2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回、第31回「トップ・オブ・ザ・ワールド」は、第10回ロサンゼルスオリンピックで、日本の水泳が世界を制覇するお話でした。
1932年8月8日、女子200m決勝で、日本の前畑秀子(上白石萌歌さん)は予選3位というタイムで通過しており、日本女子水泳で初めてのメダルを!と日本国民、ロスに住む日系人の大きな期待を背負っていました。
レース前に動揺している前畑にチームメイトは、「カッパのマーちゃんがきゅうり食べてるところを想像して緊張を解せばいい」とアドバイスし、スタンドにいる水泳総監督である田畑政治(阿部サダヲさん)がタバコの代わりにきゅうりを囓っている姿を想像したところ、思わず笑ってしまい、緊張が解れました。
その結果、前畑は2位、見事銀メダルを獲得しました。
前畑の活躍を、熊本の金栗四三(中村勘九郎さん)も実感放送を聞いて大興奮です。
次の競技は、日本の弱点と言われている背泳ぎ。
しかし、その背泳ぎで、金・銀・銅メダルを日本が独占という快挙を成し遂げました。
会場の日系人は大興奮、会場内に日系人達が歌う君が代が響き渡りました。
IOC会長のラトゥールは、日本水泳がわずか数年で劇的な進化を遂げたことに驚き、躍進の秘密を嘉納治五郎(役所広司さん)に尋ねました。
嘉納は、日本には400年前から続く、自己の泳ぎの技を追求し、水と一体化する日本泳法という伝統的な泳法があり、それを根底にしているからこそ強いのだと説明します。
ラトゥールは、閉会式のエキシビションとして日本泳法の披露を求めました。
続く1500m自由形でも日本は金・銀メダルを獲得。
日本の快進撃は続きます。
そして残すは男子平泳ぎ200m決勝。
日本からは、前回大会金メダルの鶴田義行(大東俊介さん)と若きエース・小池礼三(前田旺志郎さん)が出場します。
前日夜、緊張のあまり眠れない小池は、同室の鶴田に向かって話しかけ、なかなか鶴田を眠らせようとしませんでした。
レース当日、鶴田は応援席でオリンピック応援歌「走れ大地を」を歌うノンプレイングキャプテン・高石勝男(斎藤工さん)を見て、高石に弱音を吐いたことを考えていました。
若い小池の練習台として呼ばれたけれど、激しい練習についていけず、4年前の金メダルで有終の美を飾っておけば良かった、と泣き言を言ってしまったのです。
高石はそんな鶴田に、「勝つのは小池、気楽に行け」と声をかけ、鶴田はその言葉に「いっちょやりますか、老体に鞭打って」と答えていたのです。
そしてスタートの号砲が鳴り響きました。
飛び込みから鶴田は頭ひとつ飛び出る好スタートを切りました。
2番手小池はラストの50mで鶴田を追い抜くいつものスタイルで鶴田を追いかけます。
しかし、最後のターンが終わり残り50mになっても、小池はなかなか追いつくことができません。
その日の鶴田の泳ぎは力強く、速い。
追い縋る小池を振り切るように、鶴田が1位でゴール。
2大会連続金メダルという快挙を成し遂げました。
高石は自分のことのように喜び、会場の日系人も、ラジオを聞く日本の人々も大喜びです。
日本は6種目中5種目金メダルという、かつてない好成績でオリンピックを終えました。
そして閉会セレモニーのエキシビションとして披露された日本泳法。
政治を筆頭に、監督・松澤一鶴(皆川猿時さん)や副監督・野田一雄(三浦貴大さん)、レースに出場しなかった高石らも参加して褌姿で登場し、日本泳法を披露します。
手足を縛られて泳ぐ手足がらみ、いな飛び、大抜手、片抜手一重伸、最後に「第10回オリンピック競技大会」と書いた水書を披露し、エキシビションは終わりました。
まるで白鳥のようだ、と日本泳法を絶賛する会場の観客たち。
アメリカ水泳監督のキッバスも、これ以降、各国は日本を目指して練習してくるだろうと政治に語りかけます。
「ベルリンオリンピックで会おう」と約束し、閉会式は終わりました。
そして選手村を去る日、リトルトーキョーでは日系人が日本選手団を乗せたバスに向けて、日の丸の旗を振り、大声援で迎えました。
バスの前に飛び出してきた老人は、日本選手団にどうしてもお礼が言いたいと言います。
これまでアメリカに住んで、日系人は人種差別にあい、虐げられていました。
仕事も貰えず、土地も買えず、話しかけても貰えない。
今までずっと肩身の狭い思いをして、それでもこの地で頑張ってきました。
しかし、このオリンピックで日本人が世界を圧倒したことで、世界中が日本人を認め、日系人に対する扱いも変わってきたのです。
初めて、自分は日本人であると大きな声で言える、祖国日本を誇りに思う、と老人は「俺は日本人だ」と叫びます。
周囲からも自分は日本人だという声が次々と湧き上がり、レストランのナオミ(織田梨沙さん)も政治に対する態度を謝罪し、前畑に抱きつき、感謝の気持ちを伝えたのです。
ロスの日系人の窮状を正確に把握していなかった政治らは戸惑い、その熱量に驚くのですが、ナオミらが叫ぶ「I am Japanese American」という言葉に同調し、政治も「俺も日本人だ」と応えていました。
ロスの日系人に見送られ帰国した日本選手団。
政治は朝日新聞社に帰ってきました。
政治が留守の間、政治が託した記事を号外として発行してくれていた酒井菊枝(麻生久美子さん)に大横田(林遣都さん)が負けたのは自分のせいだと後悔を吐露する政治。
菊枝が政治を慰めたことで、政治は初めて菊枝を認識しました。
その日の午後、日比谷公園音楽堂で大市民歓迎会が行われました。
日本国中が日本選手団の帰国を喜び、その奮闘を称えます。
しかし、その控え室で、東京市長・永田秀次郎(イッセー尾形さん)は女子水泳初の銀メダリストになった前畑に「何で金を取ってこなかったの」と勝手な暴言を吐いたのです。
政治は怒りを抑えた冷たい声で永田に呼びかけました。
前回31回「トップ・オブ・ザ・ワールド」を見逃してしまった方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第32回「独裁者」のあらすじと感想です。
日本選手団帰国
全種目制覇を目指して望んだ第12回ロスオリンピック。
田畑政治率いる日本水泳陣は6種目中5種目を制覇。
金銀銅合わせて18個のメダルを獲得するという快挙を成し遂げました。
日本選手団の活躍は、現地の日系人を歓喜させました。
1932年9月8日、日本選手団が帰国すると、選手たちをひと目見ようと東京駅は黒山の人だかり、大変な騒ぎとなりました。
そのまま大歓迎会が行なわれる日比谷公園音楽堂に入り、選手たちが互いの健闘を称え合っていると、そこに1人の立派な老人が現れました。
老人は前畑を呼び出すと、なぜ金メダルを取ってこなかったのかと前畑を責め始めます。
後10分の1秒の差、後ひとかきだったのに、悔しい、と老人は言い募るのです。
突然責められた前畑は呆然とし、周りの選手たちも老人に対し厳しい視線を向けるのですが、老人は全く気にすることなく、前畑に対して言い募ります。
「この悔しさを忘れずに4年後、頑張ってください」と言うのです。
「4年後」この言葉に前畑はピンと来ないようでした。
この時、政治が怒鳴り込んできました。
勝手なことをいう老人にキレたのです。
その老人は永田秀次郎。1940年に東京にオリンピックを招致しようとしている言いだしっぺです。
選手たちは毎日血の滲むような努力をしてこのメダルを勝ち取ってきた、日本記録を6秒も縮めるためにはどれだけの努力が必要だったのか、後10分の1秒を縮めることがどれだけ大変なのか、と叫び、「だったらあんたが泳いでみればいい!」と永田に詰め寄りました。
金メダルを取れなかった大横田は「自分のせいです」と言い出し、泣きながら謝罪を始めてしまいました。
そこに岸も現れ、永田を非難します。
ここは健闘を称える場なのに、なぜ泣いている選手がいるのか、
選手も役員も命懸けで戦っているんだ、スポーツの精神もわからん田舎者は早く引退しろ、と岸は永田を強く非難しました。
すると永田は帽子を取りながら謝罪をし、それでも自分は前畑をとても応援していた、自分だけじゃない、日本国民全員が前畑に期待をかけていた、だからこそ銀メダル、10分の1秒届かなかったことが悔しいのだと、それをわかってほしいと前畑に語るのです。
それを裏付けるかのように、日本全国から前畑のところに激励の手紙が届いていたのです。
「悔しい」、「次こそ金メダル」その言葉に前畑は動揺しました。
前畑は18歳、4年後は22歳です。
4年間もまた厳しい練習を重ねなければならないのか、やったところで結果が出るとは限らない、女性が22歳になっても泳いでいたらおかしい、カッパの秀ちゃんだ、と混乱していました。
同室の仲間たちは、前畑を慰めるのですが、前畑の興奮はなかなか収まりませんでした。
その日の夜、亡くなった両親が夢枕に立ちました。
10分の1秒の差が悔しい、という両親に対し、自分は悔しいのか、と前畑は自問します。
周りが悔しい、悔しい、という状況に違和感を覚える前畑。
あまり悔しさが分からなかった前畑ですが、夢枕の両親に一度始めたことを途中で止めてはいけない、と言われ、考え始めます。
「銀メダルは途中?」と尋ねる前畑に、両親は深く頷きました。
夢から覚めた前畑は、「やらな!」と叫ぶと、プールに向かい、さらに激しい練習に打ち込み始めたのです。
4年後のベルリンオリンピックに向けて、前畑の戦いが始まった瞬間でした。
昭和天皇、ご進講
1932年9月29日、大日本体育協会会長の岸は昭和天皇にロサンゼルス大会についての御進講を行いました。
「生きて陛下のご尊顔を拝し奉った上に、オリンピックについて報告申し上げる日が来ようとは!」と大興奮で体協本部に帰ってきました。
その中で、東京にオリンピックを招致することに関しての岸の考えも話しています。
岸の考えでは、ドイツ・ベルリンで開催される4年後のオリンピックは、ヒトラーが政権を取ったらオリンピック不要論を唱えているヒトラーが開催権を返上するかもしれず、そうすれば繰り上がりでローマ、1940年には労せずして日本が開催権を獲得できるかもしれないと、奏上していました。
しかし、岸の思惑は外れ、ヒトラーがドイツの首相に就任すると、ヒトラーはこれまでの主張を翻し、オリンピックに積極的に取り組むようになったのです。
日本の招致は厳しい状況となってしまいました。
さらに、東京にオリンピックを招致したいと言い出した永田は、部下の汚職の責任を取り辞任することになったのです。
永田が東京市庁舎を去る日、たまたま東京市庁を訪れた政治に、「良いオリンピックにしてくだい」と希望を託し、永田は去って行きました。
東京オリンピック招致委員
政治が東京市庁を訪れた訳は、東京オリンピック招致委員会に招かれていたからでした。
そこには体協会長の岸、IOC委員の嘉納、さらに、元国際連盟の事務局次長で、嘉納塾出身、柔道6段の杉村陽太郎(加藤雅也さん)や、元貴族院委員の副島道正(塚本晋也さん)がオリンピック招致委員に加わりました。
日本は満州事変について、国際社会で糾弾され、国際連盟を脱退せざるを得ない状況になっていました。
国際社会から孤立した日本が名誉挽回するためには、オリンピック招致は持って来いの案件だとして、杉村らは力を注ぐことになりました。
あまり、東京でオリンピックを開催する事について乗り気ではなかった政治でしたが、嘉納に強引に招致委員に任命されてしまいました。
政治、結婚
政治は、勤め先である朝日新聞社にて、毎日ロスオリンピックについて熱く語っていました。
あまりに騒がしい田畑を上司である緒方竹虎(リリー・フランキーさん)は注意しますが、政治には全く効きません。
ならばと、緒方は政治に回顧録を書けと命じたのです。
楽しかったロスオリンピックのことを記事にできると政治は大喜びで、政治部の仕事が終わった夜に回顧録を書き進めます。
政治が夜に回顧録を書いていると、酒井菊枝が毎日政治に差し入れをしてくれるようになりました。
頂いてばかりでは申し訳ないと、政治はロスオリンピックの思い出話をお礼に語って聞かせていたのですが、菊枝は全く興味が無い様子。
それでも毎日政治の仕事につき合い、差し入れをしているのです。
だんだん政治も菊枝のことが気になり始めてきました。
マリーに菊枝のことを打ち明けると、見合い相手はどうするのかと言われてしまいました。
元々、忙しくて写真も見ていない相手、最近では菊枝のことが気になってきている政治は、見合いは断ろうと思っているとマリーに答えました。
嫌がる政治の手を無理やりとったマリーは、見合い相手とも菊枝とも結ばれることはない、と占いました。
次の日、政治は緒方に見合いは断ると告げました。
写真は見たのか、という緒方に、見てないと答えた政治。
気になる人ができた、と菊枝の方をちらちらと見ていました。
緒方は菊枝の方に歩み寄ると、そういうわけだから、と政治との結婚はなかったことに、と言い始めたのです。
そこで、改めて見合い写真を見た政治は、見合い相手が菊枝だとようやく気づき、菊枝と緒方の間に割り込むと、菊枝に「結婚しよう」とプロポーズをしたのでした。
1933年4月、政治は酒井菊枝と結婚しました。
朝日新聞社の同僚の河野(桐谷健太さん)もお祝いに駆けつけてくれました。
河野は政治を、政治はスポーツを頑張ると約束した2人です。
結婚式の余興に名のある芸人を呼んだ、という政治の目の前に現れたのは「志ん馬」と名乗る美濃部孝蔵(森山未來さん)でした。
この頃の孝蔵は、ようやく噺家として収入を得られるようになっていたのです。
お座敷や結婚式の余興で小遣いを稼ぎ、師匠連中や売れっ子が嫌がるラジオでの噺を積極的に受けるようになったのです。
その放送は、遠く離れた熊本でも流れていました。
九州一周マラソン
その日、熊本の池部家では、ロスオリンピックの日本選手団の活躍に背中を押されてマラソンを再開した四三のもとに1人の青年が現れました。
青年は熊本中学の小松(仲野太賀さん)といい、九州一周を目指していると四三に話します。
四三は小松の太ももやふくらはぎ、足の裏、履いている足袋などを確認すると、これではダメだ、といい金栗足袋を持ってきました。
足にぴったりとハマり、裏にはゴム、踵は厚みがありとても走りやすいと小松は大喜びです。
そんな小松を横目に見ながら、四三は九州一周の伴走をするとスヤ(綾瀬はるかさん)に告げました。
いとも簡単に四三が言ったことに驚き、また、スヤが余りにも動じていないことにも小松は驚きました。
四三に服を脱がされ、四三と同じように冷水を浴びた小松、思わず四三と同じような悲鳴をあげてしまいました。
現代の東京では、風邪気味でくしゃみを連発している五りん(神木隆之介さん)も冷水浴をしていました。
死んだ親父の遺言なのだそうです。
体協会長・岸清一の死
辞任した永田の代わりに牛塚虎太郎が市長に就任しました。
5月、ウイーンで行われたIOC総会に出席した嘉納は、杉村がIOC委員になったことに喜んでいました。
その頃の日本では、体協会長・岸が喘息で入院していました。
杉村がIOC委員になったことに喜び、帰ってきた杉村から1940年の候補地が、ローマ・ヘルシンキ・東京の3つに絞られたと聞かされました。
また、昭和天皇に御進講できたことを思い出しては、泣いていました。
平和の祭典、オリンピックが東京で行われるということに思いを馳せる岸でしたが、岸の気持ちは届かず、1933年10月、岸は病気のため死去しました。
享年66歳でした。
嘉納は、日本へ向かう船の中で岸の訃報を聞きました。
政治は嘉納が来るのを待って、岸の納骨を行っています。
岸の強い希望を叶えるため、政治も断るつもりだった体協理事になることを決め、東京オリンピック招致に向けて、邁進することを誓いました。
亡くなった岸の代わりに副島がIOC委員になることが決定しました。
1934年、アテネで行われたIOCの総会に出席した嘉納は、いつになく悲観的でした。
それはIOC総会でローマのオリンピックに向ける熱量を感じ取った嘉納は、このままでは日本はダメだと言い出します。
人の意見を繰り替えすばかりで自分の意見を言わない政治に対し、他の委員たちは苛立ちを募らせます。
自分の意見を言われた政治は、立ち上がって同じ委員のところに向かいます。
何かいい方法はないかと言われた政治は、「誰のためのオリンピックなのか」といいだしました。
誰のためのオリンピックなのか、国民のためなのか、軍のためなのか。
自信を持って決めませんか、というのです。
潔く諦めますか?と政治は嘉納に尋ねるのですが、「戦わずして勝つ」がモットーの嘉納は、奪い取るのではなくて、譲ってもらうことはできないか、考えるようになりました。
日本のことを知り、思わず日本でオリンピックを開催したくなるような資料を作れと言われた政治。
新婚だというのに自宅に後輩や部下を招き、日本を紹介する写真集を作り上げました。
その写真集の名は「日本」。
嘉納も他の体協理事たちも写真集の出来の良さに驚いていました。
完成した写真集を持ち、意気揚々とローマに旅立とうとした嘉納は、苦悶の表情を浮かべてそのまま倒れてしまいました。
次回、第33回「仁義なき戦い」
倒れてしまった嘉納の具合はどうなのか、ローマに開催権を譲ってもらうことはできるのでしょうか、招致に向けてまだまだ問題は山積みです。
政治の頑張りと嘉納の容態、九州一周を始めた四三の動向にも注目したいところです。
次回、第33回は「仁義なき戦い」、仁義なきオリンピック招致争いに目が離せませんね。