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おんな城主 直虎。井伊谷三人衆の生涯について。

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「おんな城主 直虎」の第19回「罪と罰」で直虎(柴咲コウさん)と、木を盗まれた事件で対立した近藤康用(橋本じゅんさん)。

彼は、鈴木重時(菅原大吉さん)、菅沼忠久(阪田マサノブさん)と共に、井伊谷三人衆と呼ばれています。

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彼らは、井伊谷に所領を持つ武家です。しかしながら今川家とも近く、今川家から井伊家の目付の役割を任じられています。

井伊家に忠実な中野直之(矢本悠馬さん)や奥山六左衛門(田中美央さん)と違って、直虎と対立するような、距離を置いた関係です。

なぜ、この3人は井伊家三人衆とまとめて呼ばれているのでしょうか?

その歴史を、ほんの少し紐解いてみました。

目次

目付って?

まず3人の役目、目付がどんな仕事だったのでしょうか?

目付とは、室町時代にできた役職名なのですが、室町、戦国、江戸時代と少し役割が違ってきます。

室町時代では、幕府の侍所所司代という部署の役職で、盗賊追補などの仕事をしていました。現代で言うと、警察・裁判所にあたります。

それが戦国時代になると、戦の中で誰がどんな働きをしたか、チェックして報告する役目を指すようになります。自分は積極的に戦には参加せず、回りを監視するのだそうです。戦のあとの恩賞功労に直接関わってくるので、その人選は大変重要になります。

また大名(今川家のような、主家)と、国衆(井伊家のような、小さな武家)の取次の役目も担っていました。ドラマでも小野政次(高橋一生さん)は、そのように駿府と井伊谷を飛び回っている姿がよく描かれていますね。

さらに江戸時代になると、幕府から派遣されて諸大名を監視する役職の名前になります。旗本から選ばれ、出世コースだったそうです。目付というと、この江戸時代のスパイのような監視係のようなイメージが強いです。

それぞれの立場

近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久の3人ですが、それぞれ微妙に立場が異なります。

近藤康用

もともと今川家に従っていた武家で、今川寄りです。

ドラマでも、直虎が後見人になることに、最も反対した人物として描かれます。

鈴木重時

井伊直親の母が鈴木家の出身で、井伊家とは縁戚関係になります。なので、井伊家寄りです。

ドラマでは、直虎にやや同情的な人物でした。

菅沼忠久

菅沼一族は奥三河が本拠地でしたが、忠久の一族は遠州に居を構えました。そして、より近い井伊家に被官していたようです。

奥三河と言えば、松平の支配下ですよね。忠久の親戚・菅沼定盈が、松平に仕えています。

井伊谷三人衆の由来

「おんな城主 直虎」の公式ホームページでは、3人はすでに井伊谷三人衆として紹介されていますが、歴史上そう呼ばれるようになったのは、永禄11年(1568年)に徳川家康が遠州攻めを行った後になります。

ドラマでは第19回の「罪と罰」時点で、今川家は武田家と同盟について揉めていて、戦になってしまうのかどうか不安定な状態です。歴史上ではこのあと、西の松平家が遠州に攻め込み、今川家を破ります。

遠州攻めにあたり、松平元康は今川勢を内部から崩そうと工作します。松平の支配下にいる菅沼定盈を使い、菅沼忠久に今川を裏切るように懐柔し、それに鈴木重時と近藤康用も同調します。

こうして井伊谷から松平にやってきた3人なので、井伊谷三人衆と呼ばれるようになったそうです。

永禄11年(1568年)に今川領へ攻め入り、曳馬城(浜松城)を落としたときも、この井伊谷三人衆が道案内を買って出、侵攻ルートをアドバイスしたと思われます。

こうして井伊谷三人衆の働きで、松平元康は今川家を倒し、三河を手に入れることに成功しました。今川家を倒した後、松平元康は徳川家康を名乗ります。

3人のその後

松平の傘下となった井伊谷三人衆ですが、その後はどうなったのでしょうか?

まず近藤康用はこの遠州攻めの際、すでに老齢で歩行が困難となり、息子が戦いに参加しました。閉居し、20年後に亡くなっています。

そして鈴木重時は遠州攻めに参戦しますが、1569年の堀江城侵攻の際、負傷して命を落とします。

菅沼忠久も遠州攻めに参加。生き延び、その後は井伊直政(成年後の虎松)の配下につけられました。1582年に死去しています。

なんと死去後は3人共、龍潭寺に葬られています。お墓も残っていますよ。もちろん龍潭寺には直虎、直親らのお墓もあります。

龍潭寺には井伊家のたくさんの歴史が詰まっていて、今もなお静かに物語を伝えているのですね。

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