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いだてん~東京オリムピック噺~の主人公、金栗四三の生涯 その4

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パリ大会を最後に選手としての第一線を退いた金栗。

故郷熊本に戻り、熊本のマラソンの発展のために尽力します。

目次

故郷熊本に戻り、池部家を継ぐ

パリ大会終了後、東京女子師範学校の教師として勤めながらスポーツの普及に力を注いでいましたが、校長と反りが合わず学校を辞め、熊本に戻ることになります。

金栗、40歳の時でした。

熊本に戻ると、養子先である資産家の池部家を継ぎ、地元でマラソンの普及に尽力しました。

地元では、オリンピック出場の金栗に、「学校の校長を」という声が上がりました。

しかし、校長になるよりもマラソンに携わって欲しいという義母・池部幾江の意思を受け取り、校長の申し出を断り、金栗はマラソンの発展のために力を尽くします。

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そんな中、恩師である嘉納治五郎から、1940年に開催が決定された東京オリンピックの準備を手伝って欲しい、と声がかかりました。

恩師の要請で、国のためにもなることだと、義母の後押しを受け、上京することになりました。

しかし、1937年7月、日中戦争が勃発しました。

東京オリンピック開催に向けて準備が進む中、競技場建設の物資が軍部に流れ、陸軍からオリンピック出場選手が選定されたことに軍が異論を唱えるなど、戦争の影響により、東京オリンピック開催に陰りが見えてきました。

軍や内閣などからオリンピック中止の意見が出始め、国外からも大会開催権返上の意見が上がるようになってきていました。

1938年3月、東京オリンピック開催に情熱を注いでいた嘉納はカイロのIOC総会に出席し、風当たりが強い中説得を続け、東京オリンピック開催決定を勝ち取ったのです。

しかし、嘉納はカイロから帰国途中、船上で肺炎を拗らせ亡くなってしまいました。

横浜港到着の2日前、1938年5月4日のことです。嘉納治五郎77歳でした。

五輪招致に大きな役割を果たしていた嘉納が亡くなると、日本政府はオリンピック開催権返上を閣議決定し、1940年の東京オリンピック開催は幻に終わったのです。

東京の代わりの開催地はヘルシンキに決まりましたが、第2次世界大戦が勃発したため、第12回ヘルシンキ大会も中止、さらにその次、第13回ロンドン大会も中止となりました。

恩師を亡くし、東京オリンピックまで幻となってしまい、金栗は大きな悲しみを抱え、熊本に戻ることになりました。

ロンドン大会出場拒否

第2次世界大戦が終結すると、スポーツ界を復興させるべく、金栗は動き始めました。

まず、熊本県体育協会を発足、会長に就任しました。

1946年には、全国的にスポーツ復興の兆しが見え始め、陸上大会やマラソン大会が全国各地で開催されるようになりました。

1947年には、朝日新聞と日本陸連共催の「第1回金栗賞マラソン大会」が熊本で開催。

関東では、箱根駅伝が始まりました。

そして、ようやくオリンピックが開催されました。

しかし、第2次世界大戦の責任を問われた日本とドイツは、第14回ロンドン大会に出場を拒否されてしまいます。

第15回ヘルシンキ大会出場に向けて、金栗は若手選手育成のため、国際大会である第55回ボストンマラソンに出場させることにしました。

この大会で広島の田中茂樹が「金栗足袋」を履いて優勝を果たします。

田中のヘルシンキ大会での活躍が期待されましたが、ヘルシンキ大会本番では25位と惨敗。

これにより、日本陸連やマラソンに対して世間の風当たりが強くなるのですが、金栗は逆風に負けずボストンマラソンに選手を送り続け、山田敬蔵が2時間18分51秒という驚異的なタイムをマークし優勝。

ヘルシンキ大会での雪辱を果たしました。

カナグリシューズの開発

選手としては引退した金栗でしたが、金栗足袋の改良に携わり、ついに国産で初めてのランニングシューズ「カナグリシューズ」を開発しました。

前述の山田敬三がボストンマラソンで履いていたのが「カナグリシューズ」です。

引退後も日本マラソン会のために力を尽くしていました。

ストックホルムオリンピックに招待

1967年、金栗のもとにスウェーデンオリンピック委員会から招待状が届きました。

第5回ストックホルムオリンピックから数えて55周年に当たる年にオリンピックが開かれるストックホルム。

過去の記録を見返していた委員たちは、日本の金栗が行方不明のままゴールしていないことに気づきました。

55周年の記念に国際親善の式典も行われるこの大会で、金栗に途中で終わっている金栗のマラソンを完走してもらおうと招待されたのです。

快諾した金栗は、スウェーデンに着くと、当時、倒れた時に介抱してくれたペトレ家を訪れ、御子息に会ってお世話になったお礼と感謝を述べ、思い出話に花を咲かせたといいます。

その後、ストックホルム記念球場に用意されたゴールまで10m程走り、ゴールテープを切りました。

「日本の金栗選手ただいまゴールイン。記録は通算54年と8か月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします。」

アナウンスが会場に響き渡り、会場からは大拍手が起こったといいます。

この模様はスウェーデンの公共テレビでも放映され、ようやく金栗のオリンピックが終わりました。

この記録は、世界でもっとも遅いマラソン記録として残されています。

日本のマラソンの父・金栗四三の功績

金栗は、現役時代から現役を退いた後も、マラソンに関わり普及に努め、マラソン界に貢献し続けました。

その結果、

1955年 紫綬褒章受章、スポーツ界での初受賞となります。

1956年、紫綬褒章記念、「熊日30キロ招待マラソン」を開催しました。

1958年、朝日文化賞を受賞。

1962年、玉名市名誉市民に選ばれました。

1972年には、順位関係なく健康のために走るマラソン「熊本走老会」を結成し、初代会長となりました。

この趣旨に賛同し、参加する若者も増えてきたため、「走老会」ではまずい、ということで、後に「走ろう会」に改称しています。

死去、その後

故郷の小学校でマラソンを教えていた金栗。

1983年11月13日、肺炎で亡くなりました。

享年93歳。大往生でした。

病弱な少年は、マラソンに出会い生涯走り続けました。

その走行距離はなんと地球6周分の25万Km。

走って走って走り抜いた一生でしたね。

「体力、気力、努力」という言葉を掲げ、それを見事に体現した一生だったと思います。

金栗四三のひ孫である蔵土義明さんは、ストックホルムオリンピック100年記念の大会に招待されました。

金栗の功績を称えた顕彰プレートの除幕式のためです。

ストックホルムに到着した蔵土さんは、かつて金栗を介抱してくれたペトレ家を訪れ、曽祖父がお世話になった感謝を伝えたそうです。

ひ孫同士、かつての曽祖父たちの交流や金栗のゴールについてなどについて、語り合ったと言われています。

そして、蔵土さんは、金栗がストックホルム大会で全て走り切ることができなかったマラソンにエントリーし、見事、完走。

途中、金栗が倒れた場所で、ひ孫のペトレさんから接待を受け、残りの距離を走りきりました。

蔵土さんがスタジアムに姿を現すと、アナウンスで紹介され、ストックホルムの人々から大歓声を受けました。

100年前、ほんの偶然からペトレ家の人々に助けられた金栗。

そこから遠く離れたスウェーデンと日本の間で交流が始まり、金栗が築いた日本とスウェーデン、そして金栗家とペトレ家の絆は今もずっと続いているのです。

日本の偉大なマラソンの父・金栗四三は、走ることで人と人を繋ぎ、数々の功績を残しました。

生涯走り続けた金栗の意志は、ランナーたちの間に、様々な人々の中に生き続けています。

最後に

2019年大河ドラマとなった『いだてん~東京オリムピック噺~』の主人公の1人である金栗四三の生涯は、非常にドラマチックなものでした。

マラソンというスポーツの知識もなく、競技場もなく、靴もなく、外国へ赴く経験もなく、何もかもが初めてづくし、マラソンの開拓期を自らの知恵と体力と気力で見事に切り開いた金栗四三。

地球を6周するほどのバイタリティー、気力はどこから来ていたのでしょうか。

金栗が創設した正月の風物詩となっている箱根駅伝は毎年大きな感動を人々に与え、私たち視聴者は大学生たちが繰り広げるドラマを毎年ドキドキしながら楽しみにしています。

箱根駅伝には最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」という賞が存在します。

第80回から最も活躍した選手に贈られる「金栗四三杯」は、金栗がストックホルム大会予選会で獲得した優勝カップを複製したものです。

「世界に通用するランナーを育てたい」という金栗の強い思いが宿っている賞なのです。

「日本のマラソンの父」と呼ばれる金栗四三の生涯を、奇才・宮藤官九郎さんがどのように描くのか、そして、ビジュアルがまさに金栗を彷彿とさせる中村勘九郎さんがどう演じるのか、2019年NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』楽しみで仕方がありません。


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