2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、明治45年から昭和39年にかけての近代日本オリンピック・ストーリー。
明治と大正の変わり目の年に、ストックホルムオリンピックに初めて参加した日本人である金栗四三さん。
昭和に入り、戦後復興の旗印として東京オリンピックを実現させた田端政治さん。
この2人の主人公が時代と共にリレーして、日本とオリンピックの関わりを描いていきます。
この金栗四三さんと田端政治さんは、いったいどのような人物なのでしょうか?まとめてみました。
金栗四三さん(中村勘九郎さん)
金栗四三さんは、熊本出身のマラソン選手です。
引退後は、師範学校の教師としてマラソンの発展に寄与しました。日本の「マラソンの父」と言われています。
子供時代
明治24年(1891年)の夏、福岡県との県境に位置する熊本県和水町に誕生しました。8人兄弟の7番目で、父が43歳のときに生まれたので“四三(しそう)”と名付けられたそうです。
5歳頃までは体が弱かった四三ですが、10歳のときに玉名北高等小学校に入学し、毎日往復12kmの通学路を、走って登下校していました。四三のマラソンランナーとしての基礎はここにあったのだと、後に本人が語っています。そして成績優秀だった四三は、玉名中学校(現玉名高校)、さらに東京高等師範学校(筑波大学)へと進学します。
学生時代、マラソンの才能が開花
東京高等師範学校に入った四三は、1年生で出場した校内マラソン大会で3位になります。そして翌年の国内オリンピック予選大会で優勝し、マラソン日本代表に選出。予選大会での世界記録を27分上回る2時間32分45秒という記録で、人々を驚かせました。
1912年(明治45年)に開かれたストックホルムオリンピックに、金栗四三がマラソン、三島弥彦が短距離走で参加します。日本人初の夏季オリンピック参加となりました。1903年にライト兄弟が飛行機で飛んだばかり、旅客機など無い時代…船とシベリア鉄道で17日間という過酷な長旅でした。四三は、旅の疲れと酷暑のため、レースの途中で倒れてしまいます。68名中完走者は34名だけという、大変なレースでした。
次のベルリン・オリンピックは第一次大戦のために中止、その次のアントワープでは16位。さらにその次のパリ大会にも33歳で出場しますが、マラソン選手としてのピークを過ぎていたため、33km地点で意識を失い棄権。帰国後、第一線を退きます。
日本マラソン会の発展に貢献
28歳の現役中に箱根マラソンを創設し、引退後は女性のスポーツ進出にも力を注ぎます。そして昭和11年の東京オリンピックの準備に携わりますが、戦争へと突入した世界情勢により日本はオリンピック開催を返上、幻となります。その後は故郷の熊本に帰り、国産初のランニングシューズ、カナグリシューズの開発を行うなど、日本のマラソン界を支えていきました。
昭和42年にストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待されます。ストックホルムオリンピックでの記録が、棄権ではなく行方不明扱いになっていたため、オリンピック委員会の企画で、改めてゴールテープを切るというイベントを行ったのです。54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3という、マラソン史上もっとも遅い記録が誕生しました。
そして東京オリンピックを見届け、晩年は熊本で過ごします。昭和58年11月13日、肺炎で92年の生涯を閉じました。
田畑政治さん(阿部サダヲさん)
日本水泳連盟の会長として活躍し、東京オリンピックの誘致に尽力しました。
東京帝国大学を卒業後、朝日新聞に入社して常務にまでなった、エリートといえる人物です。
学生時代
明治31年(1898年)に、静岡県浜松市に生まれます。父は造り酒屋を営み、裕福な暮らしをしていました。田畑家の別荘がある浜名湾近辺では水泳が盛んで、政治も水泳部に入って鍛錬を積みました。しかし高校生のときに盲腸と大腸カタルを患い、医者に水泳を止められ競技を断念。その後は、指導者として後輩の育成に力を注ぎます。
水泳指導者としての歩み
東京帝国大学卒業後、政治家にはならずに新聞社に就職。当時の感覚では東京帝国大学を卒業したエリートは官僚になるのが一般的であり、新聞社の政治部に入った田畑は、変わり者だったと言えます。
東京に勤めながらも休日は浜名に戻り、水泳の指導を行います。全国でもいち早くクロールを取り入れたり、木の枠を入れて波の影響を抑えた海水プールを作ったりなど、意欲的に指導し、浜名を水泳日本一に導きました。
オリンピックにむけて
その後、日本体育協会から大正13年に独立した日本水上陸上競技連盟の創立に携わり、理事として活躍します。日本水泳会の中枢として動く田畑は、オリンピック第一主義を打ち出し、アムステルダム、ロサンゼルス、ベルリンと、水泳競技に次々と優秀な選手を送り込み、好成績を収めました。
昭和15年の東京オリンピック誘致に関わりますが、戦争という世界情勢により、政府の意思で辞退することに。戦争の最中、スポーツは政府の統制下に置かれます。戦後、田畑はすぐに日本水泳連盟を復活させ、オリンピックへの準備を開始しました。しかし昭和23年のロンドンオリンピックでは敗戦国であるため参加を許されず、田畑の活発な働きかけにより次のヘルシンキオリンピックから参加できることになったのです。
ヘルシンキオリンピック後、田畑は東京にオリンピックの誘致を決意。総理大臣の岸信介や東京都知事の安井誠一郎を説得し、オリンピック委員会などに働きかけ、昭和39年の東京開催を勝ち取りました。しかし開催を前にした昭和37年、失言を理由にオリンピック組織委員長職からの辞任を余儀なくされます。以降はいち委員として、開催に尽力します。
晩年
昭和44年にオリンピック誘致の功績で勲二等瑞宝章を受賞。昭和47年の札幌オリンピックにも力を注ぎました。
晩年はパーキンソン病を患います。昭和57年に食べ物を詰まらせて酸欠となり、病院に運ばれるも障害が残りました。昭和59年に死去、死後に勲二等旭日重光章に叙されています。
落語仕立ての語りで進行
脚本は「あまちゃん」で有名な宮藤官九郎さんです。シリアスを交えながらのコメディドラマが魅力の宮藤官九郎さんは、実際に活躍した人物をどう描くのでしょうか?
大河ドラマでは33年ぶりとなる近代日本が舞台。
さらに初の4K制作で映し出される、明治から昭和への時代に移り変わる映像も見どころの1つです。
刀も城も登場しない大河ドラマは、新鮮な気持ちで楽しめそうです。
2020年のオリンピックに向けて、大河ドラマも盛り上がっていくこと間違いなしでしょう!