井伊直弼が行った安政の大獄。これにより100人を超える大量処分者が出ました。
中でも戊午の密勅を天皇から降下された水戸藩士に対する処罰は厳しいものでした。戊午の密勅を返納するかしないかで水戸藩内は割れ、穏健派は返納に同意するのですが、過激派は抵抗を強めます。
藩を出て、元凶となった井伊直弼に対する恨みをはらすため、直弼襲撃計画が立てられました。
それが「桜田門外の変」です。
これにより、水戸藩も幕府も彦根藩も大ダメージを受けることになります。
経緯
この桜田門外の変が起こるまでに、様々な問題が起こりました。
ペリーの黒船来航以降、幕府には外交問題や内政問題で悩みが尽きることはありませんでした。
問題を解決するために、これまで譜代の大名しか携われなかった外様大名が幕政に関与するようになってきました。
黒船来航直後に12代将軍・徳川家慶が亡くなり、その後を継いだ13代将軍・徳川家定も病弱で、まともな幕政を取れる状態になく、幕政は老中を中心とする幕臣が行っていました。
しかも、病弱なため将軍に子も望めないと分かると、将軍後継問題が急浮上しました。
それを憂慮したのが水戸藩前藩主・徳川斉昭、越前福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬などの有力大名たちでした。
彼らは、英明であると評判だった徳川斉昭の子・一橋慶喜を次期将軍に推していました。
しかし、一橋慶喜は血筋的には将軍家からかなり遠かったため、より近い血筋の者として家定の従弟である紀州藩主・徳川慶福を推す一派として、彦根藩主・井伊直弼、会津藩主・松平容保ら南紀派とに別れ対立を深めました。
更に、外交問題では、初代駐日領事・ハリスにより日米修好通商条約の締結を急かされていました。老中・堀田正睦は勅許を得るために京へ登りますが、攘夷派である孝明天皇から勅許は得ることはできませんでした。
1858年6月4日、大老として彦根藩主・井伊直弼が就任し、次期将軍には南紀派が推す当時12歳であった徳川慶福(後の家茂)と決まりました。
これには、斉昭に反感を持っている大奥の意見と家定の意向が入っていました。
そして、同年7月29日、日米修好通商条約は締結されました。
基本的に直弼は勅許を得てからの調印を望んでいましたが、交渉を担っていた下田奉行・井上清直の「やむを得ない場合には調印しても良いか」との問いに頷いてしまいました。
この勅許なしの調印に激怒したのは徳川斉昭、松平春嶽、島津斉彬などの一橋派の大名達でした。
調印の翌日、御三卿による面会日だったため一橋慶喜は登城し井伊直弼を詰問しました。
さらに翌日、面会日でないにも関わらず登城をした徳川斉昭始め、水戸藩主徳川慶篤・尾張藩主徳川慶勝・松平春嶽らも違勅調印として直弼を詰問しました。
このことは不時登城として問題となり、1858年8月13日、将軍家定の命として徳川斉昭ら一橋派諸侯へ処分が下されました。
その翌日、家定が没し、慶福は14代将軍となり、家茂と名乗りました。
この頃、藩領に戻っていた島津斉彬は井伊直弼に抗議するため藩兵5000人を率いて上洛する計画を立てていましたが、8月24日島津斉彬は急死し、計画の実現はなりませんでした。
朝廷と親密であった斉昭や春嶽の排斥は攘夷派が多かった公家や孝明天皇の怒りを買いました。孝明天皇は、幕府の刷新と大名の結束を説く戊午の密勅を水戸藩へ降下しました。
朝廷が大名へ直接勅書を出すということは幕府始まって以来のことで、幕閣に激震が走りました。
この事態を見過ごすことができない大老・井伊直弼は戊午の密勅に関わった者を中心に将軍後継問題で直弼らと対立した者たちに対し、厳しい処罰を下しました。
安政の大獄と呼ばれたこの大規模な処罰者は斬首8人を含む100人以上にもなりました。
特に水戸藩に対する処罰は厳しく、水戸藩過激派の怒りは大老・井伊直弼に向かいました。
水戸藩過激派の潜伏
幕府から戊午の密勅の返納を求められた水戸藩は、紛糾しました。
藩主・慶篤や前藩主・斉昭は幕府への恭順を主張していたのですが、返納断固反対派の動きはかえって活発となり、藩境である長岡に集まり、密勅が密かに返納されることを危惧し、水戸街道を封鎖して返納に抵抗しました。
返納容認派だった水戸藩士が江戸で何者かに襲撃され、また、水戸城下で返納容認派と反対派が激突し、負傷者を出す騒ぎとなりました。
さらに、水戸藩士尊攘派の斎藤留次郎が水戸城大広間で割腹自殺したため、返納は延期されることになりました。
井伊直弼襲撃を計画した水戸藩士・高橋多一郎、金子孫二郎を中心とした過激派と、薩摩藩の在府組であった有村次左衛門らは、薩摩藩主・島津斉彬の上京に合わせ直弼襲撃を目論んでいました。
時を少し遡りますが、桜田門外の変が起こる2年前の1858年。
薩摩藩の中に精忠組と呼ばれる若者たちが現れました。
大久保利通を中心とした彼らは黒船来航以降、水戸藩や長州藩と同じように国を憂い、日本をこのままにしてはいけないと立ち上がりました。
安政の大獄を引き起こした井伊直弼を政敵とみなし、水戸藩士たちと手を結び、直弼暗殺計画を画策しましたが、この暗殺計画は藩の上層部に知られることとなりました。
急死した斉彬の後を継いだ島津久光は、この計画を知ると、彼らの行動に理解を示しつつ、説得を試み精忠組を宥めました。
精忠組は計画を取りやめ、薩摩に戻ることになったのですが、有村雄助・次左衛門の兄弟は江戸に残り、水戸藩士たちと謀議を重ねました。
過激派の動きを危険と見た水戸藩は、金子や高橋、関鉄之助らに召喚命令を出しましたが過激派はそれに応じず、薩摩藩士・有村兄弟の計らいにより、三田の薩摩屋敷に潜伏しました。
水戸藩からの追っ手を恐れて、藩士たちは潜伏場所を転々としていました。
謀議を重ねた金子と有村兄弟は、薩摩からの参加者は見込めず、水戸藩の参加者も大量には望めないとして、襲撃対象を井伊直弼一人に絞り、決行日を旧暦3月3日、上巳の節句の総登城日と定めました。
前日、3月2日、決別の酒宴にて、襲撃参加者が集まり、襲撃の成功を誓い酒盃を交わしました。この夜、藩に累が及ばぬよう藩士・神官ともに除籍願いを提出したのです。
桜田門外の変~襲撃の状況
1860年3月24日(旧暦安政7年3月3日)その日は上巳の節句で、在府の諸侯は総登城の日でした。
この日は明け方から雪が降る季節はずれの天気でした。
午前8時、登城が始まり諸侯の行列が桜田門をくぐり始めました。
尾張藩の行列が過ぎた午前9時頃、彦根藩の行列が動き始めました。
雪で視界が悪かったため、彦根藩の藩士たちは雨合羽を羽織、刀には濡れないようにと袋をかけていました。
直弼の元には不穏な者がいるとの情報が入ってきていましたが、護衛を強化すれば、失政の批判を受け、動揺したとみられるため、あえて強化することなく、そのままにしていました。
彦根藩邸から江戸城桜田門までは327~436m。
直弼の駕籠が江戸城外、桜田門外に差し掛かった時、襲撃を受けました。
まず、水戸浪士・森五六郎が行列の供頭に近づき注意を前方に引きつけました。
森は、止めに入った彦根藩士・日下部三郎右衛門に斬りかかり、日下部は倒れました。
護衛の注意が前方に向けられたのをみると、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之助という説もあります)が直弼の乗る駕籠に鉄砲を発射しました。
これを合図に浪士たちの抜刀襲撃が始まりました。
最初の弾丸は、直弼の腰部から太股に当たっていました。居合いの達人であった直弼でしたがこの怪我により動くことができません。
全方向からくる抜刀攻撃に彦根藩士たちも応戦しようとするのですが、雪のために被せた袋のために容易に反撃できませんでした。
しかし、彦根藩の二刀流の使い手・川西忠左衛門や永田太郎兵衛正備が奮戦し、襲撃者側にも大打撃を加えました。
しかし、やがて直弼の駕籠の周りを守る者がいなくなり、襲撃者たちの刃は直弼の駕籠に次々と突き立てられました。
薩摩藩・有村次左衛門が直弼を駕籠の中から引きずり出し、薩摩刀によって直弼の首を落としたのです。
この襲撃は、わずか十数分の出来事でした。
有村が直弼の首を持ち去ろうとすると、彦根藩目付助役の小笠原秀之丞が追いすがり、米沢藩邸前で有村の後頭部を斬りつけました。
小笠原は駆けつけた広岡子之次郎らによって斬り倒され、重傷を負った有村はしばらく直弼の首を引きずって歩き、近江三上藩・遠藤胤統邸の前で力尽き、自決しました。
このため、直弼の首は遠藤家が収容することになりました。
襲撃の知らせを受けた彦根藩邸から藩士が応援に来ましたが、時既に遅く、藩士たちは死傷者や駕籠、浪士に切り落とされた指や耳たぶ、腕、さらに鮮血にまみれた雪まで回収しました。
直弼の首は、井伊家・遠藤家・幕閣とで話し合い、直弼の物ではなく別人の物であるとして井伊家に戻されました。
直弼は負傷し自宅療養中としてしばらく事実を隠すことになりました。
これは、井伊家が取り潰しにならないための幕府の配慮でした。
桜田門外の変~襲撃者のその後
襲撃者16名のうち、稲田重蔵は彦根藩の河西忠左衛門に斬られ、襲撃者側で唯一闘死しました。
有村次左衛門・広岡子之次郎・山口辰之助・鯉渕要人らは、彦根藩士の反撃にあい重傷を負い自刃。
佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎の4名は、戦闘で重傷を負いながら和田倉門前の老中・脇坂安宅邸まで逃走し、「斬奸趣意書」を提出し、自訴しました。
特に重症だった佐野は事件当日の夕方に絶命し、他の3人は佐野の遺体とともに熊本藩細川家へ預けられました。重傷を負った斎藤も怪我が悪化し5日後に落命。
黒澤は富山藩・前田家に預け替えとなり、次には三田藩・九鬼家へ移されました。それから3ヶ月ほど後に、九鬼家で病死しました。
蓮田一五郎は細川家から膳所藩・本多家へ預け替えられました。絵を描く才があった蓮田は、細川家で事変の詳細を描き残し、およそ1年後1861年取り調べの後、伝馬町獄舎にて
幕吏により、斬首されました。
大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介の4名は熊本藩主・細川斉護に趣意書を提出し自訴し、取り調べの後、伝馬町獄舎で幕吏により斬首されました。
広木松之助・増子金八・海後磋磯之介は、襲撃不参加であった関鉄之助・岡部三十郎ら協力者と共に京へ向かいましたが、幕府の詮議が厳しく辿り着くことはできませんでした。
広木は水戸へ戻り、その後再び京を目指しますが辿り着けず、途中偶々居合わせた水戸藩士・後藤哲之介に助けられ追っ手から逃げることができました。
しかし代わりに後藤が捕まり、絶食の後、死亡。広木は相模国鎌倉の上行寺で剃髪しましたが、襲撃から3年後、上行寺の墓地にて切腹。広木には、直弼の首級を水戸へ持ち帰ったという説があります。
関もまた京へは行けず、各地を転々とした後、越後湯沢温泉にて水戸藩士に捕縛され、伝馬町の獄舎にて斬首。
検視見届け役だった岡部も、水戸で潜伏した後、江戸吉原で捕縛され伝馬町獄舎にて斬首。
襲撃首謀者であった金子孫二郎や佐藤銕三郎、薩摩藩・有村雄助らも京へ向かいましたが、途中伊勢・四日市の旅籠で薩摩藩兵により捕縛されました。
金子は取り調べの後伝馬町獄舎で幕吏により斬首に処され、佐藤は追放となりました。
薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため、有村は大阪薩摩藩邸に隠され、その後薩摩に護送され、藩命により自刃させられました。
水戸浪士・高橋多一郎・庄左衛門親子も大阪にいたところを捕縛され、自刃。
薩摩藩との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎も探索に追い詰められ自刃しました。
増子金八と海後磋磯之介は生き残り、各地に潜伏して明治時代まで生き延びました。
増子は各地を転々とした後、明治に水戸に戻り、1881年に病没するまで同志の冥福を祈りながら過ごしました。
海後は親戚の家を頼り潜伏し、1863年に水戸に戻りました。名を変え1864年の天狗党の乱に参加。関宿藩預かりになりますが脱出し、明治維新後に旧水戸藩士身分に復帰して茨城県庁や警視庁に勤務、1903年に亡くなりました。
生前、襲撃事件について語ることはありませんでしたが、遺稿として「春雪遺談」「潜居中覚書」を残し、襲撃の一部始終を伝えています。
その後の彦根藩
藩主・直弼を惨殺され、守りきれなかった彦根藩士たちのその後も悲惨なものでした。
即死者4名、重傷を負いその後死亡4名、他に重軽傷者5名。
直弼を守ろうと最後まで闘い命を落とした藩士の家は跡目相続が認められましたが、重傷者は減地のうえ、下野佐野に流され幽閉されました。
軽傷者は全員切腹、無傷で屋敷に戻った者たちは全員斬首、家名断絶となりました。
この苛烈な仕置に各藩は江戸住まいには嫡男ではなく次男三男を置くようになり、各行列の護衛をさせるなど、各藩は江戸定府に重きを置かなくなりました。
当初は水戸藩に対し、仇討を叫ぶ声もありましたが、家老・岡本半介がその声を押し留め、藩は家名存続を優先させたのです。
桜田門外の変の直後、直弼の死は隠され、急病のためしばらく闘病すると発表されました。
急遽、跡目相続願いを提出し、それが受理されると直弼は病死したと発表され、取り潰しを免れました。
譜代筆頭であり大老でもあった直弼の死によって、これまで直弼が守ってきた幕府の権威を守るための専制政策路線は破綻しました。
それどころか、御三家である水戸徳川家と譜代筆頭である井伊家との対立は、幕府の権威を失墜させ、尊王攘夷運動が激化するきっかけとなりました。
桜田門外の変~その後
桜田門外の変の2年後、襲撃者が幕吏により斬首されたのを見届けた薩摩藩は、藩主・島津久光が藩兵を率いて入京しました。
さらに、久光は天皇の勅使・大原重徳と共に江戸に赴き、軍事的圧力を掛け幕政の刷新を要求しました。
幕府は、攘夷の決行や一橋慶喜を将軍後見役に、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命するなど文久の改革と呼ばれる人事・職制・諸制度の改革を行い、直弼政権の清算を図りました。
直弼政権を支えていた老中・安藤信正は、同年坂下門外の変で負傷し、この文久の改革で罷免されることになりました。
彦根藩は石高を10万石減らされ、25万石となり、さらに京都守護職の家職を剥奪されました。彦根藩は、直弼の腹心であった長野主膳と宇津木景福を斬首として減封を免れようとしましたが、結局処分を免れることはできませんでした。
その後、第2次長州征伐に幕府方として出陣した彦根藩でしたが、井伊家の赤備えで出陣したため夜間でも目立ち、長州方の狙撃を受け大敗を喫しました。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の先鋒として出陣しましたが、後に翻り新政府軍側となりました。
最後に
この桜田門外の変の変により、幕府瓦解が早まりました。
幕府のNo.2、最高権力者であった井伊直弼の暗殺。
たった1人を暗殺するために、いったい何人の命が散ったのでしょうか。
尊皇攘夷派の動きが活発になる中、一橋派の大名が幕府に求めたのは幕政改革でした。
大政奉還に至るまでに、まだまだ幕府の混迷は続きます。