戦乱の世を終わらせ、泰平の世を作り上げた家康。
武勇に優れ、織田信長が恐れていたという説がある長男・信康。
結城政勝の養子になり、信康と同じく勇猛果敢と言われた次男・結城秀康。
3男である秀忠は割と陰に隠れ印象が薄いのですが、実は幼い頃から家督を継ぐという前提で教育を受けてきた人です。
武において、目立った活躍は知られていませんが、政治家としては非常に優れた人と言えます。
始まったばかりの江戸幕府を安定に導いた秀忠の政治を見てみましょう。
2代将軍・秀忠の政治
初代将軍・家康は将軍家の世襲を世に知らしめるため、在位2年という短さで将軍職を秀忠に譲りました。
譲ったものの、政治の中心は駿府城に在住している家康で、秀忠はおもに東国を中心に大名の統制にあたっていました。(大御所政治)
父・家康が駿府で豊臣対策や外交政策をしている間、秀忠は実直に江戸の整備と幕府の体制づくりに励んでいました。
秀忠が行った主な政策というと武家諸法度などの法令整備です。
武家諸法度、禁中並公家諸法度、などを制定しました。家康とともに制定したものですが、発布は秀忠の名で行っています。
さらに、江戸幕府の基盤を強化しました。
1616年、家康が亡くなった後、秀忠は老中に自らの側近である酒井忠世や土井利勝を任命し、尾張・紀伊・水戸に3人の弟を配し御三家を作りました。秀忠の3男・忠長には徳川に縁の深い駿河・遠江・甲斐を与え、徳川体制を強化しています。
その一方で、外様大名の力を削ぐこともしていました。
- 福島正則(広島50万石)
- 田中忠政(筑後柳川32万石)
- 最上義俊(山形57万石)
- 蒲生忠郷(会津若松60万石)
- 松平忠輝(越後高田75万石)
- 本多正純(宇都宮15万5000石)
など、幕府の驚異になりそうな有力大名は様々な理由をつけられて改易の憂き目に遭っています。
本多正純は父・家康の側近として、名の知られた重臣でしたが謀反の疑いがあるとして正純を改易にしています(宇都宮釣天井事件)。
実際には謀反の証拠は見つからず、謀反などは画策されていませんでした。
この一件は正純の栄華を恨みに思った者の讒言であったとも、秀忠が自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていたとも言われています。
改易された大名の数、外様23家、親藩・譜代16家。
改易にはならなくても転封させられた藩も数多くありました。
このような強力な大名統制により徳川家の力をますます強め、幕府の安定を図りました。
朝廷とも密着な関係を築くべく、娘の和子を後水尾天皇に入内させています。
しかし、後水尾天皇が大徳寺と妙心寺の僧に紫衣の許可を与えたことを、禁中並公家諸法度に違反するとして幕府が無効にしたという事件が起こりました。(紫衣事件)
これにより、朝廷でさえも幕府に従う存在である、と印象づけられたのです。
さらに、外交政策として鎖国を進め始めました。
キリスト教を排除するため、オランダなどの外国船の帰港を長崎・平戸に限定させています。
1619年には箱根に関所を設置しました。
江戸と京都を結ぶ主要ルートである東海道の、難関と呼ばれる場所に設置されました。
これは江戸の防衛を目的としています。人質として江戸に住んでいる大名の妻女が密かに江戸を抜け出すことを監視する目的で、「出女」を厳しくチェックしていました。
他にも神居・碓氷・木曽福島など様々な場所に関所は設置され、出女以外に江戸に武器が入ってくる「入鉄砲」の監視もしていました。
1623年、将軍職を嫡男・家光に譲り、秀忠は父・家康と同じく大御所政治を始めました。
当初は家康に倣って小田原城に移り政務を執ることを考えたようですが、結局は江戸城の西の丸に移り、そこで二元政治を行いました。
1632年、秀忠、死去。
家光に対して「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実記』より)との遺言を残しています。
まとめ
2代・秀忠の政治は家康のような革新的なことはありませんでしたが、江戸幕府の基礎をしっかりと作り強固にしていました。
幕府の権力を高め、諸大名の力を削ぎ落とし、法令によって大名や朝廷を統制した政治を秀忠・家光は行ってきました。
1から3代までの間に徳川家の権力を増大させ、政治の仕組みをしっかりと整えたことで徳川幕府は長く続くことになりました。
秀忠にはこんなエピソードがあります。
大阪夏の陣の後のある日に、弟・義直とともに能を観劇している最中に地震が起きました。場内が混乱し場がパニックになりかけた時、秀忠は「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない、下手に動かぬほうが良い」と素早く冷静に判断を下し混乱を回避しました。
いざ、という時の状況判断と統率力には目を見張るものがあったようです。
家康は秀忠のことを「秀忠は律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」と嘆いたと言われています。
これに対し秀忠は「父の嘘を買うものはいくらでもいる。しかし、私の嘘を買うものはいないだろう」と己を分析しています。
まだまだ戦乱の世が続くのであれば武勇に優れた将が必要であったでしょうが、父・家康は天下統一を果たし、戦のない世を作りました。
それであれば、武に優れた将であるよりも、家康の命を実直に守り、優れた政治手腕持った秀忠が2代となることは必然、当然のことだったのでしょう。
2代・秀忠による苛烈とも取れる諸大名の改易と転封は、多くの浪人を出すなどの問題もありましたが、確かに徳川幕府の力を増大させ、徳川に反逆などできないように諸藩の力を弱体化させました。初代に次ぐ2代で幕府を安定させたおかげで、鎌倉幕府や足利幕府のように早く潰えることなく徳川幕府は長く続いていくことになるのです。
次回は、秀忠の跡を継いだ家光の政治について考えてみたいと思います。