2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回第33回「仁義なき戦い」は、1940年に開催されるオリンピックの開催地を巡って仁義なき戦いが行われたお話でした。
イタリアの首相・ムッソリーニによるオリンピック招致活動は素晴らしく、1940年のオリンピック開催地の最有力候補地はイタリア・ローマが優勢でした。
オリンピック招致活動に遅れを取ってしまった日本は、最有力候補地のローマに「譲ってもらおう」という奇策に打って出ました。
駐イタリア大使の杉村陽太郎(加藤雅也さん)がムッソリーニとの会談をセッティングできるということで、嘉納治五郎(役所広司さん)は、意気揚々と立ち上がりました。
しかし、その瞬間持病の腰痛が悪化、動けなくなってしまいます。
仕方なく、IOC委員になったばかりの副島道正(塚本晋也さん)と田畑政治(阿部サダヲさん)がイタリアに行きムッソリーニと会談をし、その後オスロで行われるIOC総会に出席するために日本を立ちました。
政治の同行は、嘉納から託されたということに加え、独占取材をするという名目で記者としての役割も与えられていました。
1934年12月14日、長旅を経てイタリアに到着した政治と副島は杉村と合流し、イタリア首相官邸に向かいます。
ムッソリーニとの会談が始まる直前、ムッソリーニの姿を見たその時、これまでの長旅の無理がたたって副島は肺炎で倒れてしまいました。
高熱にうなされ、生死の境を彷徨う副島。
副島が倒れた理由を、杉村は必死で説明します。
真面目な副島は、長旅で体調を崩しながらもムッソリーニ会うために耐えてここまでやってきたのだと説明すると、ムッソリーニは「SAMURAI!」と叫んで席を立ってしまいました。
政治から副島が倒れたと知らせを受けた日本の嘉納は、入院中にも関わらず自分がイタリアに行くと言い始めるのですが、嘉納の診断はただの腰痛ではなく脊椎損傷、大怪我でした。
注射を300本も受けて、なんとか回復した副島は30分の外出許可をもらい、ムッソリーニとの会談に臨みました。
副島の覚悟と決意を感じ、また、その4年後にはローマを開催地にするために日本は協力を惜しまないということを伝えると、ムッソリーニは立候補を辞退、日本にイタリアの票を譲ると約束しました。
その後、副島はまた体調を崩し、オスロでの総会には杉村が1人で行くことになりました。
ローマは辞退するので、ヘルシンキと東京の一騎打ちのはず。
勝利を確信し、総会に行った杉村は、IOC会長ラトゥールから、最終候補地はローマ・ヘルシンキ・東京であると聞かされ驚愕しました。
ムッソリーニの指示を聞いていないかのようにイタリアのIOC委員・ボナコッサは最終アピールを始めます。
動揺しながらも、杉村は嘉納から託された最終スピーチを読もうとするのですが、どうしてもムッソリーニとの約束が気になり、最終スピーチの原稿を畳むと、ローマは日本に票を譲るとムッソリーニから約束されたと言ってしまいました。
ボナコッサは、スポーツと政治は別、として杉村の主張を退けます。
後日、イタリア公使を味方に付け、杉村はボナコッサを説得するのですが、ボナコッサは首を縦には振りませんでした。
3月1日の投票日、ボナコッサはとうとう折れ、不本意ながら日本に票を譲ると発言したのです。
この発言を受けて、会場内は騒ぎになりました。
ラトゥールは、ボナコッサの発言は政治的圧迫に負けた意見として、これを認めることはできないと、投票を1年後に延期する決定を下しました。
杉村は猛抗議をするのですが、かえってラトゥールら委員たちを怒らせてしまいます。
「嘉納治五郎ならこんなことにはならなかった」と言われた杉村は、これまでの日本への1票は嘉納治五郎への1票だったと痛感することになりました。
副島の看病としてローマに残っていた政治がオスロに駆けつけたものの、総会は終わったあと、落ち込む杉村を慰めることしかできませんでした。
日本に帰った政治たちが、東京市長・牛塚(きたろうさん)に報告していると、まだ腰が痛む嘉納がやってきました。
そしてまた奇策を考えてきたというのです。
嘉納が考えた策は、ラトゥールを日本に招待して接待しようというもの。
政治たちは怒らせちゃったのに難しいのでは、と難色を示すのですが、嘉納の心のこもった手紙で気持ちを和らげたラトゥールは、日本に来ることを決めたのです。
同じ頃、熊本の金栗四三(中村勘九郎さん)は、池部家の旦那さんとして生活していましたがすることもなく、鬱憤が溜まっていました。
嘉納から東京オリンピック招致に向けて、上京するようにとの依頼を受け取っていた四三は、弟子となった小松(仲野太賀さん)とともに、東京に出る決意を固めます。
深夜、スヤ(綾瀬はるかさん)や子供たちが寝入ったあと、置き手紙を残して四三は家を出ようとしていました。
前回、第33回「仁義なき戦い」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは、第34回「226」のあらすじと感想です。
226事件
スヤや池部の人々に置き手紙を残し、こっそり東京に行こうと家を出る四三ですが、その頃の東京は不穏な気配に包まれていました。
1936年2月26日、午前5時。
雪道の上を歩く軍靴の音が東京赤坂表町に向かってに響き渡っていました。
赤坂にある田畑邸にて、政治の妻・菊枝(麻生久美子さん)がベルギーの国旗を作っていました。
すると早朝であるにも関わらず、外からけたたましい発砲音。
菊枝は夫・政治を起こしました。
政治がカーテンの隙間から外を覗くと、夥しい数の軍人の姿が確認できました。
不穏な気配を感じ、政治の家の前を軍人たちが通過したのを確認すると、政治は急いで朝日新聞社に向かって走り出しました。
首都東京を震撼させた226事件の始まりでした。
午前6時半。
朝日新聞社の中は突然起こった事件に騒然としていました。
編集局長の緒方竹虎(リリー・フランキーさん)は号外の準備を急いでいました。
編集局内は様々な情報が飛び交っています。
- クーデターの首謀者は、皇道派の影響を受けた陸軍の若い将校
- 昭和維新、尊皇斬奸をスローガンに決起
- 岡田首相がやられた
- 渡辺錠太郎教育総監も殺害された
- 警察は軍に抑えられていて身動きがとれない
様々な情報が錯綜する中、内務省から「一切の記事を差し止めろ」という命令が下されました。
熊本の四三は、暴動が起きて東京は大混乱ということを駅長から聞いたことから一旦家出を中止、家に戻ることにしました。
東京の街中も混乱していました。
美濃部孝蔵(森山未來さん)は、この日新しい家に引越し予定だったのですが、このクーデターの勃発により街は混乱、運送屋が時間通りに来なかったのです。
遅れた運送屋に文句を言う孝蔵は、運送屋からこの事件のことを聞きました。
朝日新聞社襲撃
記事を差し止められた新聞社に、軍人たちが侵入し、「一番偉い人に会わせろ」と要求してきました。
緒方は、自分が行くと言いリーダー格の青年将校の前に出ました。
将校が腰に手をやり拳銃を取り出した瞬間、緒方は将校の懐に入り込み、交渉を始めました。
しかし、緒方の言葉は将校に届かず、自分は高橋是清を粛清してきた、と緒方を脅します。
将校は「国賊新聞を叩き壊すのだ」と宣言し、破壊活動を行おうとします。
将校に逆らってはいけないと緒方は社員を逃がすために交渉を続けます。
一度将校から離れ、社員のもとに戻ってきた緒方に政治は噛み付きました。
奴らに屈したら言論の自由はどうなるのだと食い下がるのですが、今は人命の方が大切な時です。
政治は、緒方から高橋是清が殺されたこと聞き、呆然としてしまいます。
すぐに、軍人たちの蹂躙が始まりました。
手加減なく壊される机、散らばる資料や写真。
その中で、オリンピックの写真が軍靴に踏み付けられたのを見た政治は、軍人に抵抗を始めてしまいました。
政治は銃で殴られ吹き飛ばされ、頭から血を流す大怪我を負ってしまいます。
それでも政治は軍人に向かっていこうとするのですが、同僚らに止められてしまいました。
午後5時半、政府は報道を差し止め、新聞もラジオも事件を伝えられずにいました。
孝蔵は、ラジオ番組出演のためにラジオ局に入っていましたが、あえなく放送は中止。
軍による規制が入ったため、報道は一切されず、東京で何が起こったのか発表があったのは、クーデター発生から15時間経った午後8時半でした。
その陸軍省からの第一報は、
- クーデターの首謀者は陸軍の青年将校の一部。
- 占拠されたのは、首相官邸、警視庁、斎藤実内大臣私邸、高橋是清大蔵大臣私邸、渡辺錠太郎教育総監私邸など、政府要人の私邸
このため、戒厳令が敷かれるようになり、首都機能は麻痺。
反乱軍は、29日に投降しましたが、依然東京は厳戒態勢が敷かれたままでした。
IOC会長・ラトゥールの来訪の知らせ
怪我を負った政治でしたが、短い睡眠の後、また2、3日社に泊まり込む、と妻に告げました。
そこにIOC会長ラトゥールがサンフランシスコを立ち、日本到着は2週間後になるという知らせが入りました。
嘉納のもとへすぐに行く、と答える政治ですが、こんな時にオリンピックか、と疑問を感じていました。
さらに、自分が関わった政治家は殺されていく、次は緒方か河野か、それとも自分か、と政治は恐怖を感じていました。
記者になんかならなければ良かった、そうすれば能天気にオリンピックに邁進できた、と後悔をにじませます。
「こんな時だからこそオリンピック」という嘉納のようになれない、どんどん悲惨な状況になっていくのを記者の田畑は見過ごせない、と苦悩しています。
するとそれを聞いていた菊枝は、それならば辞めてしまえばいい、と政治に言います。
「どっちをやめればいいんだ、その返答によってはたとえ君でも…!」と答える政治に、菊枝は穏やかに話し始めました。
どっちにしろ、自分にはいいことばかりだと言うのです。
政治の忙しさが減り、政治のタバコの本数が減る、夫婦の時間が増え、新婚旅行にも行けるようになる、と菊枝は言います。
政治は菊枝に苛立ちをぶつけながら嘉納のもとへ急ぎました。
到着した政治に嘉納は「遅い!」と叱責します。
「もう、ラトゥールが来るんだぞ、ベルギーから」と嘉納が言うと、政治は嘉納や東京市長・牛塚に食ってかかりました。
こんな時にオリンピックか、戒厳令が敷かれている東京でオリンピックができるのか、と政治は叫びます。
「寝てないし、怖いし、死にたくない!」こんな時にできるわけがない、と叫びながらも、「でもやりたい!」と本音を叫ぶ政治。
嘉納が本気でやるならば自分はついて行く、と言う政治に嘉納は、「やれるとかやりたいとかじゃないんだよ、やるんだよ」という力強い言葉を聞いた政治は、もう後ろ向きなことは言わない、オリンピック招致に向けて全力で突き進む、と宣言し、妻が作ったベルギーの国旗を皆に渡しながら2週間後に迫ったラトゥール接待作戦を練り始めました。
ラトゥール接待作戦
まず、ラトゥールに見せたいところは、神宮外苑競技場。
日本の文化についても見てもらいたいところです。
地図上に見てもらいたい箇所をピックアップしていくと、見事に戒厳令が敷かれている場所を通ることになります。
ラトゥールに東京を案内するためには、東京の街中、細かい道まで知り尽くした人物が必要と思い、嘉納はある人物を手配するのです。
1936年3月19日、1か月の長旅を経て、ラトゥールが日本に到着しました。
おもてなしだからといって卑屈になってはいけない、あくまでもナチュラルにラトゥールを迎えようと言っていたはずなのに、ラトゥールが部屋に入ってきた瞬間に嘉納は万歳三唱と紙吹雪とベルギー国旗でラトゥールを出迎えました。
そして、少年少女らによるオリンピック応援歌「走れ大地を」の合唱です。
嘉納は、ラトゥールの長旅の疲れを労わり、来てくれたことに感謝を示します。
東京市長・牛塚はラトゥールの来訪を心から歓迎すると伝え、副島はオスロ総会に参加できなかったことを謝罪し、杉村もラトゥールに謝罪します。
しかし、杉村の顔を見た瞬間にラトゥールの顔色が変わりました。
まだまだ許してはいないようです。
ラトゥールは記者から訪日の目的を聞かれ、日本でオリンピックが出来るかどうか見極めに来た、と話しました。
次は、ラトゥール全力接待作戦の始まり、嘉納の手配した人物による東京案内です。
そうして呼ばれたのは、かつて嘉納治五郎のライトマンを務め、東京中の道を網羅している元車夫の清さん(峯田和伸さん)でした。
清さんは人力車にラトゥールを乗せ、東京中を走り回ります。案内役には政治がつきました。
一行は隅田川沿いの桜を見ながら走り、新橋で歌舞伎を見た後、芝の料亭で会食。
そしてオリンピックのメイン会場、明治神宮外苑競技場の視察です。
嘉納は、競技場の真ん中でラトゥールに説明を始めました。
競技場完成間近の時に関東大震災が起こり、東京が崩壊したこと。
この競技場は被災した人々のために開放し、バラックが建てられていたこと。
その大変な最中にあっても日本人はスポーツを愛し、希望を忘れませんでした。
運動会の写真を見せながら、嘉納は丁寧に解説していきます。
戦火の被害にあったアントワープでオリンピックを行ったラトゥールの英断を称賛し、関東大震災で全てを失った日本が13年かけて立ち直った姿を世界に見せたい、だからこそ、ここでオリンピックをやりたい、と嘉納は真摯に語ります。
そこに、朝鮮から留学してマラソンをしている学生たちが現れました。
ラトゥールは、足袋を履いてマラソンしている学生たちを「カナクリ」と呼び始めました。
ラトゥールはこれ以上競技場を大きくする必要はない、と話します。
ベルリンは10万人収容できるスタジアム、神宮競技場はせいぜい4~5万程度です。
しかし、大きさの問題ではない、これは市民のためのものだから、とラトゥールは答えます。
その後、他に行きたいところを問われたラトゥールは、第2代体協会長の岸清一の墓参りがしたい、と言いました。
明治神宮で参拝の後、岸のお墓参りを済ませ、YMCAプールを視察後、孝蔵の落語を見ました。
軍人を上手に避けながら清さんの人力車は進みます。
大通りを避け、路地裏に行くと、小さな子供たちが日本古来の遊びをしながら、オリンピックごっこをして遊んでいました。
優勝した選手に花冠を乗せる姿を見たラトゥールは感動し、嬉しそうに子供たちの遊びを見ていました。
そのうちにお腹がすいたラトゥールは、「お腹がすいた」と騒ぎ出します。
政治は、料亭でうなぎを予約している、というのですが、我慢できないというラトゥールに、仕方なく清さんは自分の弁当を差し出しました。
四三の上京
その頃、熊本の四三は、新聞でラトゥール来日を知りました。
意を決して養母である幾江(大竹しのぶさん)と家族らに話を始めました。
東京にオリンピックを呼ぶ運動をしているから、四三にも力になって欲しいという嘉納からの依頼を受け、東京に行きたい、という四三の気持ちを酌んで、幾江は行くからにはしっかり立派にきっちり果たしてこい、と送り出そうとしました。
それに安心した四三は、自分がいなくても寂しくはないだろうが、とうっかり口を滑らせてしまいます。
それを聞いた幾江は、我慢していた感情を爆発させます。
「寂しくなかとはどぎゃんこつか」と怒りを爆発させました。
どうして他人行儀な冷たい事を言うのかと、幾江は怒り始めました。
息子に先立たれた幾江、四三は実の親を亡くし、頼れる実次ももういません。
そうしたらもう腹をくくって本当の親子になるしかないではないか。
何年も一緒に暮らしていたら情も湧き、4年もいなくなったらさみしいに決まっているのに、なんでそんな冷たいことを言うのだと、四三をポカポカと叩くのです。
涙を流しながら四三を叩く幾江を見た四三は、呆然としながらも涙を流し、そんなことを言われた自分もさみしい、と幾江に抱きつくのでした。
後進に託す
東京でラトゥールは嘉納と柔道をしていました。
嘉納はラトゥールに寝技をかけ、逆らわずして勝つ、これが柔道、と柔道の極意を説明します。
オリンピック創始者のクーベルタン男爵も柔道を愛してくれていたが、日本は遠すぎる、として日本でオリンピックを開催するなど難しいと一蹴していました。
しかし、ラトゥールは1か月もかかる長旅を経て日本に来てくれた、それだけでも感謝します、と嘉納は気持ちを伝えました。
そして杉村を呼び、ムッソリーニを説得せよと指示したのは自分だと告白を始めます。
嘉納は潔く、「道に反することをした、あなたの顔に泥を塗った、このとおり、謝る」と土下座で謝罪した後に、東京にはオリンピックが開催できる条件が揃っており、国民の関心度も高い、それなのにヨーロッパから遠いというだけで、これまで見てもらえることすら叶わなかった、岸は志半ばでこの世を去り、自分ももう年だから、彼ら若い世代に襷を渡したい、正攻法では間に合わないと踏んで、禁じ手を使うしか手段がなかった、そのために、ラトゥールを怒らせてしまった、と詫びました。
もし、東京でオリンピックを開催できたのなら、最高の、アジア初の、歴史に残る、平和の祭典にする、と力強く宣言した嘉納は、後は彼らに託す、と杉村、副島、政治らの肩に手を置き、道場を去りました。
杉村はラトゥールにIOC委員辞退を告げ、自分の願いは東京にオリンピックを招致すること、そのためには喜んで身を引くといい杉村もまた道場を去りました。
政治は、杉村の功績を称え、「お疲れ様でした」と深々と礼をしました。
視察最終日、ラトゥールの帰国の前に、東京市長は兜をプレゼントしました。
ラトゥールは挨拶の中で、日本国民の活動力と熱意に驚いたと発言しています。
子供にまでオリンピックが浸透していること、オリンピック精神に満ちている、オリンピックを待ち望んでいることが理解できたと話します。
そして、オリンピックはアジアに来るべきだと宣言したのです。
最後のお勤め、として清さんの人力車で移動するラトゥールと政治。
その途中、足袋で走る二人組を見たラトゥールは「カナクリ」と叫び、人力車を止めようとしますが、もはやその姿は確認できず、四三は熊本にいると政治は言い、人力車は走り出しました。
しかし、東京の街中を足袋で走っていたのは、四三と小松。
とうとう上京してきていたのでした。
次回、第35回「民族の祭典」
1936年夏、ベルリンオリンピックが開催されました。
その裏では4年後の開催地を決めるIOC総会が始まりました。
ベルリンオリンピックはナチスが総力を挙げて行う大規模なものですが、何やら政治は「俺はスポーツをやりに来たんだよ」と叫んでいましたね。
ベルリンオリンピックでの日本勢の活躍と、開催地決定にドキドキします。
次回、第35回「民族の祭典」では何が起こるのでしょうか?楽しみです。