「いだてん」でいつもタバコを反対に咥えて「アチッ!」と叫び、大騒ぎしながらやけどをしている人物、それが田畑政次。
・・・ではなく、「水泳ニッポンの父」と呼ばれ、日本水泳界においてはなくてはならない人。
日本が戦争の影響でオリンピックに参加拒否された時に、日本水泳陣の実力を世界に見せつけるため、オリンピック決勝の同時刻に日本でも大会を行った大胆で奇策を用いる偉人。
東京オリンピックの招致にひとかたならぬ情熱を傾け、見事招致を成功させた立役者、それが田畑政治です。
今のところ阿部サダヲさんが演じる田畑政次は、わちゃわちゃしている印象が強すぎて、そんなにすごい人なのかと疑っちゃいますよね。只者ではない、奇才であるのはわかりますがね。
でも、本当にすごい人なんです。
本当はすごい、田畑政治の生涯を見てみましょう。
生い立ち
1898年(明治31年)12月1日、静岡県浜松町成子(現・浜松市中区成子町)で田畑政治は生まれました。
実家は造り酒屋「八百庄商店」。
田畑家は浜松一の金持ちと言われる程の地元の名士で、父・田畑庄吉は高額納税者で議員も務めていました。
政治は父・庄吉と母・うらの次男として生まれました。
早くに祖父と父を結核で亡くしています。
政治も小さい時から体が弱く、30歳まで生きられない、と言われていました。
母は、体の弱い政治を心配し、政治が小学校に入る前から夏や冬の休みには舞阪町弁天橋付
近にある別荘で過ごすようになりました。
別荘の近くには浜名湾があり、政治はそこでいつも泳いでいました。
地元の水泳クラブ「遠州学友会水泳部」に入ると、そこでめきめきと頭角を現し、1、2を争うエースになったといいます。
しかし、旧制浜松中学(現在の浜松北高校)4年生の時、政治は盲腸炎と大腸カタルを併発。
医師から「泳げば死ぬ」と宣告され、泣く泣く競技者の道を諦めたのです。
選手から指導者へ
競技者としては諦めたものの、水泳から遠ざかることはなく、母校・旧制浜松中学校を日本一にすることを目標に、指導者になることに決めました。
熱心に後輩指導を行い、目標通り浜松中学校を大会で優勝に導いた政治は、次なる目標を浜名湾を日本一の水泳王国にすると定めたのです。
1916年(大正5年)8月、内田千尋(1920年アントワープオリンピック競泳代表選手・内田正練の兄)・堀江耕造(旧制浜松高等工業教授)らと共に、周辺にある浜松中学校・浜松商業学校・掛川中学校・遠州学友会の4つの水泳部をまとめて「浜名湾遊泳協会」を設立、大規模な選手の育成に着手しました。
旧制浜松中学校を卒業すると、第一高等学校(現在の東京大学教養学部、千葉大学医学部・薬学部の前身)に進学。さらに、東京帝国大学に進学というエリートコースを進みますが、休みのたびに浜名湾に戻り、後輩指導を行い選手の育成に力を注ぎました。
古式泳法から速さを極めるクロールへ
1920年(大正9年)、アントワープオリンピック競泳代表選手である内田正練と斎藤兼吉は、第7回アントワープオリンピックにてクロール泳法を目の当たりにし驚いたといいます。
これまでの日本は古式泳法という個人の秒速を競うことより、隊列を組んでの遠泳、海や川での遊泳を主体とした武士の嗜みとしての泳法を行っていました。
甲冑を着ていても泳げるこの泳法では、スピード重視のクロール泳法には全く敵わず、アントワープオリンピックでの成績は振るいませんでした。
日本水泳界はクロール泳法に衝撃を受けました。
大阪の茨木中学がすぐさまクロール泳法を取り入れてその年の大会で優勝。
政治も浜名湾遊泳協会にクロール泳法を取り入れ、茨木中学に勝利すべく練習に励みます。
浜名湾遊泳協会を日本一にするためには全国大会を開催しなければなりません。
1921年(大正10年)、政治は地元の有力者に協力を仰ぎ、大会が開催できるような幅30m、長さ100mの海水プールを北弁天島に設置しました。
そして日本各地から有力選手を招待し、開催した全国大会でしたが、優勝はまたもや茨木中学校。
しかし2年後の1923年(大正12年)の全国大会では、浜名湾遊泳協会が茨木中学を制して優勝。
政治の念願が叶いました。
しかし、どこまでも貪欲な政治は、今度は日本一から世界一を目指すようになるのです。
浜名湾遊泳協会の全国制覇により、その名は全国で知られるようになり、政治の水泳指導力の高さも全国に知れ渡るようになりました。
政治、政治記者になる
1924年(大正13年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業すると、「政治に興味がある」として朝日新聞社に入社しました。
一高から東京帝国大学というエリートコースを進んだ場合、官僚を目指す者がほとんどです。
その中で新聞社に入社を決めた政治は異例でした。
政治は朝日新聞社の政治部に配属、政友会の担当となり当時の有力政治家に顔を知られるようになりました。
後の首相となる鳩山一郎にも目をかけられ懇意にしていたといいます。
水連創立
朝日新聞社に入社し、政治記者として忙しく働く傍らで、時間を作っては地元に戻り後輩たちの育成、水泳指導に力を注ぎました。
その結果、浜名湾遊泳協会からは有力選手を次々と輩出することになりました。
同年10月、大日本体育協会が総合競技団体に組織改造を行ったため、水泳界は大日本体育協会から独立、大日本水上競技連盟(水連)が創設されました。
政治は入社1年目でしたが、東海代表として水連創設に参画し、大日本水上競技連盟の理事に就任します。
すると、どちらが本業なのかと問われるほど水泳、そしてオリンピックにのめり込んでいきます。
オリンピック第一主義
水連の理事となった政治は水泳界の中枢として活躍するようになり、「オリンピック第一主義」を掲げて、日本水泳界を世界に導くために尽力し、1928年の第9回アムステルダムオリンピックに執念を燃やします。
これまで以上に選手の育成に熱を入れるとともに、政治記者としても活躍していた政治は、懇意にしていた鳩山一郎の紹介で、当時の大蔵大臣・高橋是清に会うことに成功。
オリンピックへの補助金の約束を取り付けます。
こうして補助金を得られた結果、アムステルダムオリンピックには、水泳選手10名を派遣することができました。
アムステルダムオリンピックの結果は、
男子200m平泳ぎで鶴田義行が金メダル獲得。
男子800m自由形リレーでは、米山弘・佐田徳平・新井信男・高石勝男の4人が銀メダルを獲得。
男子100m自由形で高石勝男が銅メダルを獲得。
金メダル1、銀メダル1、銅メダル1という目覚しい活躍を見せました。
その4年後、1932年に開催されるロサンゼルスオリンピックに向けて、水泳最強国アメリカに勝利すべく、政治は更なる目標を掲げ日々練習に励むようになります。
1929年には、日本水上競技連盟名誉主事。
1930年には、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)の専務理事に就任。
1931年8月、政治は5月に出来たばかりの神宮プールにおいて、ロサンゼルスオリンピック前哨戦として、アメリカ水泳代表チームを日本に招き、「第1回日米対抗水上大会」を提案、3日間かけて大会が行われました。
その大会では40-23で日本が勝利。
この結果は、オリンピックにおいても日本チームの活躍を期待できる結果となりました。
政治は、機関紙『水泳』の創刊号にて、「ロサンゼルスオリンピックではアメリカと一挙に雌雄を決し、その王座を奪うことも不可能ではない」と語っています。
翌年1932年、第10回ロサンゼルスオリンピックでは、水泳総監督に就任。
政治は33歳でした。
この大会で金5、銀5、銅2のメダルを獲得し、「水泳ニッポン」の名を世界に轟かせることに成功したのです。
政治がここまでの成績を残すために実践したことが4つありました。
- 水泳の組織を一本化すること
- 専用プールを作ること
- 信頼するに足る監督を、早い時期に決めて、彼に全責任を与えること
- アメリカのベストチームを招いて地元の利を生かして徹底的にやっつけること
(田畑政治『スポーツとともに半世紀』より抜粋)
この言葉通り、実践した結果、水泳だけで12個のメダルを獲得、政治は「水泳ニッポン」の名を世界に知らしめることに成功したのです。
また、政治は選手の「統制が勝因」であったとも書き記しています。
ロサンゼルスオリンピック前の合宿の中で、政治は選手たちに英会話・ベッドに慣れる訓練・食事のマナーなどを徹底的に教え込みました。
日常生活のスケジュールまで厳しく管理したため、若い選手の中には異論を唱える者もいましたが、自身も大好きな酒を絶つという覚悟を見せ、選手たちを黙らせたのです。
政治は統制力のある厳しい指導者だったんですね。
次は1936年に行われるベルリンオリンピックに向けての挑戦が始まりました。
結婚
政治の父や兄は体が弱く、早くに亡くなっています。
政治自身も体が弱かったため浜名湾の別荘で育ったんですよね。
政治が新聞社に入社してまもなく、大阪の大道易者に占ってもらったことがありました。
易者によると政治は「30歳で死ぬ」という運命でした。
お金を貰って占っている易者が悪い事を言うはずがないと思っていたため政治は非常に驚き、その占いを信じてしまいました。
政治は結婚せずに生涯を水泳に捧げると誓いました。
ところが、30歳になっても生きている、31歳の時に政治の死亡説が流れましたが、生きていました。
兄や父が亡くなった34歳を過ぎても生きていたので、ロサンゼルスオリンピックの翌年1933年に妻・菊枝と結婚しました。
ベルリンオリンピック
そしてベルリンオリンピックを翌年に控えた1935年。
ロサンゼルスオリンピックで好成績を残せたのは、アメリカのベストチームを招いて大会を開き、そこで勝利し勢いに乗ったことが要因だと考えた政治は、第2回日米対抗水上大会を開催することにしました。
1935年8月5日、第1回と同じく神宮プールにて超満員の観客の中で開会式が行われました。
3日間とも超満員となったプールでは、代表選手となった根上とアメリカ代表選手のメディカによる緊迫したレースが繰り広げられており、その対決は後世まで名勝負として語り継がれたといいます。
大会の結果は総得点で36対27で日本チームが勝利。
ロサンゼルスと同じく、ベルリンでも活躍が期待できる素晴らしい成果をあげました。
そして迎えた1936年ベルリンオリンピック。
政治は水泳総監督に就任していました。
日本水泳陣は金メダル4、銀メダル2、銅メダル5という素晴らしい成績を残し、「水泳大国日ニッポン」という名を世界に知らしめたのです。
ベルリンオリンピックでは、女子200m平泳ぎの前畑秀子選手が有名になりましたね。
NHKアナウンサーの「前畑がんばれ!」という熱の入った実況は当時話題となりました。
幻の東京オリンピック
さて、次のオリンピックは1940年です。
この1940年というのは、紀元2600年に当たり、神武天皇の即位から2600年という節目の年でした。
東京市議会では、これを記念する競技の一つとしてオリンピックを東京に招致することが決まりました。
招致委員会の嘉納治五郎らによる熱心な働きかけを繰り返し、1936年のベルリンのIOC総会にて正式に東京が開催地として決定したのです。
しかし、1937年7月7日に起こった盧溝橋事件(中国北京にて起こった日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件)をきっかけに日中戦争が勃発。
軍部の意向が強くなった日本政府からは、開催権を返上した方が良いとの意見が出始め、海外からも強い反発を受けるようになっていきました。
1938年、カイロで行われていたIOC総会に出席していた嘉納治五郎が、帰国途中船上で肺炎を患い死去すると、開催権返上論の勢いが増し、その2か月後、日本はオリンピック開催権を返上しました。
日本の代替地としてヘルシンキが決定しました。
1939年、日本水連会長・末弘巌太郎が日本体育協会理事長となったため、政治が日本水上競技連盟理事長に就任しました。
ヘルシンキ大会では、コーチ・マネージャー含め20名以内の少数精鋭の水泳陣で臨み、競泳で連覇することを目標に掲げていました。
しかし、激化し始めていた第2次世界大戦の影響で、結局オリンッピックは中止となってしまったのです。
この時、政治は
「このまま開催していれば、オリンピックへの無理解や準備不足から大恥をかいていただろう。国力が上がり、真にオリンピックを開催できる力がついた時、また立候補すればいい」と語ったといいます。
ただ熱いだけでなく、冷静に周囲を見通す観察眼も優れた人物ですね。
太平洋戦争中、日本軍はスポーツに対し、厳しい統制を行っていました。
各連盟は自主解散していったのですが、政治は日本水上競技連盟を解散させることなく存続させています。
そして1944年、第13回オリンピックはロンドンで開催される予定でしたが、ヒトラーによるポーランド侵攻がきっかけで第二次世界大戦が勃発し、またもや中止。
1945年、第2次世界大戦は終結し、日本は敗戦しました。
戦争終結、日本スポーツ界復活のために
その2か月後の10月、政治は「日本水上競技連盟」を改称、「日本水泳連盟」とし理事長に就任しました。
1946年には、日本体育協会の常任理事にも就任し、日本スポーツ界の復活を目指します。
1947年、政治は日本オリンピック委員会の総務主事に就任。
1948年に開催されるロンドンオリンピック出場に向けて準備を始めました。
また、本業の朝日新聞社の方でも、社主となった先輩・長谷部忠から頼まれ、東京本社の代表取締役に就任。
水泳にも本業にも忙しい日々を送ることになりました。
戦後初となるロンドンオリンピック。
開催国であるイギリスは、日本とドイツのオリンピック参加を拒否。
日本は出場することができなくなってしまいました。
政治は、どうにかして日本の競泳陣の参加だけでも認めてもらおうと力を尽くすのですが、参加は認められなかったため、「水泳大国日ニッポン」の実力を世界に知らしめようと奮起するのです。
水泳大国ニッポン
1948年、ロンドンオリンピック競泳と同日程で、日本選手権を開催。
神宮プールで行われた大会で、オリンピックに参加を認められなかった古橋廣之進と橋爪四郎らが世界新記録を叩き出し、その実力の高さを世界に知らしめることになりました。
1500m自由形で古橋とロンドン大会金メダルのマクレーンのタイムを比較すると、
古橋は18分37秒0
橋爪は18分37秒8
マクレーンは19分18秒5
日本勢は驚異的な記録を叩き出したことになります。
1949年、IOC委員であった永井松三がIOC総会に出席し、日本のオリンピック復帰を訴えると、オリンピック復帰は各競技の国際連盟への復帰、さらに、日本オリンピック委員会がIOCに認められることと勧告してきました。
それを知った政治は、アメリカ水泳のキッパス監督の協力を得て、国際水泳連盟に強く働きかけました。
日本水泳陣の実力、政治が国際水泳連盟と親密にしていたこともあり、1949年6月、日本は国際水泳連盟(FINA)への復帰を果たしました。
同年、ロサンゼルスで行われる国際競技会に参加したいと考えた政治は、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーに働きかけ、遠征の許可を得ました。
戦後初の国際大会、昭和天皇にも励まされ選手らは渡航しました。
しかし、戦後の混乱で物資は乏しく、アメリカ・ドルもなかったため、当時アメリカに住んでいてスーパー経営で成功していた日系2世のフレッド・イサム・ワダさんの援助を受けて、大会に参加したのです。
ワダさんは、彼らを自宅に泊め、食事から洗濯まで彼らの渡航をサポートしたといいます。
ロサンゼルス大会で、日本勢は大活躍し、9つの世界新記録を樹立、出場した6種目中5種目で優勝を果たしました。
特に、古橋の活躍は目覚しく「フジヤマのトビウオ」と称されて一躍ヒーローとなったのです。
戦争中、日系人ということで差別を受け苦しんだ邦人らは古橋らの活躍によりアメリカ人に認められることになり、日系2世への差別はなくなっていったといいます。
戦争の敗北によって疲弊した日系人・日本人は日本水泳陣の活躍により大きな勇気と希望を与えられたのです。
同年、政治は朝日新聞常務取締役に就任しています。
1951年、政治は日本体育協会専務理事就任。
1952年、朝日新聞社では、戦争責任問題で社の幹部が公職追放処分を受けていました。その中で政治は常務取締役に就任していたのですが、公職追放が解除になると、村山長挙が社主に復帰、勢力争いが起こり、現経営陣は追放されてしまいました。
政治は退社に追い込まれてしまいます。
朝日新聞を退職した政治は、三島製紙の取締役になりました。
同年、アジア競技連盟評議員に就任し、第15回ヘルシンキオリンピックでは、日本代表選手団の団長となり復帰後初のオリンピックに向かいました。
しかし、この時の日本水泳陣はいまいち振るわず、銀メダル3個、その他競技では、レスリングの石井庄八が金メダルを獲得、同じくレスリングの北野祐秀・体操の上迫忠夫、竹本正男が銀メダル、体操競技跳馬で上迫忠夫・小野喬が銅メダルを獲得という結果に終わりました。
再び東京にオリンピックを
ヘルシンキオリンピックから帰国した政治は次なる野望として、東京でオリンピックを開催することを考えていました。
参加してみたヘルシンキオリンピックは、それほど大規模なものでなかったため、日本でも開催できると考えたのです。
しかし、オリンピック招致には莫大な資金が掛かります。
政治は金策の問題で、なかなか声を大にすることはできませんでした。
1953年、そんな中、ヘルシンキオリンピック大会組織委員長だったエリック・フレンケルが来日しました。
フレンケルはIOC委員である東龍太郎や政治と会談し、「オリンピックは儲かる」と説明したのです。
観光収入で潤ったことや、フィンランドで実際に起こった事などを引き合いにして事細かに説明をしてもらい、政治は東京オリンピック開催に向けて動き始めたのです。
まず、東京都知事・安井誠一郎や総理大臣・岸信介を説得、都議会でもオリンピック招致は可決され、国家事業として動き始めたのです。
1954年、マニラで行われた第2回アジア競技大会の日本選手団団長。
1955年、東京で行われた第3回アジア競技大会の組織委員会事務総長。
1956年、第16回メルボルンオリンピックでもヘルシンキに続き、政治は日本選手団団長となりました。
しかし、競泳陣の成績は振るわず、金メダル1、銀メダル4、という結果でした。
こうした日本水泳の不振に不満を持った日本水泳連盟大阪支部長・高石勝男は、水連の会長選に立候補、現会長である政治に反旗を翻したのです。
結局、会長選では政治が再選したものの、水泳界が二分され大混乱に陥った責任を取る形で、政治は再選後1年で会長を辞任しました。
政治は東京オリンピック招致に専念することになったのです。
政治はオリンピック招致の中心となりました。
政治の立てた戦略のもと、JOC会長の竹田恒和らは世界各国をめぐり東京開催を訴えました。
中でも、日系人で唯一の五輪準備招致委員となったフレッド・イサム・ワダは、日本政府に代わり自費で欧州・中南米各国をめぐり、東京支持を訴え、開催に大きく貢献しました。
1959年、ミュンヘンのIOC総会にて、58人の投票のうち34票を獲得し、東京開催が決まったのです。
政治は東京オリンピック組織委員会の事務総長に就任、2期に渡り務めてきたオリンピック選手団団長の座は春日弘に譲りました。
政治は、柔道と女子バレーボールをオリンピックの正式種目にするために奔走しました。
男子バレーボールは、既に正式種目になっていたため、男女平等の観点から女子バレーボールも正式種目となり、後に「東洋の魔女」と呼ばれる大松博文監督率いる女子バレーボールチームが、大活躍することになるのです。
事務総長としてオリンピック開催準備を進めてきた政治ですが、当時のオリンピック大臣・川島正次郎と事あるごとに対立を繰り返していました。
1960年、ジャカルタで開催されたアジア競技大会で、開催国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否する問題が起きていました。
理由は、台湾は中国の一部と中国が主張したことと、パレスチナ問題でイスラエルと対立関係にあったからです。
そういった政治的理由での参加拒否は、IOCの「スポーツと政治は分けるべきである」という考えに反しているため、IOCはジャカルタ大会を正規の競技大会とは認めないとの見解を示しました。
しかし、政治は選手をジャカルタ大会に送ったため、後にそれが大問題となり1962年、事務総長を辞任することになったのです。
オリンピック委員としては籍が残ったものの、その後は選手の応援に徹したといいます。
そして1964年、第18回オリンピック東京大会が開催されました。
日本のメダル獲得数は、金メダル16、銀メダル5、銅メダル8と素晴らしい成績でしたが、競泳のメダル数は男子リレーの銅メダルのみ。
古橋廣之進ら競泳の有力選手が引退し、次の世代が育っていなかったため日本は惨敗しました。
若手選手の育成のために
政治は、日本水泳連盟名誉会長として、選手育成のためには選手強化に使える屋内専用プールが必要であると主張し、1968年、東京スイミングセンターを設立し初代会長を務めました。
この東京スイミングセンターは、北島康介選手などの数々の有力選手を輩出する日本最高レベルのクラブとして現在も存在しています。
1965年、日本体育協会理事に就任。
1966年にはユニバーシアード東京国際大会組織委員会顧問。
札幌冬季オリンピック組織委員会顧問に就任。
1971年には日本体育協会副会長。
1973年には日本オリンピック委員会委員長
1977年には日本オリンピック委員会名誉委員長となり、
これまでの功績からIOC功労賞(銀賞)を受賞
1980年、モスクワオリンピックの際、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するとして、アメリカはオリンピックボイコットを各国に呼びかけました。
日本はアメリカに同調し、モスクワオリンピックをボイコット。
モスクワ大会は、50か国近くの国がボイコットを決めたのです。
同年、長年にわたる日本水泳界への貢献とオリンピック運動推進の功績を認められ、朝日賞を受賞。
1983年には、日本体育協会名副会長となりました。
1982年、政治はパーキンソン病を患い、食べ物をのどに詰まらせたため、呼吸困難に陥り、車椅子生活を余儀なくされました。
1984年、ロサンゼルスオリンピック直前、政治は危篤状態に陥りますが奇跡的に回復。
オリンピックの開会式から閉会式を見届けると、その2週間後の8月25日、順天堂大学病院で息を引き取りました。
享年87歳。
水泳とオリンピックに全てを捧げた田畑政治の人生の幕が閉じました。
死後、正四位勲二等旭日重光章を受賞しています。
最後に
幼少期は病弱で長くは生きられないと言われた田畑政治。
浜名湾での水泳訓練により丈夫な体を作ろうとしたものの、慢性盲腸炎と胃腸カタルを併発し、水泳選手としての才能を持ちながら選手の道を諦めなければなりませんでした。
しかし、すぐさま指導者になる道を選択し、浜名湾を日本一に、日本水泳を世界に通用するようにと尽力し、「水泳大国ニッポン」を作り上げました。
オリンピック招致にも力を注ぎ、事務総長として情熱を傾けていたものの、開催直前に事務総長を辞任し、一般の観客と同様の立場になってしまいました。
しかし、政治はその後も水泳大国ニッポンの復活に向けて立ち上がり、病気に倒れるまでオリンピックのために力を注ぎ続けたのです。
政治は著書『スポーツとともに半世紀』の中で、オリンピックにかけた情熱を熱く語っています。
「日本における近代水泳の歴史は、私自身の歴史であると言っても過言ではない」
日本の「水泳の父」、田畑政治を「いだてん~東京オリムピック噺~」で阿部サダヲさんが演じます。
水泳とオリンピックに情熱を傾け、「水泳大国ニッポン」を作り上げ、執念で東京にオリンピックを招致した田畑政治。
阿部サダヲさんが政治の熱い情熱を暑苦しくなく笑えるように演じています。
後半の主人公・田畑政治の人生を面白く熱く演じる阿部サダヲさんに期待しています。