令和4年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、新納慎也さん演じる阿野全成。
源頼朝の異母弟であり、頼朝の舅・北条時政の娘婿にあたる人物です。
大河ドラマの中では、シリアス担当というより、むしろ緩和担当と言いますか、緊張の中での癒し的な存在として大きな役割を果たしています。
頼朝の異母弟というと源義経が有名ですが、義経、義円の同母兄です。
頼朝、義経と知名度の高い兄弟の中でもなかなか目立たない位置にいた阿野全成ですが、史実の阿野全成とは一体どんな人物なのでしょうか?
出自
阿野全成は、平安時代の河内源氏6代目棟梁である源義朝と側室・常盤御前の子として生まれました。
義朝には、義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成、義円、義経、坊門姫という子がおり、全成は7男になります。
その中で常盤御前を母に持つ同母兄弟は3人、全成(今若)、義円(乙若)、義経(牛若)です。
常盤御前は後に一条長成と再婚し、一条能成と一女をもうけています。
平治元年(1159年)、全成7歳の時、平治の乱が起こり、父・義朝が敗死。
兄弟の長男・義平は平家に捕らえられ処刑、次男・朝長は平治の乱で負傷し、父の手により亡くなりました。
3男ではありますが、正室の子で源氏の嫡男であった頼朝は、処刑を免れ伊豆へ流刑。
4男義門は、生没年や事績は明らかではなく、早世したと伝えられていますが、平治の乱の際には存命が確認されているので、直後の敗北の中での戦死ではないかと推測されています。
5男・希義は母方の伯父により朝廷に差し出され、乱後、土佐に流罪となりました。
6男・範頼は、平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠近江蒲御厨で密かに養われていました。
7男・全成と8男・義円、9男・義経は母と共に大和に逃れ、全成は醍醐寺にて出家、義円は園城寺にて出家。
当時、今若だった全成は、名を隆超、または隆起と名乗り、ほどなくして全成と改名しました。
醍醐寺にてたくましく成長した全成は、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師と呼ばれていました。(『平治物語』)
悪禅師というと悪いイメージを持ちがちですが、悪いというより、勇猛な、武芸をこととする僧侶、という意味で、荒くれ者というわけではありません。
そして、9男義経は鞍馬寺に預けられ遮那王と名乗っていました。
3人兄弟は母と共に逃げたものの、3人別々に預けられ育ったんですね。
治承4年(1180年)、以仁王の令旨が出されると、全成は密かに寺を抜け出して修行僧に扮して東国に下りました。(『吾妻鏡』)
石橋山の戦いで頼朝が敗走した直後の8月26日に佐々木定綱兄弟と行き合い、相模国高座郡渋谷荘に匿われ、10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面しました。
頼朝のもとに駆けつけた最初の兄弟だったことから、頼朝は泣いて喜んだといいます。
頼朝に合流
合流後、頼朝の信任を得た全成は、武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられました。(『吾妻鏡』治承4年11月19日条)
頼朝の妻である北条政子の妹・阿波局と結婚。
頼朝から駿河国阿野荘(現在の静岡県沼津市)を拝領し、鎌倉幕府の御家人として仕えました。
阿野という苗字は、この地名から付けられたものです。
建久3年(1192年)、頼朝と政子の間に次男の千幡が生まれると、乳母夫になりました。
その後、頼朝が存命中は、吾妻鏡に特に目立った活躍は記されていません。
頼朝の死後
正治元年(1199年)、頼朝が死去。
嫡男の頼家が次の鎌倉殿となりました。
頼朝在職中は、頼朝主体で政が行われていましたが、18歳と年若い頼家主体では心許なく、就任4か月後、幕府の有力御家人13人が集まり、事前に評議した上で頼家の裁決を仰ぐという合議制が始まりました。
しかし、梶原景時が失脚、その後、安達盛長と三浦義澄が亡くなり、合議制は崩壊。
北条と比企による権力争いが激化しました。
比企は、娘・若狭局の産んだ一幡を後継者と主張し、北条は頼朝と政子の次男で、娘の阿波局が乳母を務める千幡(後の実朝)を後継者として望んでいます。
亡き頼朝は源氏の血筋で頼家の正室が産んだ公暁を嫡男と望んだとされていますが、その希望は黙殺されていました。
この争いに千幡の乳母夫である阿野全成も巻き込まれました。
舅である北条時政と結び、千幡擁立に協力した全成は、頼家一派と対立することになったのです。
建仁3年(1203年)5月19日、頼家は、阿野全成に謀反の動きがあるとして武田信光を差し向けました。
全成は謀反人として御所に捕らえられ、25日に常陸国に配流されました。
妻・阿波局も捕らえられそうになりましたが、政子に守られ難を逃れています。
6月23日、頼家の命を受けた八田知家により誅殺。
享年51でした。
7月16日には、全成の3男・阿野頼全(播磨坊頼全)が京都の東山延年寺にて、源仲章により殺害されています。
全成のお墓は、沼津市の大泉寺に嫡男(4男)・時元と並んで建てられています。
このお墓には首を切られた全成の首のみが埋葬されているといいます。
この大泉寺には、首を切られた全成の首が一夜のうちに息子・時元が居た大泉寺に飛んできて、松の枝にかかったという、首掛け松という伝承が残されています。
大泉寺には首掛け松の一部が残されており、切り株の上には記念碑も建てられています。
また、全成が誅殺されたとされる、栃木県芳賀郡益子町上大羽の大六天の森には、阿野全成とその従者のものと伝えられるお墓(五輪塔)が遺されています。
大六天の森と阿野全成のお墓は、『ましこ世間遺産』の№4に認定されています。
阿野全成の子孫
阿野全成には5男2女(頼保、頼高、頼全、時元、道暁、頼成、四条隆仲室、藤原公佐室)がいます。
武家の系統は、嫡男(4男)の時元の系統に受け継がれました。
北条の娘である阿波局が母であるため、4男の時元が嫡男とされています。
北条時政や政子の人力により、父・全成の事件の時は連坐を免れ、駿河国東部の阿野荘に隠棲しました。
3代将軍・実朝が殺害された後、将軍の座を望んで挙兵しましたが、執権・北条義時の命を受けた手勢に討ち取られました。
武家の阿野家は、時元→義継→義泰→愛智頼為→頼基→頼房→頼直と続きます。
しかし、時元の件によってかその後の権勢は振るわず、南北朝時代には記録が途絶えています。
公家の阿野家は全成の娘が嫁した藤原成親の4男・藤原公佐を家祖としています。
藤原公佐が阿野荘の一部を受け継ぎ、子の実直が阿野の姓を名乗ったことから、実直が公家・阿野家の祖とする説もあります。
公家の阿野家は、実直の子・公寛と公仲の二流に分かれましたが、公仲の系列が近代まで続いています。
著名な人物としては、後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇を産んだ阿野廉子、幕末に活躍した国学者の玉松操も阿野家の末流です。
阿野全成を演じる新納慎也さんについて
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で阿野全成役と演じる新納慎也さん。
1975年4月21日生まれ、兵庫県神戸市出身の俳優さんです。
所属はワタナベエンターテインメント。
16歳でスカウトされ、モデルとして芸能界に入りました。
その後、俳優を目指して大阪芸術大学舞台芸術学科演劇コースで学びました。
20歳の時に上京。
1994年から舞台俳優として活動を開始。
三谷幸喜さん、森新太郎さん、栗山民也さん、蜷川幸雄さん、宮本亜門さん、鈴木勝秀さん、鄭義信さん、青井陽治さんなどの演出作品に出演し、厚い信頼を受けています。
近年は、舞台演出も手掛けています。
1997年から2年間は、NHK BS2の『にこにこぷんがやってきた!』ではうたのお兄さんとして出演。
1999年から20年以上、『ラ・カージュ・オ・フォール』で同じ役を演じています。
2000年、ミュージカル『エリザベート』で初代トートダンサー(黒天使)として出演。
2002年、rockミュージカル『GODSPELL』では主役のジーザスで出演。
2003年12月から。本名の新納慎也で活動。
2007年、三谷幸喜作の『恐れを知らぬ川上音二郎一座』に野口精一役で出演。
2008年、テレビ朝日『仮面ライダーキバ』にキング役で出演。
2009年、三谷幸喜作『TALK LIKE SINGING』でオフ・ブロードウェイデビュー。
2015年、Victor Entertainmentよりメジャーデビュー。
2016年、NHK大河ドラマ『真田丸』に豊臣秀次役で出演。
2018年、NHK正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命篇~』に杉田玄白役で出演。
2022年、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に阿野全成役で出演。
島津氏庶流の新納忠元の末裔で、個性的な存在感を持つ新納慎也さんは、「ミュージカル界の異端児」と称されています。
俳優活動の他に、音楽活動や舞台演出家としても精力的に幅広く活動するマルチな才能を持った方です。
最後に
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の阿野全成は、血生臭いドラマの中で、癒し担当としてとても活躍されていました。
最初の登場から何だかよくわからない陰陽術を使ってみせたり、髪を伸ばしている、と言ってジョリジョリと言ってみたり、不思議な人でした。
自分の脅威になりそうな人は罠に嵌めて排除していく血生臭い時代。
ともすれば陰隠滅滅としてもおかしくない時代の物語ですが、登場人物たちがポロっとする言葉だったり行動だったりが面白くて、ドロドロした物語にならずにすんでいるこの作品。
新納慎也さん演じる全成も、緊張緩和担当として、随分和ませていただきました。
宮澤エマさん演じる実衣といつも睦まじく、素敵な御夫婦でした。
第30回「全成の確率」で阿野全成は退場となってしまいます。
頼朝の兄弟の中で、最後まで生き残った全成。
最後は、甥である頼家によって命を失ってしまうのですが、『鎌倉殿の13人』での全成はどこまでも優しく、妻・実衣を思う、ちょっと気弱な、憎めない人物でした。
史実の阿野全成はどんな人だったのでしょう。
斬られた首が一夜のうちに息子のいる大泉寺に飛んできた、という伝承があるくらいなのですから、とっても家族思いの人だったのでしょうかね。