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おんな城主 直虎。家康が心の底から信頼していた、石川数正の数奇な運命。

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NHKの「おんな城主 直虎」の公式サイトの特集PICK UP「瀬名奪還!」によると

家康にとって側近中の側近として信頼を寄せる智将。武功に秀でただけでなく、桶狭間の戦い後に、今川家に人質として囚われの身となっていた瀬名姫らを助け出すなど、交渉能力にもたけた人物。

とある石川数正。

「おんな城主 直虎」では、中村織央さんが演じられています。

公式サイトにあるように、桶狭間の戦いの後、元信(後の家康)が今川家に反旗を翻したため、駿府に残された瀬名姫や子供たちが窮地に陥り、あわやというその時、石川数正が颯爽と駆けつけ人質交換の交渉が成功し、瀬名姫たちは無事に岡崎へ旅立つことができました。

武田家と徳川家による遠江侵攻の時も、酒井忠次たちが武田との約定を守り、武力で掛川場を攻略しようとしたところを、家康は極秘裏に石川数正に命じ、今川家との交渉を進め、掛川城を無血開城に導きました。

家康が人質時代から臣従している譜代の家臣であり、家康が心の底から信頼している智将が石川数正です。

しかし、この後、石川数正はこの家康の信頼を裏切るような行動に出てしまうのです。

家康の信頼が厚かった数正が一体なぜそのようなことをしたのでしょうか。数正に何があったのでしょうか?

石川数正とは、一体どのような人物だったのでしょうか?

目次

石川数正の生涯

石川氏の出自は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流・河内源氏です。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指します。「武家の棟梁」と称された八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内源氏の本拠地・河内国壺井の石川荘を相続し、義時の三男義基が石川の地に土着し、石川源氏・石川氏の祖となりました。

石川数正の三河石川氏は、義時の子孫のうち、下野の小山氏を頼っていた一族が、浄土真宗の僧・蓮如に随行して三河までたどり着き、定住したのが始まりと言われています。

松平氏(後の徳川氏)に仕え、柳営秘鑑(江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した書物)にある徳川最古参の安祥譜代七家(徳川家の譜代家臣で安祥城に御在城の時に奉仕した家臣。他に酒井・大久保・本多・阿部・青山・植村の名が挙げられている)の一つで、浄土真宗門徒の総代的立場にあったとされています。

石川数正は、1533年、家康の祖父にあたる、松平清康の重臣・石川清兼の次男で三河小川城(現安城市小川町間田)主・石川康正と能見松平家3代当主・松平重吉の娘との間に生まれました。家康より10歳ほど年上になります。初名は康正→数正→康輝のちに吉輝、通称は与七郎です。西三河の旗頭・石川家成は叔父、石川康通は従弟にあたります。

1549年、家康が今川の人質として駿府に行く時に、譜代の家臣の他に遊び相手として5人のお供を加えることになりました。数正は年が近いことからその中の1人に選ばれ随行しました。

1554年、岡崎五人衆の1人、内藤義清の娘を正室に迎えていた数正に嫡男・康長が生まれました。他に生年不詳ですが、次男・康勝、三男・康次という子供もあります。

1560年、桶狭間の戦いにより今川義元が討たれた時、家康は今川の本拠地・駿府には戻らず、松平の本拠地・岡崎城へ戻りました。

1561年、織田方に与していた家康の生母・於大の方の兄、水野信元の進言を聞き入れた織田信長から家康に和睦の申し入れがされました。家康は自身の片腕であった数正を織田家との交渉役にし、織田との同盟を模索しはじめました。しかし、長年の確執から簡単には同盟はまとまりませんでした。

1561年、石ヶ瀬において織田・徳川の間に戦いが起こりました。数正はそこで先鋒として戦功を挙げています。

その後、家康は家臣とも相談の上、今川と手を切り、織田と結ぶことにすると、すぐに今川方の諸城を攻め始めました。

3月には板倉重定を攻め、8月には三河長沢城の糟谷善兵衛、9月に本多広孝に命じ、三河東条城の吉良義昭を攻め落とし、西三河をほぼ制圧しました。

1562年、数正が交渉役を務めていた織田信長との清洲同盟が結ばれると、家康は2月に久松俊勝・松井忠次に命じ三河西郡城主・鵜殿長照を攻め、氏長と氏次という2人の子を生け捕りにしました。この2人の子は今川氏真の従兄弟にあたります。

今川は、今川に従う武将たちの妻子を人質として駿府に住まわせていました。家康も妻子を駿府に残し、桶狭間に出陣しました。しかし、今川義元討ち死にの報を受けたことにより、駿府には戻らず、そのまま岡崎城に入ったため、妻子は駿府に置き去りの状態になってしまいました。

その後、家康は今川に従っていた東三河諸豪族の調略を開始、西郷正勝・設楽貞通・菅沼定盈らは家康に応じ、今川氏から徳川氏へ転属しました。しかし、このことが今川氏真の勘気に触れ、東三河諸豪族が差し出していた人質13人は串刺しの刑に処されてしまいました。

石川数正は、命の危険にさらされた家康の正室・築山殿(瀬名姫)と嫡男・信康、生まれたばかりの亀姫を救うため、氏真の従兄弟にあたる鵜殿氏長と氏次兄弟を連れ、駿府を訪れ、人質交換の交渉を成功させたのです。数正自身にも命の危険がありながらも交渉に臨み、大きな功績を挙げました。

1563年、三河一向一揆が起こりました。数正の父・三河石川宗家の石川康正は家康を裏切り、一向一揆に加わりましたが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くしました。

その後、数正の父が継いでいた石川宗家は叔父の石川家成が継ぐことになり、直系の系統が代わってしまいました。しかし、石川宗家ではなくなったものの数正は戦後には家康から家老に任じられ、重用されることになりました。

さらに、家康の嫡男・信康が元服するとその後見人にも命じられました。

1569年、武田の駿河侵攻と同時に武田と同盟を結んでいた家康は遠江に侵攻を開始、掛川城を無血開城させることで今川氏真を降伏させました。そして掛川城には数正の叔父・石川家成を城主に据えました。それにより西三河の旗頭の任は数正が担うことになりました。

1570年の姉川の戦いや1572年三方ヶ原の戦い、1573年長篠の戦いなど、数正は先鋒として合戦に出陣し、多くの武功を挙げました。

1579年、岡崎城主だった家康の嫡男・信康が織田信長により切腹を命じられる事態になりました。この後、数正は岡崎城主に任じられ、譜代の最上席として、徳川一門に準ずる地位を与えられることになりました。

1582年の本能寺の変以降、信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭してくると、数正はその外交手腕を買われ秀吉との交渉を担当することになりました。小牧長久手の戦いで秀吉と戦った家康に、秀吉との和睦を提言したと言われています。

寝返りの謎

1585年8月、第一次上田合戦が始まりました。徳川と北条の同盟の条件として、徳川傘下になっていた真田昌幸が領する沼田と北条が制圧した信濃佐久郡を交換することになったのです。しかし、真田昌幸は徳川から与えられた領地ではないとこれを拒否し、さらに敵対する上杉に通じたのです。

真田の造反を知った家康は真田の本拠地・上田に軍を派遣し攻め落とそうとしました。しかし、地の利を活かした真田軍の巧みな攻撃に徳川軍は多くの戦死者を出してしまいました。以降も、真田の頑強な抵抗に合い家康は軍を一時撤退させました。そしてこの11月、石川数正が豊臣家に出奔する事態になり、家康は上田からの完全撤退をすることになったのです。

家康の重臣であった数正が出奔したことにより、家康は軍事機密漏洩に対応せざるを得なくなりました。西三河の旗頭であり、家康の譜代家臣であった数正は徳川の軍事機密を知り尽くしていたのです。

これにより、家康は三河以来の軍事編成を改め、甲州流(武田流)に改正することになったのです。

さて、譜代の家臣であり、家康の信頼も厚かった数正はなぜ出奔するに至ったのでしょうか。出奔の理由は諸説あり、定かではありませんが、いくつかの説を見てみましょう。

豊臣秀吉との関係説

数正は、秀吉との交渉役を務めていました。無骨な三河武士の中にあって、数正は外交に強く、かつて清洲同盟締結の時にも大きな功績を挙げていました。

秀吉は稀代の「人たらし」として有名です。交渉役として何度も秀吉と接触していた数正は、次第に秀吉の器量に惚れ込み、自ら投降したという説がひとつ。

また、秀吉からの多大な恩賞に篭絡されたのではないかという説。

秀吉との内通を疑われ、数正の徳川家中での立場が悪化したからという説。

数正が徳川に引き入れた小笠原貞慶が離反し、秀吉と内通したため、その責任を負ったという説などがあります。

松平信康切腹による説

数正は、家康の嫡男・信康の後見人として附家老を務めていました。家康が今川から離反した折に数正が命をかけて奪還した子供です。

その信康が切腹を命じられたため、この事件を契機に家康と不仲になったという説があります。

また、この事件後、徳川家の実権を酒井忠次らの浜松衆(家康派)が握り、数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)の立場がなくなったという説もあります。

その他の説

三河一向一揆の折に、石川宗家の系統が家康の縁戚である叔父・石川家成に代わったため、傍流となったことを不満に思ったという説。

家康の密命により、豊臣に臣従したと見せかけ、徳川の外交を内から手助けするための出奔だったという説、などなど諸説あり、その真実は定かではありません。

石川数正の晩年と子供達

豊臣に出奔した数正は、秀吉から「徳川譜代の石川が家康を裏切るはずがない、何らかの策だろう」と言われ、厚遇されなかったと言われています。

1586年、秀吉に家臣として召抱えられ、河内国内で8万石を与えられました。この時、通称を伯耆守から出雲守と改め、秀吉より偏諱を賜り吉輝と改名しました。

その後、豊臣方として九州征伐、小田原征伐にも従軍しました。

家康が関東に移封になると、数正も信濃国松本に移封になり、10万石(8万石だったという説もある)に加増されました。

そして国宝にもなっている松本城の天守を始め、城郭、城下町の整備に尽力しました。

1592年、朝鮮出兵では500騎を率いて肥前名護屋に出陣しましたが陣中で死去。享年61でした。

家督は嫡男・康長が継ぎましたが、次男・康勝に安曇郡1万5千石、三男・康次に5千石と分割相続しています。

しかし1613年、大久保長安事件(長安の死後、代官頭であった長安の不正が発覚し粛清された事件)が起こり、康長は大久保長安と共謀し知行を隠匿した廉で改易されてしまいました。康長の身柄は佐伯藩主・毛利高政預かりとなり、豊後佐伯に流罪になりました。

次男・康勝は兄の処罰に連座し改易されました。1614年に豊臣方として石川家旧臣を率いて大阪城に入城。大坂夏の陣では真田信繁の寄騎として戦い、乱戦の中討ち死にしてしまいました。

三男・康次も康勝と同様に兄・康長に連座し、改易されています。

最後に

家康の信頼の厚かった徳川譜代の最上席にまで登り詰めた石川数正でしたが、この出奔により晩年は豊臣にあっても冷遇されていたようです。

戦乱の世として強い者に従う、ということは当たり前のことではあります。しかし、寝返りをしてしまった武将はやはり戦乱の世であるからこそ、信頼を得ることはできなかったのでしょう。

何が目的だったのか、何故豊臣に走ったのか、謎が多い石川数正の出奔。

もし、石川数正が出奔していなかったら、一体どうなっていたのでしょうか?

徳川は軍制を武田流に変えることなくそのまま三河流だったのでしょうか?

そうすると、武田の遺臣を多く配属され、徳川四天王として武名を馳せた井伊直政の「井伊の赤備え」も別の物になっていたのでしょうか。

極論かもしれませんが、「井伊の赤鬼」が生まれたのは、数正の出奔があったからなのかもしれませんね。

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