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西郷どん。西郷菊次郎!西郷隆盛と愛加那の子の生涯と、演じる城桧吏さんと今井悠貴さん。

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西郷隆盛の初めての子にして、西郷隆盛の2番目の妻、奄美大島に住む愛加那の息子・菊次郎。

菊次郎が2歳の時に父が薩摩に帰り、母とともに島に残りました。

その後、9歳の時に薩摩の西郷家に引き取られました。

そこで、西郷の3番目の妻・糸に育てられます。

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菊次郎は台湾・宜蘭庁の初代所長、その後、京都市の2代目市長として多大な功績を残します。

大河ドラマ「西郷どん」では9~12歳を城桧吏さん、14歳~は、今井悠貴さんが演じます。

幕末の傑人・西郷隆盛の息子・菊次郎は、どんな人生を辿ったのでしょうか?

目次

奄美大島で生まれた菊次郎

1861年2月11日、奄美大島に遠島となっていた西郷吉之助と島妻・愛加那の間に菊次郎は生まれました。

菊次郎が生まれる10年近く前、下級武士だった吉之助は、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬に見出され側近くに仕えることになりました。

斉彬の御庭方役となり、斉彬の江戸参勤に同行、将軍後継問題では、一橋慶喜を擁立し、幕府を中心とした中央集権体制を作り、富国強兵を計り諸外国に対抗しようとする斉彬の手足となって活躍しました。

しかし、1858年、大老に彦根藩主・井伊直弼が就任し、将軍後継は一橋慶喜ではなく徳川慶福(家茂)が就任すると、一橋派の大名たちは井伊直弼から弾圧を受けることになりました。

斉彬が7月に急逝し、12代藩主に弟・久光の息子、忠義が就任しましたが、藩の実権は斉彬の父・島津斉興が握ることになりました。

将軍後継問題で多大な影響を与えた僧・月照は幕府から狙われるようになり、近衛家から月照の身を託された吉之助は、月照を伴い伏見を脱出、鹿児島に送りました。

吉之助も身の危険を感じ、藩命により名を西郷三助と改名させられました。

福岡藩士・平野国臣に伴われ月照が鹿児島に来ましたが、藩の実権を握る斉興は幕府の追求を恐れ、月照を日向送り(道中斬り捨てること)にし、月照とともに乗船した吉之助は前途を悲観し、月照とともに入水しました。

月照は死亡、吉之助は一命を取り留めたものの回復に時間が掛かり、藩は幕府の目から吉之助を隠すために、吉之助を死亡したものとして扱い、名を変え奄美大島に潜居させることにしました。

こうして菊池源吾と名を変えた吉之助は、島で暮らすようになりました。

流人として扱われ、孤独に苦しんだ吉之助でしたが、島の子供たちの教育をし、島の人々との関わりを持ち、龍家のとま(後の愛加那)を島妻として娶るようになると、島の暮らしに馴染んできたといいます。

1861年2月11日に長男・菊次郎が誕生しました。

「菊次郎」の名は、吉之助が名乗った「菊池源吾」の「菊」を取り、「次郎」としたのは、島妻である愛加那の息子だから、とか、かつて吉之助が台湾を視察していた時に台湾の女性との間に子がいるから、など諸説あります。

大河ドラマでは、柄本明さんが演じる龍佐民から「いつか薩摩に戻る吉之助の子供は菊次郎とすべき」と説得されていましたね。

小説版『西郷どん』では、島妻の子である菊次郎は庶子扱いになるため、と書かれていました。

1861年12月22日に藩から召還状が届きました。しかし島妻制度により、吉之助は妻や子を連れて薩摩に戻ることができません。

吉之助は、畑を作り、愛加那が今後の生活に困らぬようした上で、1862年2月12日、鹿児島に戻りました。

その時、愛加那のお腹には2人目の子供がいました。

愛加那と吉之助の島の生活は2年半、菊次郎は2歳にして父と離れて暮らさなければなりませんでした。

1862年、国父である島津久光の上洛に際し、役目を担っていた吉之助は、京阪で緊張状態にあった尊攘過激派の暴発を収めるため、久光の「下関にて待機」の命令を無視し大阪に向かいました。

これにより、久光の怒りを買った吉之助は徳之島に遠島という処分を受けました。

吉之助が徳之島に遠島になったと聞いた愛加那は、菊次郎と生まれたばかりの娘・菊草を連れて徳之島に上陸、吉之助と再会を果たしました。

しかし、翌日には沖永良部島への遠島命令が届き、また家族が離れ離れになってしまったのです。

寺田屋事件、文久の改革、長州藩の米艦砲撃事件、天誅組の変、八月十八日の政変、生野の変など、様々な事件が起こり、世の中は尊攘か佐幕かで揺れていました。

そんな中、薩摩藩内部は旧精忠組の面々が藩の中核を担っていました。

旧保守勢力の失脚による人材不足になった薩摩藩は、小松帯刀や大久保一蔵の勧めもあり吉之助の赦免召還が決定されました。

1864年3月28日、吉井友実・西郷従道が沖永良部島の吉之助を迎えにやってきました。

吉之助は帰国途中、奄美大島で愛加那や子供たちに会い、3日を過ごした後再び別れ、同じく喜界島に遠島されていた村田新八を伴い、鹿児島に戻りました。

1864年4月、吉之助は薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命されました。

7月に池田屋事件、8月に禁門の変、12月に第1次長州征伐。

1866年3月には薩長同盟成立、8月に将軍・家茂死去。

1867年1月、徳川慶喜が15代将軍に就任、同1月孝明天皇薨去、2月に明治天皇即位、四侯会議が慶喜の策略により紛糾、世情はめまぐるしく変わり、公武合体派であった薩摩藩は徳川慶喜に見切りを付け、武力倒幕へと方針を固めました。

10月に慶喜は朝廷に大政奉還を行いました。

1868年1月、王政復古の大号令が発令。新政府軍対旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が始まりました。5月に江戸城が無血開城された後は、上野戦争、会津戦争、弘道館戦争、松山戦争、箱館戦争と続いていきます。

そうして江戸幕府に幕が下りた1869年、菊次郎は鹿児島の西郷家に引き取られることになりました。

菊次郎9歳のことです。

母・愛加那は島を離れることができず、妹・菊草が引き取られるのはもう少し先の菊草12歳の時です。

菊次郎は母と妹と別れ、鹿児島での生活が始まりました。

西郷本家にて糸に育てられる

菊次郎は吉之助の3番目の妻・糸に育てられることになりました。

糸は非常にできた女性で、実子・寅太郎と菊次郎を分け隔てなく慈しみ大切に育てました。

菊次郎は、鹿児島にある英語学校で英数学を学び、1年余りを西郷家で過ごしました。

戊辰戦争後、薩摩藩参政、相談役、執務役と鹿児島で過ごしていた父・隆盛が明治政府から政治改革のため上京を要請されると、1871年2月21日、菊次郎も父とともに東京に行くことになりました。菊次郎10歳でした。

1872年4月5日、菊次郎12歳の時に、農業を学ぶよう言われアメリカに留学しました。

2年6か月に及ぶ留学を終え、1874年帰国すると、1875年4月26日、鹿児島の吉野開墾社の寮に入りました。

1877年、西南戦争が起こり、17歳の菊次郎も薩軍の一員として父とともに参戦。延岡・和田越えの戦闘に参加し、右足に銃弾を受け大怪我を負いました。

壊疽を避けるために、膝から下を切断、一生義足を装着しなければならない身体になったのです。

田原坂の戦いに敗れた薩軍は、退却を余儀なくされました。

人吉盆地から宮崎各地を移動、俵野に陣を移す際、菊次郎は西郷家の老僕・永田熊吉に背負われ運ばれていたのです。

この戦闘で多数の死傷者が出た薩軍は可愛嶽を越えて三田井に抜けることになり、負傷した菊次郎は桐野利秋の計らいで、他の負傷兵とともに俵野の陣に残されることになりました。

地元住民の家で療養することになった菊次郎のもとに、父・隆盛が訪れ、菊次郎に降伏するように勧めました。

菊次郎は、這ってでも父に付いて行こうという意志を見せますが、熊吉に支えられなければ身動きができず、付いていくことは叶いません。

菊次郎は熊吉に背負われ、宮崎から鹿児島まで戻り、叔父である西郷従道のもとへ投降しました。

その際、従道は隆盛の忘れ形見である菊次郎の投降を喜び、菊次郎の命を守った熊吉に深く感謝したといいます。

1977年9月24日、父・隆盛は切腹して果て、大将を失った薩軍は敗北しました。

西南戦争後

西南戦争終結後、西郷一族は逆賊の汚名を着せられ、不遇な生活を強いられていました。

菊次郎は妹・菊草とともに西別府村で過ごしていました。

かつて、1873年1月に、愛加那は西郷隆盛から菊草とともに鹿児島に来るように懇願されていたのですが、愛加那は奄美大島からは出ず、1874年、12歳の菊草だけが鹿児島・西郷本家に引き取られていました。

1879年、菊草の婚約者で、西南戦争に参加し、宮城県監獄署に収監されていた大山誠之助が釈放され、鹿児島に戻ってくると、1880年、菊草と誠之助は結婚しました。

菊次郎は奄美大島に戻り、母・愛加那と暮らすことになりました。

4年ほど、奄美大島で暮らした菊次郎でしたが、1884年、23歳の時に、西郷従道が後ろ盾となり、語学力を買われて外務省に入省。

外務省の御用掛、会計局勤務となりました。

翌年、外務書記生となり米国公使館勤務となりました。

1887年には再度アメリカ留学、1890年には宮内省式部官、奏任官三等に叙任されています。

1891年、外務省翻訳官となり、日清戦争では陸軍省大本営付となります。

台湾赴任

その後1894年、日清戦争が勃発、日本軍が勝利しました。1895年4月17日に締結された下関条約により台湾と遼東半島が日本に割譲され、それにより菊次郎は台湾勤務となりました。

この時、奄美大島に寄り、母に会った後に台湾に赴任しました。この時の再会が母と会う最後になりました。

1895年、菊次郎34歳の時、台湾総督府参事官心得を命じられ、その1年後、台湾の台北県支庁長、さらに翌年には宜蘭(ぎらん)の初代庁長を拝命しました。

この頃の台湾は、日本軍の統治に不満を持つ土匪(どひ=土地に住み着き害をなす集団)の襲撃や、風土病、アヘンの蔓延などに苦しんでいました。

初代・樺山資紀、2代・桂太郎、3代・乃木希典と3人が台湾総督を務めた2年9か月の間、軍人による統治は莫大な費用が掛かり難航していました。

「台湾を1億円でフランスに売却せよ」という議論まで起こるほど行き詰まっていました。

そんな中、菊次郎は父・隆盛の「天を敬い、人を愛する」という仁愛の教えを胸に、民衆のためになる政治を行うことで、住民との融和を図るべく治政に力を注ぎました。

まず、宜蘭の住民の憂いであった宜蘭川の氾濫をなくすための工事に取り組みました。

堤防工事には莫大な費用が掛かりますが、菊次郎は台湾総督府に粘り強く交渉し、巨額の補助金を引き出しました。

当時、まだ機械化が進んでおらず、堤防工事には多くの人手が必要になります。

菊次郎は、この人手不足解消に土匪を当てようと考えました。

土匪が住民を襲撃するのはそれ以外の仕事がないからだと菊次郎は考えたのです。

これにより、土匪対策もでき、人手不足も解消するという菊次郎の考えを、第4代台湾総督・児玉源太郎、民政局長・後藤新平は認め、宜蘭の匪賊対策を菊次郎に一任したのです。

1900年4月から始まった工事は、1年5か月の月日をかけ、13.7Kmに及ぶ堤防が完成しました。

堤防の威力に半信半疑だった宜蘭住民でしたが、これ以降、悩まされ続けた宜蘭川の氾濫が起きなくなり、住民は歓喜し、その堤防を「西郷堤防」と呼ぶようになりました。

宜蘭川の治水工事の他にも、新田開発、道路整備など、5年6か月の在任中、宜蘭の発展に力を尽くし、多大な功績を残しました。

1902年、母・愛加那の死を機に宜蘭庁長を辞任して日本に戻るのですが、菊次郎が帰国後、宜蘭に尽くした菊次郎への感謝の気持ちを込めて、宜蘭の人々は「西郷庁憲徳政碑」という石碑を建てたのです。

宜蘭市にある「宜蘭設治記念館」には、菊次郎の写真を始め縁の品が残されています。

第2代、京都市長

台湾から戻った菊次郎に託されたのは、京都市長という役職でした。

当時、幕末・維新により荒廃した京都も日々復興が進み、人口も経済活動も大幅に増加していました。

維新後、約24万人と江戸後期よりも10万人も減少していた人口も、復興によりどんどんと増加し、1899年には36万人近くにまで増加しました。

人口増加とともに水・各種物資など大量のエネルギーが必要となります。

当時の京都は琵琶湖疏水だけでは水力発電も水そのものも不足しがちで、限界が近づいていました。

特に上水道の整備が遅れていたため、井戸の水枯れ・河川の水質悪化、水路の汚濁が進んで伝染病が流行するなど多くの課題が残されていました。

物流が盛んになったため、道路の拡幅工事も行わねばならず、対応に苦慮していました。

そこで、初代京都市長・内貴甚三郎は、台湾での実績を持ち、西郷隆盛の息子というカリスマ性を持ち、薩摩閥の多くの係累を持つ菊次郎こそ後を託すにふさわしいと判断。

菊次郎は1904年10月、第2代京都市長に就任しました。

菊次郎は内貴市長から引き継いだ京都改造事業に取り組みました。

特に「京都三大事業」と呼ばれる、第二琵琶湖疏水建設、上水道整備、道路拡築、さらに市営電気鉄道敷設、街灯をランプから電灯に変える等の構想に取り組みました。

これらの事業は、どれも莫大な費用がかかる巨大事業で、当時の市民の一部からの反対もありましたが、菊次郎は強い信念を持って取り組みました。

菊次郎は強いリーダーシップを発揮しながら着実に三大事業を進めていました。

この功績により、市長2期目も任されたのですが、突然の体調不良により1911年市長を辞任、自宅療養をすることになりました。

菊次郎が「三大事業」を提案してから6年3か月後の1912年6月15日、三大事業竣工の祝賀式典が執り行われました。

これにより京都の街は生まれ変わったのです。

鹿児島に帰郷

市長を辞任すると、菊次郎は鹿児島に戻りました。

余生を悠々自適に送ろうとしていたところ、公爵・島津忠重から永野金山島津鉱業館長就任を依頼されました。1913年、菊次郎51歳の時でした。

これまでの経験とは無縁の鉱業館長という職に、菊次郎は不安を感じましたが、菊次郎の前任者である工学博士・五代龍作により金山は近代化され、経営も順調、鉱山事業を大局的に見られる人物としての依頼だったので、快諾したといいます。

館長に就任すると、金山の運搬効率を上げるため鉱山周辺の環境整備を行います。

さらに、金山採掘だけに頼らず、時代の変化に対応できる人材を育てるために人材育成にも取り掛かりました。

1914年、菊次郎は私財を投じて武道場を建設しました。

鉱山従事者関係でなくても近隣の誰でも通える道場で、武道、銃剣術、射撃、弓道の練習ができました。

さらに、選鉱場の横にも山ヶ野鉱業館夜学会(三年制)という教育施設を建設し、当時の地方教育としてはかなりレベルの高い学校を創設しました。

また、職員の福利厚生にも力を入れました。

テニスコートを作り、囲碁・将棋、図書などの他にもビリヤード台を常設した職員クラブを設け、都市部から赴任してくる職員の安寧の場所を作りました。

そして1920年1月、菊次郎は鉱業館長辞任を決意しました。

約8年におよぶ在任期間中、人材育成のための学校建設だけでなく、日用雑貨の販売所を設け、金山以外の学校や役場、橋梁の改築などにも多額の寄付で地域の発展に尽力しました。

菊次郎退職直後に「西郷菊次郎頌徳之碑」が建てられました。

それには、菊次郎の功績と人柄を讃えた碑文が残されています。

1928年11月27日、鹿児島市薬師町の自宅にて、心臓麻痺により死去。

家族に看取られて67歳の生涯を閉じました。

西郷菊次郎役(9~12歳)・城桧吏さん

2006年9月6日生まれ。

7歳の時にスターダストプロモーションにスカウトされ、芸能活動を開始しました。

主な出演作に

  • 僕だけがいない街-杉田広美(幼少期役)
  • グッド・ドクター-羽山響

映画では

  • となりの怪物くん-吉田優山(幼少期役)
  • 万引き家族-柴田祥太

話題の作品に出演し、高評価を得ています。

特に、「万引き家族」では祥太の心の揺れを見事に表現し、カンヌ国際映画祭では強い印象を残し、その存在感を示しました。

大河ドラマには初出演となり、薩摩言葉と奄美言葉を使い、鹿児島に引き取られた菊次郎の戸惑いや心の揺れなど、微妙な心理描写に期待が持てる役者さんです。

西郷菊次郎役(14歳~)・今井悠貴さん

1998年12月30日生まれ。

2009年までセントラルグループ・セントラル子供タレントに所属し、2010年からはプロダクション尾木に所属しています。

3歳の時にテレビに出たいと親に話したところ、劇団に連れて行かれそれ以降子役として活躍していました。

2003年、5歳の時にドラマ「元カレ」でデビュー。

2007年、「はだしのゲン」でゲンの弟・進次役で人気が出ました。

子役として数多くのドラマ・映画に出演し、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では黒田熊之助役で出演しました。

子役から青年役に変わる中、その成長と演技の巧さに高評価を得ています。

アメリカ留学を終え、鹿児島で学び、父とともに西南戦争に参加する菊次郎。

若くして戦場という過酷な場に身を置き、父と死別するという非常に難しい役どころですが、泣ける演技、影のある役に定評のある今井さんが戦場における菊次郎をどのように表現するのか、とても楽しみです。

最後に

幕末の偉人、維新の三傑、と呼ばれた西郷隆盛を父に持つ菊次郎の人生は、人のために全てを捧げた人生だったと思います。

奄美大島に生まれた菊次郎は、鹿児島で父と同じ郷中教育を受け、若いうちにアメリカ留学をしたことで欧米文化に対する理解や知識が深まり、見識が高まりました。

留学経験を活かし、海外で活躍する菊次郎。

宜蘭でも京都でも、鹿児島の鉱業館長になっても、菊次郎はその土地の人々の気持ちに寄り添い、困難な事業に取り組みました。

初めは反対していた人々も、菊次郎の人柄に触れ、真摯な態度に触れ、やがて協力して事業を成功させようとする人々でいっぱいになりました。

遠い島国で生まれた少年は、亡き父の理想とする政治を実現させ、多大な功績残していたのです。

父のように、歴史上広く知られていたわけではない菊次郎ですが、「宜蘭を救った日本人」「京都の礎を作った人物」として、地域の人々に深く感謝されています。

幕末の傑人・西郷隆盛の息子、西郷菊次郎もまた明治を代表する傑人なのだと思います。


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