商人の町、気賀を取り仕切る商人、中村与太夫。
「おんな城主 直虎」では、本田博太郎さんが演じています。
少し強面、威圧感溢れる低音ボイス、武士と対等に渡り合わず、あえて頭を下げられる強さと勇気。
しなやかに戦国の世を生き抜き、利のあることは譲らない強かな裏の顔も持つ。
しかし、その実態は、毒気とユーモアを兼ね備えた面白いオッちゃん。とても、不思議で魅力的なキャラクターですよね。
一体どんな人物なのか、考えてみましょう。
気賀の町
静岡県浜松市北細江地域にある町で古くは「ケガ」と呼ばれていました。
船での物流が盛んで、南蛮渡来の品や材木の流通拠点でもありました。
大河ドラマでは、今川家の所領なのですが、武家を置かず、商人たちが取り仕切る町とされています。
気賀の町は、北に標高100m以上の山地・丘陵地、南に浜名湖、東に井伊谷川・都田川に囲まれた要害の町です。
交通の要所でもあったので、江戸時代には関所が設けられました。また、江戸幕府が設置した本坂通(姫街道)の宿場町でもあります。
中村家は、気賀宿の本陣(江戸時代の宿場に置かれた、大名・公家・幕府役人など貴人のための宿泊施設)をつとめました。
中村家
中村家の初代は源範頼の末裔の武士で中村正範。大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。
1481年に14代が今川氏に招かれ、遠江国豊田郡大橋郷に移住。1483年宇布見(現在の雄踏町)に屋敷を構えました。
その後、今川氏の家臣として代官を務めました。旧・大和川の水運に関わっていた中村氏は、その技術と知識を活かし浜名湖の軍船の支配役を任されました。
18代中村正吉は時流が今川から徳川に変わったと見るといちはやく徳川方に与し、1568年、徳川家康の遠江侵攻の際に船を出して出迎えたと言われています。
1574年、徳川家康正室・築山殿に折檻されていた側室・お万の方を見つけた徳川の重臣・本田作左衛門重次は、身重のお万の方を中村家に預け、お万の方は中村家で出産しました。その時の子供が結城秀康です。
中村住宅は国の重要文化財に指定されており、中村家には胞衣を埋めた胞衣塚が残されています。
1590年、家康の関東移封に伴い関東移住を請われましたが、中村正吉は宇布見に残り、代々庄屋となりました。
秀康誕生に関わる一件から、秀康を藩祖とする越前福井藩や津山藩から知行を得て、越前松平家一門、浜松藩主から秀康誕生の御殿や胞衣塚を修繕する名目で金銀が下賜されています。
中村与太夫
中村与太夫は中村家の次男、正吉の弟と言われています。宇布見の中村家の分家です。
1587年に本田作左衛門重次によって宿と定められた気賀宿の本陣を務めました。
気賀の中村家は代々与太夫を名乗るようになり、本陣として栄えました。
大河ドラマでの中村与太夫は
商人の町・気賀で、町を取り仕切る町衆の元締め的存在。水運業で財をなし、街の裏も表も知り尽くしている。しなやかに武家とも渡り合い、町の自治を守ろうとしている。
と、公式サイトにあるように気賀の町を取り仕切る町衆の筆頭として活躍しています。
井伊の綿布や材木の売買に協力してくれました。
今川氏真の命により、気賀に城を築きそこに武家が入る、という事態に陥ると直虎と協力し、分裂しかけた町衆をまとめました。
ドラマでは「爪弾きにされました」とちょっと拗ねたようにされていたのが面白かったですね。
釣りポーズで「上手く釣れますかな」というユーモア溢れる演技も素敵でした。
町衆の前では威圧感のある圧倒的な目力で他の町衆を圧倒していました。
これから気賀はまだまだ重要な局面を迎えるわけですが、町衆筆頭としてどのような活躍をしてくれるか、とても楽しみです。
最後に
気賀に築かれる堀川城は、後に徳川家康の遠江国侵攻に際し、攻撃されることになってしまいます。
中村家は直虎が地頭を罷免され、小野政次が井伊谷を治めることになると今川から徳川へ乗り換えます。
その時流を読む力はさすが有能な商人と言えるでしょう。
堀川城には、武装した農民が立てこもったことから堀川一揆や気賀一揆とも呼ばれます。
城兵の約半分が殺害され、さらに女子供を含む約700人の村民が都田川で首をはねられたとされています。徳川家康最悪最大の残酷な史実です。
大河ドラマでは直虎が治め瀬戸方久が入る堀川城ですが、この史実をどのように変化させてくれるのか、楽しみにしています。