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おんな城主 直虎。井伊直虎の生涯と井伊家の歴史について。

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ここでは、2017年NHK大河ドラマの「おんな城主 直虎」の主人公「井伊直虎」の生涯について、簡単にまとめてみました。

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歴史上のお話しなので、ネタバレなんてことにはならないと思いますが、虎松の将来や小野政次の行く末を書いていますので、本当にまっさらな気持ちで「おんな城主 直虎」を観たい方は、読まない方が良いと思いかもです。

目次

井伊直虎とは

井伊家と聞いて思い浮かぶとしたら、戦国時代徳川四天王と言われた井伊直政。

あるいは、幕末の徳川家の大老井伊直弼でしょうか?

では、おんな城主 直虎とは、一体どんな人物だったのでしょう。

井伊直虎とは、井伊家不遇の時代を支え、井伊家24代当主、井伊直政を徳川に仕えさせた功労者であり、直政の養母と言われる女性です。

許嫁との別れ

幼名は不明、生誕も不明ですが、天文5年(1536年)前後であったという説があります。

父は22代当主、井伊直盛。遠江国の井伊谷(現在の静岡県浜松市)の国人領主で井伊谷城の城主。今川氏に仕えていました。

直盛の子は一人娘の直虎しかいなかったので、叔父直満の子で自身の従兄弟である亀之丞(のちの直親)を娘の許嫁とし、井伊家の後継にしようと考えていました。

しかし、天文13年(1544年)井伊家の家老、小野政直は、その考えに反発します。

今川義元に「井伊直満は今川氏に対し謀反の疑いあり」との讒言をし、直満と弟の直義を自害に追い込みました。子の亀之丞も命を狙われ、井伊家の領地から脱出。病死と偽り、渋川の東光寺に身を隠し、そこから信濃の松源寺に逃げ延びました。この時、亀之丞はまだほんの幼子でした。

許嫁であった直虎は世をはかなみ、龍潭寺で出家し、名を次郎法師と改めました。

直親との再会・井伊家の苦難

それから10年が経ち、今川氏に讒言した小野直政は死去。武田・北条・今川による甲相駿三国同盟が成立し、亀之丞は信濃から井伊谷に帰国することになりました。

帰国した亀之丞は、井伊直盛の養子となり元服。名を井伊直親としました。

しかしこの時、直親には逃亡先で娶った妻がおり、子も成していました。

そのため、次郎法師は還俗することなく、2人の関係は許嫁から兄妹(姉弟)の関係になったのです。

1560年、桶狭間の戦いが起こり、今川方で戦っていた22代直盛が戦死。直親が23代当主に。

1561年2月。井伊家に、待望の男子が生まれました。幼名を虎松といい、のちの井伊直政の誕生です。

しかし、またもや苦難が襲いかかります。

直親が家督を継いだことに反発する小野政直の嫡子、小野政次(道好)は、直親が徳川氏に内通し、謀反の疑いあり、と今川氏真に訴えました。

直親は、弁明のため今川氏の駿府へ出向こうとしますが、途中、掛川城下で今川家の重臣、朝比奈泰朝に討たれてしまいます。

これにより、井伊家の家督を継げる男子は、まだ幼い虎松のみとなりました。

しかし、その虎松にも殺害命令が下され、井伊家最大の危機に。

それを救ったのが、母方の伯父にあたる新野左馬助。

左馬助の助命嘆願により、虎松は母、奥山ひよ(しの)と共に新野家に住むことになりました。

1563年、直虎の曽祖父で井伊家を取り仕切っていた、井伊直平が急死。

今川の命により、天野景泰・天野元景親子を攻めている最中のことでした。

更に、1564年。虎松を擁護してくれていた、新野左馬助や井伊家の重臣、中野直由までもが、引間城攻めの際に討ち死。

まだ幼かった虎松を守るため、三河・鳳来寺に虎松を移し、それでも危機は去らず、虎松の母、ひよ(しの)は松下清景と再婚し、虎松に井伊家の名を捨てさせました。

おんな城主誕生

これにより男子のいなくなってしまった井伊家は、1565年、次郎法師が還俗し、井伊直虎と名を改め女城主となりました。

戦乱で疲弊した井伊谷の民は不満が高まり、一揆も起こりかねない状況に。それを和らげるために、今川家が打ち出したのは「徳政令」。一時的な改善しか見込めないこの策は、井伊家や地元の商人には大打撃を与えてしまう恐れがありました。

これを施行すれば、今川家の内政干渉を許すことにもなってしまいます。

そこで直虎は、被害が最小限に収まるように、徳政令免除の黒印状を発行。今川からの要求を2年間も引き伸ばすことに成功。

しかし、またもや小野政次の横領により1568年、井伊領は小野氏のものになってしまうのでした。

ここでも直虎と虎松は命を狙われ、出家という形で難を逃れることに成功しました。

井伊家再興

しかし、井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)は政次に反旗を翻し、徳川家康の力を借りて、井伊谷城奪還に成功。井伊家を陥れた小野政次を断罪するよう、家康に嘆願します。その結果、政次と息子2人は、井伊谷の蟹淵において獄門に処されました。

その間に、直虎は虎松を養子として育て、虎松15歳の時に徳川に仕えられるよう画策したのです。

その後、虎松は徳川家康に見出され、井伊家は再興。井伊万千代と名を改め、家康の小姓となりました。

1582年、女でありながら領主となり、23代直親と24代直政を繋ぐ役目を見事果たした、直虎の生涯は幕を閉じました。

この後、24代井伊直政は「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」と称され、徳川になくてはならない程の人物となり、やがて徳川の四天王と呼ばれることになります。

上野国箕輪に徳川家臣団の中で最高の12万石で封ぜられ、初代高崎城城主に。

江戸時代には、佐和山藩(18万石)が廃藩になり、新たに彦根藩(30万石)の開祖にもなりました。以来、直虎が守り、直政が切り開いた井伊家の繁栄は長く続くことになるのです。

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