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おんな城主 直虎。松平元康が徳川家康になった理由について。

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大河ドラマ「おんな城主 直虎」の第20回「第三の女」で、松平元康が登場しました。

松平元康は、この後に徳川家康と改名します。

徳川家康と言えば、江戸幕府開いた武将として有名です。しかし、松平元康という名前だったとは、知らない人も多いのでは。

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今回は、改名前の松平時代にスポットを当てて、幼少期に人質だった原因から、改名した理由までをまとめてみました。

目次

人質としての幼少期

松平家は、室町時代から三河地方を治める大名でした。

しかし、西の織田家の勢力が強くなり、松平家は弱体化します。松平家は、東の今川家に助けを求めます。松平家当主・広忠は従属の証として、長男の竹千代を今川家に人質として預けます。

しかし、護送係の寝返りによって織田家に送られてしまったのです。織田家にとって、今川と松平の同盟を邪魔し、嫡子を人質として手元に置くのは、何かと都合がよかったようです。

今川家としては、そのままにしておくわけにはいきません。織田家勢力下の安祥城に攻め込み、織田信広という人物を捕らえます。そして織田信広と竹千代の人質交換に成功します。

4歳で織田家の人質に、8歳で今川家の人質に。竹千代は波乱に満ちた、大変な幼少期を過ごしたのでした。

その後8歳から19歳まで、今川家で人質として過ごします。

人質と言っても暗い牢屋に閉じ込められているわけではなく、将来の領主として勉強などして暮らしていたようです。

しかし、今川家での扱いはあまりよくなく、忍耐の日々でした。

元服して成人に

13歳になり、元服して松平元信を名乗ります。

この「元」という字は今川義元の名前から取ったものです。今川の勢力下にあったことを知らしめる名前でした。

さらに今川義元は姪の瀬名姫と松平元信を結婚させます。姻戚関係を築き、今川家は完全に松平家を支配下に置きます。

瀬名姫はドラマに登場し、今川氏真との結婚を夢見ていたけれど、結局できず、「おんな城主 直虎」の第5回「亀之丞帰る」で次郎法師(直虎)に恨み言の手紙を送っていましたね。

今川家で過ごしていた元信を「ぼんやり松平」と呼んでいました。

さらに15歳の時、名前を元信から元康に改名します。これは、信という字が織田家の嫡子につける字なので、変えたという説があります。そして康は祖父の松平清康からとりました。

徳川家康になるまで

運命を変えるのが、今川と織田が戦った桶狭間の戦いです。織田側の奇襲により、今川義元の首を取られてしまいます。

元康は、かつて松平家の居城だった岡崎城の代官が逃げて空いていたため、入城して取り戻すことに成功します。その後も、今川の拠点を攻撃し、今川への対立姿勢を明確にします。

さらに、1562年に織田信長と清洲同盟を結びます。西の脅威を無くし、東の今川へ攻め込む土台を作りました。

この翌年、元康から家康に名前を変えています。今川義元からもらった元という漢字を取り去ることにより、完全な決別を宣言しました。

さらに、今川の勢力と戦い、ついには三河地方を統一します。

そして、名目上も三河守になるため、朝廷に官位を要請します。しかし官位をもらうためには、かつて三河を支配していた、藤原氏の一族である必要がありました。

松平家は、清和源氏・世良田家の子孫。かつて、世良田家は得川という姓を名乗り、藤原の一族であると称した者がいました。その得川という名字に変えることにより、藤原一族だということにし、三河守の官位をもらう作戦を打ち出したのです。その時、縁起のいい「徳」という漢字に変更しました。

ややこしいですが、朝廷というのはそういう理屈が必要だそうで、三河守になるために名字まで変えてしまったのです。こうして4度目の改名、やっと世間で知られる「徳川家康」が誕生しました。

ざっくりいうと、今川からの独立を宣言するために「家康」に、三河守の官位のために「徳川」に改名した形です。

最後に

他に改名した戦国武将で有名なのは、豊臣秀吉、上杉謙信などがいます。

当時は、全国的な報道網などありませんから、出世などで自分の立場が変わったことを世間に知らせるには、改名して広めるのが一番手っ取り早かったのではないでしょうか?

結局、1555年の元服から1566年の三河守就任までの11年間で4度も改名しました。

このように短期間で何度も改名する武将は珍しかったことでしょうね。

それだけ、家康が短期間で勢力を伸ばしたということの現れだとも言えます。

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