2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、毎週日曜日20時からNHK総合他にて放送中です。
前回21回「櫻の園」は、アントワープオリンピックから帰国した主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)が、次なる目標として女子スポーツの発展と普及に力を尽くすお話でした。
アントワープオリンピックで結果を残せず、失意の中ヨーロッパを彷徨っていた四三は、そこで女子たちが男子顔負けのパワーで投擲をしている姿を目撃しました。
最愛のご主人を戦争で亡くした女性も、ご主人の残した槍を使って、投擲の練習に励みます。
楽しげに運動する彼女らを眺めていた四三は、日本で女子スポーツ発展に力を注ぐ決意を固めました。
日本の女子は、運動は推奨されていてもスポーツとしての競技はあまり好まれていませんでした。
しかし、中にはシマ(杉咲花さん)のように、スポーツを真剣に行いたい女性もいます。
四三は、嘉納治五郎(役所広司さん)に自分の決意を伝え、女子高で教鞭を取れるように取り計らってもらいました。
四三の帰国を東京のハリマヤにて待っていたスヤ(綾瀬はるかさん)は、オリンピックが終わった後は、四三も熊本に戻り、一緒に暮らせるものと思っていました。
しかし、四三の答えは、「熊本にはいずれ帰るけど、それは今ではない」という返事でした。
落胆し、怒ったスヤは、息子・正明を連れて熊本に帰ろうとするのですが、四三からの必死のお願いで、東京に残り、ハリマヤの2階で親子3人、暮らすことになりました。
アントワープオリンピックに出場した競泳選手・内田正練は、仲間の浜名湾游泳協会の人々にクロール泳法の重要性を話しました。
約束の1年が過ぎ、東京に戻った美濃部孝蔵(森山未來さん)は、小梅(橋本愛さん)と車夫の清さん(峯田和伸さん)が所帯を持っていることに驚きました。
仲睦まじく、料理屋で働く小梅の前に、美川(勝地涼さん)が現れました。
小梅は、持っていた包丁で美川を威嚇しつつ、「達者でね」と声をかけ、美川を熊本に帰るようにと促しました。
そして、東京に戻った孝蔵は、三遊亭円菊と名を改め、二つ目から再出発したのです。
1921年4月、竹早にある第二高等女学校に赴任した四三。
そこには、シマも女教師として学校に勤めていました。
そこで、生徒たちにスポーツの素晴らしさを伝えようとするのですが、「運動などしたら嫁にいけなくなる」と女生徒たちはスポーツを毛嫌いしています。
唯一行っているのが、たまーにやってくる永井道明(杉本哲太さん)が教えるテニスのみ。
四三は、女生徒たちを誘い、放課後スポーツをしようと呼びかけるのですが、誰も一緒にやろうとは言い出しません。
むしろ、いくらそんなことをしていても無駄であると忠告しに、生徒たちがやってきました。
スポーツなどやらない、と言い張る女生徒たちに、四三は、自分の顔を立てるために、1回でいいから槍を投げて欲しいと、お願いします。
二度と勧誘しないという条件で、女生徒たちは、四三の頼みを引き受けることになりました。
そして、いやいややってみた槍投げでしたが、四三の巧みな声掛けにより、だんだんと楽しくなってきた女生徒たち。
四三のアドバイスを受け入れ、着物にタスキをかけ、声を上げながら片手で思い切り槍を投げます。
驚く程伸びた飛距離に、投げた村田富江(黒島結菜さん)は喜び、周囲も村田の投擲に拍手喝采が巻き起こりました。
こうして、スポーツの楽しさを知った第二高等女学校(竹早)の生徒たちは、生き生きと楽しげにスポーツに励むようになったのでした。
恩師である二階堂トクヨ(寺島しのぶさん)に頼まれて、代理で行ったお見合いの相手・増野(柄本佑さん)と交際していたシマは、増野に釣書を返し、見合いを断ろうとしました。
断る理由は、オリンピックを諦められない、ということでした。
シマが行っている女子陸上は、未だオリンピック正式種目にはなっていません。
しかし、四三が言うように、世の中が変われば女子陸上もオリンピックに出られるかもしれません。
増野は、そんなシマに、それは子供を産んだ後でもできないことなのかと尋ねます。
できないことはない、と答えたシマに、それならば自分は、シマが出場した暁には子供と一緒に応援に行くと言うのです。
シマに、何一つ犠牲にして欲しくない、仕事もスポーツをやればいいと、増野はシマの気持ちを大切にしたのです。
シマは増野を受け入れ、1921年夏、結婚しました。
仲人の四三にシマは「足を出しても嫁にいけました」と笑い、スヤは増野に「ちゃんと捕まえとかんとマラソン選手は逃げ足が速い」とこっそりアドバイスをするのでした。
前回21回「櫻の園」を見逃した方はこちらをどうぞ。
それでは第22回「ヴィーナスの誕生」のあらすじと感想です。
美濃部孝蔵(森山未來さん)の結婚
1961年春。
東京、古今亭志ん生(ビートたけしさん)の自宅では、志ん生の妻・りん(池波志乃さん)と娘の美津子(小泉今日子さん)、そして志ん生の弟子・五りんの友人・知恵(川栄里奈さん)がテレビを見ていました。
テレビではガガーリンの乗ったロケットが発射されていました。
次に映ったテレビには古今亭志ん生の姿。
志ん生は、自分の半生を語っていました。
ドサ回りから帰ってきてから、志ん生は借金取りから見隠すため、名をコロコロと変えました。
三遊亭朝太→円菊→師匠が変わって金原亭馬太郎→朝馬→武生→そして、真打・馬きん。
1921年、9月。
孝蔵は上野にある鈴本亭という寄席で真打にならないかと誘われていました。
東京でも老舗で名門たる鈴本亭から誘われるなど、普通は喜び、絶対に断ることなどしません。
しかし孝蔵は、寝巻きのような着物を来て高座に出ようとする自分では真打になれないと、きっぱりとその話を断ります。
すると、孝蔵の師匠・六代目金原亭馬生(古今亭菊之丞さん)は、孝蔵の友人・万朝(柄本時生さん)から孝蔵に預かり物があるというのです。
栃木で太鼓持ちをしている万朝は、だらしのない孝蔵を心配し、稼いだお金で孝蔵のための羽織を作っていました。
しかし、それをすぐに渡してしまっては質屋に入れてしまいます。
どうかすぐに渡さず大事な時に渡してください、と手紙を入れていたのです。
孝蔵をよく知っている師匠は、孝蔵に渡すことはせず、半年ほど預かっていたというのです。
袴と着物、襦袢と扇子、足袋などは席亭・鈴木孝一郎(中村育二さん)が用意してくれました。
高座で着る物がない、という断り理由は無くなり、孝蔵は真打になり、金原亭馬きんと名を改めたのです。
しかし、そこまでしてもらったにも関わらず、やっぱり孝蔵は飲む打つ買うで一式質屋に入れてしまったのです。
孝蔵を心配した小梅や清さんは、孝蔵に所帯を持たせようと縁談を用意しました。
相手は高田馬場にある下宿屋の娘・おりん(夏帆さん)です。
りんは、器量もよく、働き者で、裁縫はもちろん琴まで弾けるといいます。
絶対にうまくいくわけがない、という孝蔵でしたが、実はおりんは、親と一緒に寄席を見に来ていたというのです。
父はそこで孝蔵の姿を見て、真面目で大人しそうな青年であると孝蔵を気に入っていました。
そして縁談が整った日。
孝蔵は、おりんに対し、自分は芸人ではあるけれど全く売れておらず、こんな縁談、断るなら今だと最終通告をしますが、家族や本人から「見捨てないでください」と言われ、おりんを受け入れることになったのです。
おりんは真面目に、夫となった孝蔵の脱ぎ散らかした着物を繕っていましたが、孝蔵はご祝儀を手に取り、「ちょうまえ」に行くといいます。
「もうとる」にも行くので、今日は帰らないと言いおいて出て行ってしまいました。
おりんが聞いても全く解らない言葉は、
- もうとる → かけごと
- ちょうまえ → 遊郭に行くこと
でした。
翌朝、ご近所の奥さんと一緒に掃除をしていたおりんは、ニコニコと笑いながら「うちの人、今朝はちょうまえですの」と言い、笑われてしまいました。
おりんは、「ちょうまえ」のことを噺家の研修のことだと思っていたようです。
女子体育のアイドル
1921年秋。
四三のおかげで竹早の女学校は徐々にスポーツに目覚めていき、生徒たちはスポーツに励んでいました。
当時、女学生たちの憧れであるスザンヌ・ランランの美しいテニスウェアと同じようなものが作りたいと思った村田富江(黒島結菜さん)と梶原(北香耶さん)は、播磨屋の黒坂辛作(三宅弘城さん)の元を訪れました。
自分は足袋で忙しいから、勝手にミシン使っていいと許可をもらった2人は、手作りのテニスウェアを作り、大会に参加。
それが注目されるようになり、女子テニス界、運動界のアイドルのようになりました。
シマの夫・増野(柄本佑さん)が勤める百貨店に招かれた2人は自分たちが作ったウェアを百貨店に置かないかと打診されます。
女子体育が国民に浸透してきたのですね。
シマの妊娠
ある日、憧れのスザンヌ・ランランの姿を雑誌で見かけた村田と梶原は、なぜ日本人のような大根足でなくシャン(美人)の足なのか、と疑問を持ちます。
マラソン選手の足は美しいと気づいた生徒たちは、四三の自宅を訪れ、脚を見せて欲しいとお願いします。
なにか特別なことをしているのか、手入れをしているのか、どうしたら綺麗な脚になれるのかと問う女学生たちに四三は「マラソン選手は全員シャン=美人な足ばい」と答えました。
すると、女学生たちは陸上に興味を持ち始め、陸上を始めるというのです。
いつも一緒に走っているシマにも一緒に走ろうと村田は声をかけたのですが、シマは元気がない様子で今日はいい、と断りました。
1人四三の家に残ったシマは、スヤに妊娠したことを告げました。
あまり嬉しそうでないシマの様子が気になったスヤは、どうしたのかとシマに尋ねます。
するとシマは、間が悪い、と口にしました。
四三の赴任により女子体育が活発になり、色々と変わり始めてきたこの時期に、自分はまだ何も成し遂げていないのに、教員としてもランナーとしてもこれからなのに、今妊娠などと、素直に喜べないというのです。
スヤはそんなシマに「シマちゃんが結婚したのは女子体育ではなく増野」と諭します。
四三は喜んでくれるか、と心配するシマの前に、息を切らした四三が現れました。
スヤに促され、意を決して子供が出来た事を告げようとすると、四三はツカツカとシマに歩み寄り、しっかりと抱きしめ「でかしたー」と叫んだのです。
スヤに子ができたと聞いた時と全く同じ反応に、シマも安心したのでした。
シマにはもう1人、妊娠を報告しなければならない人がいました。
恩師・二階堂トクヨ(寺島しのぶさん)は、シマに「ご幸福ですか?」と尋ねますが、トクヨ自身は思いを寄せる野口(永山絢斗さん)に妻子があることを知り、打ちひしがれていました。
自分は女子体育と心中する決意を固めたと宣言し、新たに学校設立の決意を固めたのです。
1922年4月、代々木に二階堂体操塾が開校しました。この学校は後の日本女子体育大学です。
トクヨは体操塾に思いを寄せる野口や名だたる講師を集め、女子体育発展に力を注ぎました。
人見絹枝登場
第二高等女学校、通称竹早組は、岡山で行われるテニス大会に参加していました。
対戦相手は岡山女子高等学校の生徒です。
村田・梶原組は、対戦相手の身長の高さ、手足の長さに驚きますが、体格がいい=動きが鈍い、アドバイスを受けます。
しかし、実際に試合が始まってみると、彼女のテニスはキレがよく力強い、竹早組は惨敗してしまいました。
泣き続ける2人に、失敗から学べ、と教える四三ですが、同行していたシマは、空き教室で1人本を読む身長の大きな先ほど対戦した女性を見て声をかけ、矢継ぎ早に質問を浴びせかけます。
彼女の名は人見絹枝(菅原小春さん)、後に日本人女性初となるオリンピック選手になる女性でした。
身長170cmの長身で長い手足、シマは彼女に魅せられ、ぜひ東京に出てきて陸上をやってみないかと誘います。
四三にも同意を求め、四三は人見の足が陸上向きかどうか触って確かめると人見に近づきました。
大人しく四三を待っていた人見でしたが、触られる瞬間、四三を思い切り蹴り飛ばし「本が好きだから文学部に進むつもり」と逃げてしまいました。
日本初、女子陸上大会
そして1922年春、スヤは長女・まさこを出産しました。
この後スヤは熊本東京間を行き来し、1男5女をもうけました。
また、シマも同時期に長女・りくを出産しました。
1922年秋、四三が企画した女子体育の大会が開催されることになりました。
子供を出産したばかりのシマは出場できず、それならば人見絹枝を出場させてはどうかと提案しました。
体は素晴らしくても、本人にやる気がなければ、と四三は乗り気ではありませんが、シマは人見に手紙を書き、参加を促しました。
そして始まった大会で、50m障害で、事件は起こりました。
村田は新しい靴で出場しようとするのですが、きつくてきちんと入りません。
すると村田は潔く靴下を脱ぎ、もう一度靴を履いたのです。
そして、村田は出場した三種目で優勝、新聞にも注目させる選手となりました。
村田の活躍が写真に撮られ、新聞にそれが載ってしまい、更には怪しい露天商となった美川が、靴下を履かない村田の写真を撮りまくり、道行く人々に売っていました。
一人の紳士がそれに目を奪われ、それを全部買い占めました。
その紳士は村田の父・大作(板尾創路さん)で、四三のやり方に猛抗議。
靴下を履かずに走ったことに対して、竹早に入学させたのは、こんなお転婆にするためではない、と娘を連れて行こうとします。
しかし、四三はそういういかがわしい、偏見に満ちた言葉は男の見方が悪いからだと反論します。
村田が日本記録を出せたのは、靴下を脱いだから。親ならばまずそこを褒めるべきだと四三は主張し、その後の靴下を脱ぐ脱がないの論争は、家でやってください、と言うのです。
「あんたらがそんなんだから、女子スポーツは発展しない、だからいつまでたってもヨーロッパに勝てない」と四三は叫びました。
後日、村田父が中心となって、学校側に四三の依願退職を求める声があがってきました。
それを聞いた村田たちは、四三を辞めさせないように教室に立てこもり、学校側に抗議します。
走りやすい格好で走って何が悪い、という女子たちの言葉に先生たちは何の反論もできません。
そんな時に、四三は大声で村田と梶原に呼びかけるのでした。
次回、第23回「大地」
女子スポーツが盛り上がりを見せ始めること、日本に大地震が起こりました。
関東大震災です。
せっかくスポーツが活発になってきたにも関わらず起こった大震災に、これからのスポーツはどうなってしまうのでしょうか。
次回、第23回「大地」。
今後の日本の復興の様子と、スポーツの発展に目が離せませんね。