決勝前夜
その頃、日本の東京では、かつてロスオリンピックに出場していた高石勝男(斎藤工さん)、鶴田義行(大東俊介さん)、野田一雄(三浦貴大さん)らが朝日新聞社に押しかけ、ラジオの前を陣取り、ベルリンオリンピックの実況を聞きながら、酒盛りをしていました。
播磨屋のラジオの前では、小松勝が四三にプレッシャーに打ち勝つ方法を聞いていました。
四三の答えは「押し花」、前畑にも教えようと電報を打とうとするのですが、それもプレッシャーになると迷いに迷います。
しかし、結局、前畑に電報を打ちました。
水泳の実況を担当する河西アナウンサー(トータス松本さん)が風邪をひいてしまいました。
政治は河西の所へ赴き、4年前、前畑と「次は実況をさせてください」と約束したではないか、と詰め寄りました。
松内アナウンサー(ノゾエ征爾さん)は、自分が水泳を勉強して実況するというのですが、前畑のレースを実況できるのは、河西アナウンサーだと、政治は河西に発破をかけました。
決勝前夜、松澤初穂と小島一枝が 前畑の部屋を訪れました。
2人は日本中から集まった電報を前に、緊張感を漲らせている前畑の緊張を解そうと電報に手を伸ばします。
日本中から届いた激励電報の数は224通。
ほとんどが「がんばれ」
というものでしたが、中には「結婚してください」や「辛か時には押し花がいい」という四三の物もあり、2人の気遣いに前畑はほんの少し緊張を和らげました。
深夜、前畑の枕元に亡くなった両親が立ちました。
明日の試合、頑張れ、と前畑を励まします。
しかし前畑は、「頑張れと言われて頑張って金メダルを取る、人の言いなりではないか、自分の4年間はだれかの言いなり?がんばれの他にないの?」と、憤ります。
前畑の怒りを聞いていた亡き母は、「秀子が生まれてよかった、秀子が母ちゃんの金メダル」と前畑を励ましました。
両親に励まされた前畑は少し気持ちが和らいだようでした。
前畑は、「兄弟の中で自分だけ女学校に通わせてくれてありがとう、大好きな水泳を続けさせてくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えたのでした。
女子平泳ぎ決勝
翌日、200m平泳ぎ決勝の日。
控え室で前畑は日本から届いたたくさんの電報を読んでいました。
政治が控え室に入ると、そこには電報を丸めて口に入れようとする前畑の姿がありました。
政治は慌てて前畑を止めるのですが、前畑は政治の隙を突いて電報を飲み込んでしまいました。
呆然とする政治立ちの前で、前畑は、「これでもううちは1人じゃない、日本人みんなで泳ぐんだ」と言い放ちました。
隣の控え室では、前畑最大のライバル・マルタの所にヒトラーが訪れていました。
マルタに激励の言葉をかけるヒトラーを見た政治は、IOC会長ラトゥールから「日本はヒトラーに感謝した方が良い」と言われたことを思い出しました。
政治はマルタの元から帰ろうとするヒトラーを呼び止め、意を決してヒトラーにオリンピック招致の件について、感謝の気持ちを伝えました。
あいかわらず、「あれをなにしてくれてありがとう」というよくわからない言葉でしたが、ヒトラーを前にして強ばった政治の表情が印象的でした。
ヒトラーは政治の手を取り、握手を交わしました。
そして、決勝戦が始まりました。
前畑は硬い表情のまま、スタート地点に向かいます。
10分の1秒、と念仏のように唱えつつ、スタート台に立ちました。
会場内は、地元マルタへの声援で割れんばかりです。
日本にいる人々は、前畑のレースが始まるのを今か今かと待ちかねていました。
深夜0時を迎え、朝日新聞社の緒方(リリー・フランキー)は、高石らを社から追い出そうとしていました。
日本では、深夜0時になると、ラジオ放送が終わってしまうという規定があったからです。
しかし、ラジオから「皆さん、ラジオを切らないでください」という言葉が連呼されました。
本来ならば実況はやめなければいけない時間ですが、前畑のレースのために、河西アナウンサーは時間を超えて放送することを決めたのです。
号砲一発、女子200m平泳ぎ決勝が始まりました。
横並びにスタートし、前畑は2位につけています。
選手はほぼ横並び、僅かに前畑がリードしています。
一度目のターンでは前畑は2位、大接戦が繰り広げられています。
熱戦に、会場中は地元の代表・マルタへの声援が響き渡っていました。
残り50m。
実況を担当していた河西は、「前畑がんばれ」と連呼し始めました。
熱い実況を聞いていた日本の人々も、ラジオの前で「前畑がんばれ」と叫び続けています。
実況の河西も、応援席の日本選手団も、ラジオの前の人々も、皆声を枯らして「前畑がんばれ」と絶叫していました。
大接戦を制したのは日本の前畑。
ライバルのマルタは前畑に「楽しかった、また一緒に泳ぎましょう」と声をかけ前畑の健闘を称えました。
前畑を応援していた日本人たちは、ラジオの前で号泣していました。
4年前の雪辱を果たした前畑は、表彰式では号泣し、顔を上げることができませんでした。
そして閉会式では、
「1940 SEE YOU TOKYO」の文字が浮かび上がりました。
この文言を見た嘉納に緊張が走りました。
帰国
選手村を去る日がやってきました。
通訳のヤーコブは前畑の姿を探していたのですが、あいにく前畑はヒトラーに呼ばれて着物で出かけて不在でした。
仕方なくヤーコブは政治に撮った写真を預け、「前畑さんすごい、頑張ったと伝えてください」と言いました。
政治は、4年後、東京でオリンピックをする際には通訳として来て欲しいとヤーコブに頼むのですが、近くを通りかかるドイツ兵に強ばった表情を向け、ヤーコブは寂しげな顔で「それは難しい」と政治に答えるのでした。
ベルリンから東京へとオリンピックを託された嘉納は、いつもの豪放磊落な嘉納ではありませんでした。
東京に戻った嘉納に会いに、四三は体協に行ったのですが、嘉納はちょっと挨拶をしたぐらいですぐに部屋にこもってしまいます。
せっかく会いに行ったにも関わらず、冷たい対応の嘉納に四三と小松は違和感を覚えました。
嘉納は、東京オリンピックをベルリン以上の素晴らしい物にしなくてはならないと過度なプレッシャーに押しつぶされそうになっていたのです。
すぐにオリンピック委員の組閣を始め、委員となったのは体協・東京市・軍・貴族などから集めた、そうそうたるメンバーが揃いました。
しかし、人数が増えると問題も増えます。
なかなか嘉納の思ったようには会議は進みません。
ラトゥールは、日本は日本らしいオリンピックをしろ、と言っていたのですが、ベルリンオリンピックの絢爛豪華な様を見てしまった嘉納は、東京オリンピックは国家の一大事業であり、日本の文化、今の日本の有り様を世界に見せるのだ、と息巻いていました。
副島は、そんな嘉納を危ぶんでいました。
スポーツマン精神に則り、日本らしいオリンピックを目指していたはずなのに、今の嘉納はベルリンオリンピックの模倣をしようとしている、と。
副島は、選手村で通訳として働いていたユダヤ人のヤーコブが自殺したと政治に告げました。
オリンピックが終わり、期限付きの人種差別緩和が終わり、通訳としての役目を終えた自分がどうなってしまうのか、ヤーコブは理解していたのです。
そのため、オリンピック閉会式の翌日、自ら命を絶ってしまったのでした。
政治はやりきれない思いでいっぱいになり、マリー(薬師丸ひろ子さん)の店でヤーコブがくれた写真を見ながら飲んでしました。
優勝直後、前畑と政治が笑っている写真、前畑が笑顔で手を挙げている写真、それらを見ながら政治は、複雑な思いを抱いていました。
ヤーコブの死、嘉納の豹変、政治は本当に日本でオリンピックができるのか不安に思い、マリーに占ってもらおうとします。
責任重大として、やんわりと政治の申し出を断ったマリー。
しかし政治が帰った後、隠してあったテーブルの上にはマリーが既に東京オリンピックについて占った跡が残されていました。
その結果は…。
マリーの占いは外れるのです。
新聞社に戻った政治を待ち受けていたのは、政治家となった河野(桐谷健太さん)でした。
河野は、このところの体協が、軍に阿るばかりであることに苦言を呈しました。
不本意ながらそうなってしまっていることに政治も「うるさい」と一蹴するのですが、政治がそんな様子では、次の国会の時に自分はオリンピック反対論をぶち上げる、と宣言し河野は去って行きました。
そんな政治のもとに、日中戦争が勃発したとのニュースが飛び込んできました。
次回、第37回「最後の晩餐」
せっかく東京に決まった1940年のオリンピックですが、日中戦争が勃発したため、軍から激しいオリンピック反対論が巻き起こってしまいます。
世界からの風当たりも強くなる一方。
それでも、東京でオリンピックを行うという強い決意の元、嘉納治五郎はエジプトで行われるIOC総会に参加し、日本開催を危ぶむ声を封じ込めます。
嘉納治五郎、最後の大舞台です。
理想のオリンピックとはなんなのか、真っ白くなってしまった嘉納の顔、体調は大丈夫なのか、せっかく東京に決まったオリンピックの行方はどうなってしまうのでしょうか。
次回は、第37回「最後の晩餐」
予断を許さない状況に目が離せませんね。