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おんな城主 直虎。悪役?橋本じゅんさんが熱演中の近藤康用の生涯。

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徳川家康が遠江に侵攻した時に、今川氏から離反し遠江国井伊谷の案内役として徳川家に合力し、徳川家康の遠江国支配に多大な功績を挙げ、後に井伊谷三人衆と呼ばれた者たちがいます。

そのうちの一人で、初代井伊谷藩藩主・近藤秀用の父、それが近藤康用です。

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「おんな城主 直虎」では、劇団☆新感線の橋本じゅんさんが演じています。

NHK公式サイトのインタビューで橋本じゅんさんが語られている

エッジの効いた野党として頑張りたい

とあるように、非常にエッジの効いた近藤康用を演じておられます。

まず、派手な柄をふんだんに使用している衣装が目を引きます。さらに髪型やもみあげも大迫力です。そして人々を威圧する鋭い眼光、厳つい表情も、多大なインパクトを与えます。

「おんな城主 直虎」では、小野政次に騙されたことを忘れず、政次に憎しみを向ける鬼気迫る演技に目を奪われました。政次を追い詰めるために計略を巡らせる時のほの暗い表情、政次を捕らえた時の愉悦の表情、大怪我を負った康用を治療する直虎に見せた怯えと戸惑いの表情、さらに、身の回りの世話をする高瀬姫に向ける慈愛に満ちた表情。橋本じゅんさん演じる近藤康用はその時々の演技で強烈な印象を与えてくれます。

井伊家目線でドラマを見ていると、なんて嫌な人なのだろう、という印象を持ってしまうのですが、近藤康用はただの嫌な人ではありません。自身の正義を貫き、戦国の世を渡り歩いたその結果、小野政次の処刑に至りました。事情を知らない近藤側から見れば、井伊谷城を専横した小野政次の方が悪だったのです。

井伊谷に武田の侵攻が始まり、近藤康用は直虎と協力体制になりました。この後も、井伊谷は近藤が治めることになり、さらに後には、近藤康用の嫡男・近藤秀用は井伊直政(虎松)の配下になるのです。

近藤と井伊の関係は一体どのようになっていたのでしょうか?

史実の近藤康用とは一体どんな人だったのでしょうか?

目次

近藤康用の生涯

近藤氏の祖は藤原秀郷の後裔である藤原脩行が近江掾(おうみのじょう)という官職につき、官名の「近」と、藤原の「藤」とを結びつけて「近藤太」と称したのが始まりとされています。

近藤康用の祖父・近藤満用、垂直親子は徳川家康の祖父・松平清康に仕えていました。三河統一を進める松平清康が宇利城を攻めた際、武功を挙げた近藤満用は清康から褒美として宇利城を賜り、その後3代に渡り宇利城の城主を務めました。

近藤家の家紋は「鹿角」なのですが、これには近藤満用の嫡男・垂直の逸話が残っています。

清康に従い、三河国宇利の丸山で猟をした時、垂直は鹿一頭を捕え、その角を引き裂きました。清康はその優れた力に感心し、以後「鹿角」を家紋とするようにと言い渡したとされています。なので、それ以降「鹿角」が近藤家の定紋となりました。

しかし、その勇猛だった垂直は、戦場で負傷し、歩行不自由になってしまったため、家督は満用の次男、弟の忠用が継ぐことになりました。

1535年、松平清康が尾張の織田信秀の攻略の足がかりとして守山城に出陣した時のこと、「守山崩れ」と呼ばれる、松平清康が家臣に斬り付けられる事件が起こりました。これにより清康は死亡。家督は幼い広忠が継ぐことになり、松平家は急速に弱体化していきました。

その為、家督を継いでいた近藤忠用は主君を今川家へと変え、今川義元に仕えることになりました。

近藤康用は1517年、近藤忠用の次男として生まれました。通称は勘助、平右衛門、石見守と呼ばれていました。忠用には嫡男・学禅がいたとされていますが、生年没年不明、出家して僧になったと言われています。

忠用と康用は共に今川家に帰属し、近藤氏は知行221貫文を安堵されていました。そして今川から命を受け井伊家の目付として被官しました。

今川義元が織田信長に討ち取られた「桶狭間の戦い」以降、力が弱まってきた今川家は離反する家臣が多く出てくるようになりました。

武田家が駿河侵攻を企て、徳川家と同盟を結び、徳川が遠江侵攻を始めようとした時、家康は家臣であった東三河の菅沼定盈を使って遠州浜名湖沿岸部を有する領主たちの調略を開始しました。菅沼定盈は同族の菅沼忠久に接触、懐柔に成功しました。菅沼忠久は舅である鈴木重時を誘い、さらに近藤康用も抱き込みました。3人は今川を離反し、領土安堵を条件に徳川家に仕えることになったのです。

そして1568年、武田の駿河侵攻に呼応するように始まった徳川の遠江侵攻。菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用、後に井伊谷三人衆と呼ばれる3人を道案内とし、徳川が井伊谷に攻め込んできました。この時、近藤康用の嫡男・秀用も従軍していました。

当時の井伊谷城は、井伊直虎が地頭の任を解任されており、井伊家の筆頭家老であった小野政次が井伊谷城の城代になっていました。近藤康用らは家康の命を受け、井伊谷城を攻撃しました。小野政次は戦うことなく井伊谷城を捨て逃亡し、井伊谷三人衆は井伊谷城奪還に成功しました。今川家に命を狙われていた井伊虎松は三河鳳来寺へ逃れ、小野政次は近隣に潜伏していたところを近藤康用の配下に捕らえられ、井伊谷川付近にて獄門により処刑されました。

その後の堀江城攻めで鈴木重時は討死、家督は14歳だった嫡男が継ぐことになりました。近藤康用は負傷、歩行が困難になってしまいました。

家康から井伊谷三人衆は遠江攻めの功労者であると言われ、以後、井伊谷は三人衆が治めることになりました。

負傷のため、歩行できなくなった康用は井伊谷に閑居し、1588年、その生涯を閉じました。

康用の子孫

1547年に生まれた康用の嫡男・秀用は、1568年の家康の遠江侵攻の際には老齢であった父・康用とともに遠江の案内役として従軍していました。

その後も徳川方として働き、1570年の姉川の戦いや、1573年の三方ヶ原の戦い、1590年の小田原征伐などでも活躍し、軍功をあげました。特に小田原征伐では豊臣秀吉からも賞賛を受けるほどの活躍をしました。

やがて、井伊家の遺児、虎松(井伊直政)が家康に仕え、台頭してくると、秀用は家康の命で寄騎として直政に仕えることになりました。

井伊直政は若輩ながら、才気に溢れ、勇猛果敢、家康の信頼も厚く、徳川四天王と呼ばれるまでに出世したのですが、とにかく部下に厳しい人でした。

若くして大出世をしていくわけですから、その努力たるや並大抵のものではなかったと思われますが、自分の家臣にも非常に厳しい軍律を課していました。

時には、家臣を手打ちにするなどの苛烈な仕打ちをしていた冷酷な直政に嫌気がさした秀用は、直政の陪臣ではなく、家康の直臣に取り立ててくれるように嘆願したのですが、直政から激しく妨害され、さらには暗殺未遂まで起こり、家康の許可を得ずに井伊家を離れ伊勢に出奔してしまいました。

秀用の出奔は、徳川家への反抗であると家康はみなしたようです。

1602年、関ヶ原の戦いでの傷がもとで直政が死去すると、秀用は徳川秀忠に槍奉行として召し出され、上野国青柳に5000石で所領を与えられました。

1603年、池田輝政の仲介により家康の許しを得ることができました。

1614年、相模国内で1万石を加増され、小田原城の城番になりました。同年の大坂の陣でも武功を挙げ、1619年、遠州引佐郡井伊谷に転封。15000石で井伊谷藩を立藩し、初代藩主・大名となりました。さらに、1621年には2000石の加増を受けました。

1625年には石見守に叙任されました。

せっかく大名になった秀用でしたが、井伊谷藩は秀用1代で無くなってしまいました。

それというのも、17000石あった所領を子供たちに分割譲渡したためでした。

以降、近藤家は大名ではなく旗本として徳川家に長く仕えることになりました。

最後に

「おんな城主 直虎」では、悪役として描かれていた近藤康用。

しかし、史実の近藤康用は戦国乱世を己の家名、一族を守ろうと政局を見極め動いただけでした。それは、戦国を生きるどの武将も同じことです。

「おんな城主 直虎」では、小野政次の悲哀に満ちた一生を際立たせるために、近藤康用という憎まれ役が必要だったのでしょう。

橋本じゅんさん演じる近藤康用は、まさにエッジの効いた演技でその役目を見事に果たし、小野政次処刑の回はとても見応えがありました。

さて、今後ストーリーは井伊直政の立身出世のお話になってきます。そうなると出番は近藤康用ではなく、嫡男・秀用になってきます。

ドラマでは、秀用の出番はあるのでしょうか?

個人的には、苛烈な直政と喧嘩して出奔する秀用のお話など見てみたいのですが・・・・。期待しています。


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