謎の山伏として登場した松下常慶。無口で無表情、喜怒哀楽を見せず何を考えているのかわからない。重要な局面で現れ、重大な何かを握っているようなミステリアスな雰囲気を醸し出していましたね。「おんな城主 直虎」では和田正人さんが演じておられます。
このところ徳川の家臣としての姿が頻繁に見られるようになりました。菅田将暉さん演じる虎松(万千代)とのやり取りなどを見ていると、今までの無表情は何処へやら、怒る、怒鳴る、叱りつける、やんちゃな甥っ子に対する叔父さんそのものです。とても表情豊かに演じておられます。慕っている兄・松下源太郎への態度は従順、優しい穏やかな表情を見せています。それだけに自分が連れてきた子供が大好きな兄を裏切ったのですから、虎松に対しての怒りは激しかったんでしょうね。
さて、徳川の密偵として山伏姿で暗躍し、後に武士に戻った常慶ですが、一体何をしていたのかとても気になりますね。なぜ、武士に戻ったのか、元々山伏だったのか、謎多き人物です。一体どんな人だったのでしょうか?
松下家
宇多天皇の第八王子・敦実親王の系統である近江源氏佐々木氏一族の庶流で、六角泰綱(六角氏2代目当主)の三男・長綱の子である円山城主・西条氏綱の子・高長が三河国碧海郡松下に移り住んだことから松下姓を称したと言われています。
嫡流には、若き日の豊臣秀吉(木下藤吉郎)が織田氏の家臣になる以前に仕えた松下之綱の系列があり、常慶の系列は初代の孫・松下国長の次男・連長の系列にあたります。
嫡流の松下氏は頭陀寺城(別名・市場城)城主として駿河国の今川義元に仕えており、今川家家臣・飯尾氏の寄騎として組み込まれていました。今川義元が織田信長に討ち取られると、寄親であった曳馬城・飯尾連竜が今川氏に反旗を翻し、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族同士での抗争が起き始めました。1563年、松下の居城であった頭陀寺城が攻め落とされ炎上してしまいました。
今川氏が滅亡した後は、徳川家康に仕えました。第1次高天ヶ原の戦いで篭城戦に敗れると、当時、織田家家臣で長浜城主だった豊臣秀吉に見出され、秀吉の家臣として仕えることになり、後に遠江久野城の城主になりました。
子孫は、転封により常陸小張1万6千石になり、その後下野烏山2万石、陸奥二本松5万石と加増されていきました。代が変わり領主が年少のため領地が交換され陸奥三春3万石になり、後に領主乱心との理由で改易。子孫は旗本として存続していくことになりました。
一方、連長の系列はというと、連長の子・連昌の代から徳川家康に仕えたとされています。連昌は松下清景(源太郎)・安綱(常慶)の父です。連昌には清景・清綱・信之・安綱・昌信・元綱という息子達がおり、娘は本家・之綱に嫁いでいます。
兄・源太郎
清景(源太郎)以外の兄弟については、目立った武功もなく、詳細がわからないのですが、清景については、井伊直政の継父として知られています。
1574年、松下清景は井伊直政の母・奥山氏の娘・しのと再婚しました。そして、同時に虎松も養子として迎え入れました。虎松が徳川家康に拝謁したのが1575年なので、大河ドラマとは少し違っています。ある説では清景がしのを娶ったのは1568年というものもあります。
史実では清景と虎松が親子だった期間はとても短く、徳川家に仕官させるための手段のように言われています。実父である直親の13回忌法要の時に鳳来寺から井伊谷の地に戻った14歳の虎松を、井伊家再興のため、南渓和尚や直虎、母・しのが、徳川家康に仕官させようと相談します。鳳来寺で僧侶として優秀だった虎松を鳳来寺に返さないために、しのが清景に再嫁し、虎松を松下の養子にしたと言われています。(『井伊家伝記』)
大河ドラマでは虎松が鳳来寺に逃げ込んだ後、すぐに養子となり、松下の跡取りとすべく大切に育てられた様子が描かれていました。直親13回忌の折には既に松下虎松と名乗っていましたね。
1575年、虎松は鷹狩りの折に家康に見出され、井伊氏の名を復することを許され、さらに家康から万千代の名を頂きました。
このため、清景には跡取りがいなくなり、虎松の代わりに中野直之の次男・一定を養子に迎え松下家は存続していくことになりました。
直政が徳川家の家臣として頭角を現し、1590年に上州箕輪城城主となると、清景はそれに付き従い家老を務めました。
1597年、箕輪城城下の屋敷で死去。享年53歳でした。
その後、一定が継いだ家系は井伊兵部少輔家(与坂藩)の重臣として続いていくことになります。
山伏から武士へ
松下常慶(安綱)は1558年、松下連昌の四男として誕生しました。兄・清景とともに家康に仕えたとされています。
常慶はなかなか謎の人物で、説明が難しい人物です。
『井伊家伝記』によると、家康が遠州に侵攻する前、飯尾連竜亡き後の曳馬城の開城工作に活躍、諜報活動に従事していたとされています。若い頃は白山信仰の修験者で二諦坊の住職であった、とも言われています。山伏として諸国をめぐり、遠州・秋葉山の御札を頒布していたという話もあります。
しかし、常慶が生まれたのは1558年。曳馬城の開城は1568年。諜報活動を行っていた時期は、常慶10歳の時の事になってしまいます。少し若すぎるように感じてしまいますね。
『松下家系譜』によると、三河岡崎城にて初めて家康に御目見え後、遠州浜松城の部屋住みになり、小姓に取り立てられ、勘定頭と奥勤め、家康の身辺警護を任されていたとあります。
遠州刑部城の最後の城主としても名が残されています。
刑部城は今川氏の城で、家康の遠江侵攻の際、攻略された城です。家康に命じられた菅沼隊が攻め落とし、菅沼又左衛門(菅沼定盈の叔父)が城主となりました。次いで酒井忠次や天方越中守も城主を努めました。後に三方ヶ原の戦いで徳川軍は敗れ、刑部城は武田領となりました。
その後、再び徳川領となった刑部城は、服部中保次が城主となりましたが、領内巡視中に暗殺され、常慶が刑部城6000石の代官になったとされています。後にこの刑部城は廃城になったため、常慶は「最後の城主」と言われているようです。
また、城の設計に詳しかった常慶は、駿府城建設の際、城の建設工事に参加していました。二の丸の東御門をわずか10日間で完成させ、家康を大いに喜ばせました。この功により駿府城下町に屋敷と700石を与えられました。1945年にその名は消えてしまいましたが、「常慶町」という町の名が残されていました。二の丸の東御門は「常慶門」と呼ばれています。
さらに、常慶が台所奉行を務めていた時の逸話があります。
駿府城の奥女中から「お新香が塩辛すぎるので塩分を少なくして欲しい」との訴えがありました。家康が台所奉行(常慶)にその話をすると常慶は、「今の塩加減でさえ女中たちはお新香をたくさん食べてしまうのに、もし塩分を控えればさらに消費量が増え、財政負担が大きくなる」と答えたそうです。
漬物の逸話は『東照宮御實紀』や『駿河土產』、『岩淵夜話别集』などにも掲載されています。
常慶の妻は落合蔵人の娘。子に重綱・仙誉・昌俊・貞綱(養子)・房利・氏秀・梶勝成(本多忠勝の家臣)の妻・小島良庵の妻・大塩五郎兵衛の妻など、たくさんの子供に恵まれています。
1590年、家康が関東に転封となると、常慶は、武蔵国都筑郡・多摩郡・常陸国鹿島郡の三郡に740石を与えられました。
1624年7月13日死去。享年67歳でした。
直系の子孫は、火付盗賊改め方や駿府町奉行を務めました。
最後に
「おんな城主 直虎」では当初、謎の山伏として登場した松下常慶。
史実でもなかなかミステリアスな人物でした。諜報活動が得意な工作員であったり、計算が得意な勘定頭であったり、城建築に詳しい知識を持っていたり、お新香の消費量まで気にする人物であったり、たくさんの一面を持っている人物でした。
歴史上あまり有名な人物ではありませんが、井伊家にとっては重要な人物です。松下兄弟は、虎松を匿い育て、家康への士官の道に大きな貢献をしてくれた大恩人です。
大河ドラマでは、無表情だった山伏からやなんちゃな甥っ子を可愛がる叔父さんになった松下常慶。
今後残り少ないドラマの中で、どれだけの活躍を見せてくれるのでしょうか。
とても楽しみにしています。
ところで、史実のお話ですが、松下常慶は1558年生まれ。井伊直政は1561年生まれ。
実は3歳しか違ってなかったんですよ。