2019年大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の主人公・金栗四三(中村勘九郎さん)と二人三脚で金栗足袋・金栗シューズを開発、日本初の国産ランニングシューズを製作した黒坂辛作。
大河では三宅弘城さんが演じておられます。(三宅弘城さんの前はピエール瀧さんが演じていましたが…)
数多くのランナーに愛され、ベルリンオリンピックやボストンオリンピックでは金メダル、他の競技会でも数々の好成績を残した選手たちがハリマヤシューズを愛用していました。
大河ドラマ「いだてん」では、「ウチは足袋屋だ」として、金栗四三の無茶な要求に怒っていた辛作ですが、四三が走りやすいように、選手に寄り添った足袋を作り、やがてマラソン用の靴を作るようになっていきます。
ランナーそれぞれに合う靴を作り続けた職人魂とより良い靴を作ろうという情熱で四三の走りを支え、日本マラソン界に大きく貢献した黒坂辛作とは、一体どんな人だったのでしょうか。
黒坂辛作の生涯
黒坂辛作は1881年(明治14年)11月24日、兵庫県姫路市で生まれました。
足袋屋に丁稚奉公した後、21歳の時に上京し、1903年(明治36年)に東京都文京区大塚で「播磨屋足袋店」を創業しました。
「播磨屋」の名は、地元兵庫県姫路市がその昔「播磨国」と呼ばれていたことが由来となっています。
そこで火消し屋の娘・てふと出会い結婚、4人の子供を設けています。
播磨屋足袋店の裏手に東京高等師範学校(現在の筑波大学)が建っていました。
播磨屋はご近所ということもあり東京高師の生徒たちがたびたび買いに来ていたそうです。
この頃の東京高師の校長は、柔道の創始者であり、教育の場にいちはやくスポーツを取り入れた嘉納治五郎(役所広司さん)です。
嘉納は、学生たちにスポーツを推奨し、放課後は部活動、年に2回長距離マラソン大会を行っていました。
その当時、運動靴はおろかマラソンシューズなどはありません。
当時の学生たちは、運動時は足袋を履いていました。
高師の近所である播磨屋足袋店は、学生たち御用達のお店だったのです。
金栗四三との出会い
1911年、辛作が30歳の時、東京高師の学生だった金栗四三がストックホルムオリンピック予選会に出場しました。
播磨屋の足袋を履いて、金栗は25マイル(40.225Km)を激走したのですが、折り返し地点の段階で足袋の底が破れ、ゴールに戻ってきた時には裸足だったといいます。
金栗は、足のかかとに大きな血豆を作り、しばらくは歩けないほどの怪我を負いました。
それでも、金栗は世界記録を27分も縮める2時間32分45秒という大記録を打ち出したのです。
この記録により、ストックホルムオリンピックの日本代表選手に選ばれた金栗は、長距離を走るためには足袋の改良が必須であると思い、播磨屋店主である辛作に足袋の改良を依頼するのです。
大河ドラマではこのあたりはとても面白かったですよね。
松葉杖をついた金栗四三が播磨屋を訪れ、四三を労う播磨屋の人々を前に、足袋の改良して欲しい点を散々言い倒すシーンでした。
金栗は辛作に怒鳴られ店から追い出され、息子からは塩まで投げつけられていましたね。
丹精込めて作った足袋に散々ダメ出しされた辛作はカッとして金栗を追い出したものの、金栗が逃げ出す際に落としていった実際に履いたボロボロの足袋を見て、何やら考え込んでいました。
金栗足袋の制作
金栗の依頼を受けて作った足袋は、「金栗足袋」と呼ばれるマラソン足袋の元祖です。
オリンピック代表選手となった金栗は、毎日長距離を走り練習に励むのですが、普通の足袋ではすぐに穴があいてしまいます。
当初は自分で補修をして履いていたのですが、どうしても専門家の改良が必要と考え、辛作に改良の依頼をしたのです。
依頼を受けて完成したのが、足袋の底を3重にしたマラソン足袋、金栗足袋です。
大河ドラマでは、金栗足袋をもらった四三は飛び上がって喜び、直ぐに走りに行ってしまいましたね。
金栗はそれをストックホルムオリンピックに持参し、出場しました。
しかし、土の道路が多い日本とは違い、ストックホルムの道は石畳が多く、底を3重にした金栗足袋でも太刀打ちできず、固い道路の衝撃を吸収することができず、練習の段階で金栗は膝を痛めてしまいます。
大会当日の猛暑も重なり、金栗は26Kmあたりで熱中症になり、意識を失い途中棄権となってしまいました。
世界記録を持ち、メダルが期待されていたにも関わらず途中棄権となった原因はいくつかありました。
- ストックホルムまでの過酷な旅の疲れが取れていなかったこと
- 白夜のため夜眠ることができず睡眠不足であったこと
- 周囲は英語ばかり、日本人がほとんどいない孤独な状況
- 日本食の用意がなく、慣れない食事に苦労したこと
- マラソン当日、迎えの車が来なかったため、会場まで走らなければならなかったこと
- 当日の気温が40度という猛暑で、参加者の約半分が棄権、熱中症で選手が死亡する程過酷な状況だったこと
さらに、ストックホルムの石畳に合わない足袋だったという原因が重なり、金栗は途中棄権となったのです。
この結果を受けて、金栗は更なる改良を辛作に依頼、2人は「破れない足袋」から「オリンピックに勝つための足袋」作りを開始したのです。
衝撃の吸収、底の強化、こはぜの改良などなど、やるべきことはたくさんありました。
オリンピックで各国の選手の靴を見た金栗は、衝撃の吸収のため、また、硬い道路でも擦り切れないように底をゴムにすることを提案します。
さらに、取れやすいこはぜではなく、足の甲の部分を紐で縛るよう提案しました。
このあたりも大河では印象深かったですね。
「金栗さん、それはもう足袋じゃねえ、靴だ」
足袋職人として誇りを持っていた辛作にとって、どんどん足袋らしさがなくなっていくマラソン足袋の作成には並々ならぬ苦悩があったでしょうが、辛作は金栗のため、金栗だけでなく全てのランナーのために改良を続けました。
我 世界に勝つ
底をゴムにして、こはぜを外し、足の甲に紐が付けられた「金栗足袋」を完成させた辛作。
初めは自転車のタイヤのゴムを裂いて使用するなど、試行錯誤が続きました。
大阪で靴底に適したゴムを見つけ採用。
さらに、滑り防止のためにゴム底に溝をつけるなどの工夫を凝らしました。
1919年、金栗はゴム底の足袋を履いて、下関-東京間1200Kmを20日間連続で走破するという挑戦を行いました。
これを見事成し遂げたことで、辛作は日本足袋屋からマラソン足袋メーカーになる決意を固めたそうです。
大河ドラマでは、東京日光間130Km、マラソン対駅団対決を行うという無謀とも思われる挑戦を決意した時に金栗に渡していました。
130Kmという長距離を、一足の足袋で走破した時、辛作は金栗に抱きついて喜んでいました。
「130Kmに勝った!」と叫んでいましたね。
こうして完成した金栗足袋は、金栗以外のランナーにも大人気となり、ロングセラーとなり多くの選手が金栗足袋を履いて好成績を残すようになりました。
1928年、アムステルダムオリンピックでは、金栗足袋を履いた山田兼松が4位・津田晴一郎が6位入賞。
1936年、ベルリンオリンピックではやはり金栗足袋を履いて出場した孫基禎(日韓併合中の朝鮮半島出身)は、日本マラソン界初の金メダルを獲得、南昇龍も銅メダルを獲得しました。
辛作が作った「金栗足袋」が世界を制したことで、辛作は新聞に載ることになりました。
その時の見出しが
「我 世界に勝つ マラソン足袋の開祖が狂喜 裏に刻む苦心三十年」
辛作は金栗が高師の生徒だった頃からのことを思い返し、「金栗足袋」は30年に渡り改良を加え続け、ようやく完全に近い形になった、と語っています。
親子二代で成し遂げた偉業
辛作は二男二女の子供がいましたが、妻の実家・與田家に跡取りがいなかったため、長男・勝蔵を養子に出していました。
しかし、養子に出した後も勝蔵は辛作とともに足袋を作って一緒に生活していましたので、勝蔵自身は結婚する時まで自分が與田姓だったということを知らなかったといいます。
昔はそんなことも珍しくなかったそうです。
1923年、勝蔵が学業を終えると、辛作とともにマラソン足袋の開発に取り組むようになりました。
勝蔵は、事故で足を悪くした父・辛作の代わりに箱根駅伝やマラソン大会の現場に出向いていました。
1948年、辛作は長男・與田勝蔵に家督を譲りました。
それと同時に、会社名も「ハリマヤ運動用品株式会社」と改めることになりました。
マラソンシューズのパイオニア ハリマヤ
1951年(昭和26年)、ハリマヤが作った「金栗足袋」を履いて、日本人選手・田中茂樹はボストンマラソンを走りました。
結果は優勝。
日本人が初めて世界を制したのです。
1953年(昭和28年)、金栗四三の門下生である山田敬蔵は、金栗足袋の進化系である「カナグリシューズ」を履きボストンマラソンに出場。
2時間18分51秒という世界新記録を出しました。
そのシューズは、これまでの足袋と違い、先が分かれていない丸くなったシューズ型でした。
身長157cmの小さな日本人・山田敬蔵が、「心臓破りの丘」と呼ばれる長い坂を誰よりも早く上り大記録を打ち立てることができたのは、ハリマヤの職人による提案が大きかったようです。
山田敬蔵選手は、ボストンマラソン出場が決まった時、ハリマヤの長谷川という職人に「ボストンは坂が多く、下りもあるからショック止めのため、かかとを高くしたシューズを作ろう」と言われたそうです。
それは、かかとのラバーが1cmもある画期的なシューズであったといいます。
これこそが、国産初のマラソンシューズ「カナグリシューズ」でした。
日本足袋のメーカーであった播磨屋は、金栗四三と出会ったことで、マラソン足袋制作、さらに改良を加えて国内初のマラソンシューズを完成させました。
新しい技術開発に貪欲に取り組み、日本人の足に合うように足袋の技術を受け継ぎつつ、絶えずシューズ開発の最先端を走っていました。
現在の靴には当たり前のようについている靴の横に付けられているライン。
デザインとしての役割だけでなく、走っている間に膨らんで足元がぶれるのを防止するために、ハリマヤが研究を重ねて付けたラインだったのです。
他にも、かかと部分にヒールカップを入れる、インソールを敷く、アッパーをメッシュ素材にするなど、これら全ては、ハリマヤが他に先駆けて開発、商品化したものです。
ハリマヤは、スポーツシューズのパイオニアとして常に日本のシューズメーカーを牽引していたのです。
ハリマヤの衰退
しかし、1960年代になると、大手資本のメーカーに押されてきてしまいます。
オニツカ(現アシックス)の「マジックランナー」が大人気となり、ハリマヤの最上位モデル「ニューカナグリ」の売れ行きが伸び悩んでいました。
1964年、東京オリンピックでオニツカの「マジックランナー」を履いた円谷幸吉が銅メダルを獲得。
1968年のメキシコオリンピックでは、君原健二がマジックランナーを履いて銀メダルを獲得しています。
マジックランナーは、足に豆が出来にくいシューズで、非常に人気が高かったのです。
1971年、急激な円高が起こると、ハリマヤはアジアに進出しました。
学校に大量に納品する必要がある中学・高校用の体育シューズなどをアジア工場で生産開始しました。
比較的廉価なシューズは、海外製の低コストの物に切り替えたのです。
しかし、これまで職人としてこだわり抜いて製品を作ってきた現場は、なぜ日本製を貫かないのかと反発が起こったそうです。
その結果、競技者用・市民ランナー用のシューズは国内生産を貫き通したのです。
ハリマヤは、陸上競技に特化した陸上専門シューズメーカーとして、競技者たちには有名であっても、一般の人達にはあまり知られておらず、様々なスポーツを取り扱う総合スポーツメーカーの宣伝力、資本力に敵うはずがありませんでした。
それでも、「金栗四三」の名を冠したシューズはその中にあっても健闘していました。
1982年に発売された「カナグリ ノバ」は、フルマラソンを一回走れば履き潰してしまう程軽い、140gという世界最軽量のマラソンシューズでした。
この頃、日本はジョギングブームが起こっており、海外ブランドの底が厚いソールのスニーカーが大流行していました。
その時代にハリマヤは時代に逆行するかのように、底が極限まで薄いシューズを発表しました。
高い技術があるからこそできる独創の3重構造ソールを持つ、スピードマラソンのための超軽量シューズでした。
このように、陸上界に革新をもたらしてきたハリマヤでしたが、日本がバブルに沸いていた時代に、不動産業や飲食事業に手を伸ばし、バブルの崩壊とともに身代は傾き、本業であったシューズ製造も辞めざるを得なくなってしまったのです。
そうして、88年続いたハリマヤの歴史は幕を閉じたのです。
黒坂家と金栗四三との繋がり 逸話
黒坂辛作は、金栗四三に出会ったことで、人生が変わりました。
大河ドラマでは、金栗は高師卒業後、播磨屋の2階に間借りしていましたね。
そこで、2人は二人三脚でマラソン足袋の開発に勤しんでいたんですね。
播磨屋は、母方の養子となった與田勝蔵氏が2代目社長となり、次男の長次郎氏は、兄の支えとして頑張っていたそうです。
次男・長次郎は播磨屋足袋店で辛作とともに暮らしていました。
1982年、かつて播磨屋だったところにビルが建設され、その側面には「金栗足袋発祥之地 黒坂辛作 長次郎印」という石碑が設置されています。
それは、長次郎が父・辛作を思い設置したそうです。
この石碑は、金栗四三を演じている中村勘九郎さんも見に来たそうで、そこで黒坂辛作の子孫の方々とお話をされたそうです。
黒坂辛作は、自分に厳しい人だったようで、足袋制作中に眠くなると、自分の足に針を刺して目を覚まし、足袋を作ったという逸話が残されています。
長男の勝蔵が1948年に家督を継ぐと、黒坂家から独立して東京・護国寺に移り住みました。
かつて武家屋敷だった古い一軒家には、広い客間があり、熊本から上京する金栗四三がたびたび泊まっていたといいます。
長い時には1年のうちの10か月も滞在していたとか。
金栗は、寄宿している間、勝蔵の子である誠一らを朝6時に起こし、2~3Km走らせたそうです。
真冬でも冷たい水を浴びて寒風摩擦を行っていた金栗。
幼い誠一を地方の陸上大会に連れて行ったり、富士登山に誘ったり、熊本の金栗の実家に連れて行ったことがあるようです。
熊本ではヤギの乳を勧められたこともあるそうです。
黒坂新作を演じる三宅弘城さん
三宅弘城さんは、
- 1968年1月14日生まれ
- 神奈川県横須賀市出身
- 身長 165cm
- 血液型 O型
- 所属劇団 ナイロン100℃
- 所属事務所 大人計画
- グループ魂では「石鹸」としてドラムを担当
- 特技は器械体操とボクシング
主な出演作では
ドラマ
- 冗談画報
- でたらめ天使
- ギクギャグゲリラ
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- だいじょうぶ3組
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- 映画ST赤と白の捜査ファイル
たくさんのドラマ・映画・舞台と活躍する三宅弘城さん。
今回の大河ドラマでは途中からの参加ですが、その交代は驚く程スムーズでした。
アクが強く印象深い役柄でしたが、三宅さんはそれを見事に自分のものとして演じ、更に、金栗足袋完成時に素敵な笑顔を見せたことで、黒坂辛作のマラソン足袋に向ける情熱の熱さが伝わってきました。
厳しいことばかり言っていた黒坂辛作が、あの笑顔で一気に親しみやすさを感じたのは私だけでしょうか。
これから先、金栗の出番は減ってきてしまいますが、カナグリシューズ完成までまだまだ辛作の試行錯誤は続きます。
金栗の後輩たちのために、全ての陸上選手のために力を注ぐ黒坂辛作の頑張りが画面上で見られることを期待しています。
最後に
1966年3月31日、黒坂辛作は亡くなりました。
オニツカに押されて、ハリマヤが伸び悩んでいる時だったのでしょうか。
これまで、カナグリシューズを履いたランナーたちがオリンピックで活躍するさまをまざまざと見てきた辛作にとって、オニツカの「マジックランナー」を履いた選手が東京オリンピックで銅メダルを取った瞬間はどのような気持ちだったのでしょう。
悔しさ、はもちろんあったでしょうが、次はどんなカナグリシューズにしようか、考えていたのではないでしょうか。
陸上を愛する全ての選手たちのために、ただの足袋屋であることを辞め、マラソン足袋の開発・陸上の発展に力を注いできた黒坂辛作です。
これからも日本の陸上選手のためにどんな改良を加えようかと考えていたのかもしれませんね。
無骨で頑固な職人気質を持ちながら、人の意見を真摯に聞き入れ黙々と改良・開発に勤しみ、日本の陸上界を大きく発展させた黒坂辛作は、まさにマラソンシューズ界のパイオニア。
ハリマヤの靴を履くことが選手の憧れであったという事実に納得してしまいます。
偉大な職人、黒坂辛作に敬意を表したいですね。