尊敬する祖父・家康の遺志を継ぎ江戸幕府の礎を盤石なものとするために家光は奮闘しました。
父・秀忠が遺言で残したとおり、未完成だった武家諸法度を改訂し、より強固な政策を実行しました。そのかいあって、初代から家光までの3代の間に江戸幕府の体制は整えられました。
武力を背景にして諸大名を取り締まる政治、それを「武断政治」と呼んでいます。
秀忠に引き続き、家光が行った政治をみてみましょう。
3代将軍・家光の政治
1623年、2代将軍・秀忠が隠居し20歳の家光が3代将軍となりました。
将軍職を譲られはしましたが、初代と同様に実権は秀忠が握っていました。秀忠は江戸城西の丸に住居を移し、そこで政務を行っていました。
それにより、本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治が行われるようになりました。
職制の確立
1632年、秀忠が亡くなると二元政治は解消され家光の親政が始まりました。
まず家光は、幕府内の体制を整えるため、職制を確立しました。
秀忠の死後も年寄(老中)であった土井利勝・酒井忠勝・酒井忠世を引き続き年寄職に任命しました。家光は、新制度として年寄3人の合議が無ければ将軍への披露を認めないという合議制を確立しようとしていたのですが、これはしばしば政務の渋滞が起こるようになり、政務が滞るようになってしまいました。
1634年、制度を改正し年寄3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)を補佐として配置したのですが、年寄たちが案件を翌月に先送りするようになり、またもや政務の渋滞が起こり、滞るようになりました。
これらのことにより、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみを扱う大老に就任し、秀忠の側近である六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが新たに老中となりました。さらに、政務が滞らないように、各々を監視するような役目も作られるようになり、職制が整備されました。
- 老中-総務総括(常設)大目付・奉行(寺社奉行は除く)などを監察。譜代大名より複数名就任。
- 大目付-老中直属、大名の監察。旗本から複数名就任
- 若年寄-老中の補佐、直参の統率、譜代より複数名就任
- 目付-若年寄の配下・補佐、直参の観察、譜代より10名程度就任
- 側用人-将軍側近、将軍と老中の連絡役
- 寺社奉行-将軍直属、寺社・寺社領の監督、関八州以外の訴訟処理、譜代より就任。三奉行では最上格
- 勘定奉行-老中直属、天領の租税徴収を監督、関八州内での訴訟処理、旗本より就任
- 町奉行-老中直属、江戸の行政・警察・裁判を監掌。旗本より南北2名就任
- 京都所司代-将軍直属、禁中・公家の監察。大阪城代と共に西国大名の監察。譜代より1人就任。
- 遠国奉行-地方直轄主要都市の町奉行。旗本より就任。
家光はこれらを制定し、政務が円滑に進むように幕制を整え、現将軍を最高権力者とする幕府機構を確立させました。その際、将軍を「公方」と称するようになり、王権をほぼ全て掌握する徳川将軍の別称として定着するようになります。
また、秀忠の時にも活発に行われていた諸大名の改易、転封を行い、重要拠点には親藩・譜代大名を配置し、徳川家の支配をさらに盤石なものとしていきました。
初代・家康から家光までに改易された大名は外様大名82家、親藩・譜代大名は49家にも及びました。
幕府は改易・減封によってできた空白地を天領(直轄地)にして領地を増やし、外様大名を遠隔地に転封するなどして強大な幕府権力を確立していったのです。
しかし、武家諸法度違反や末期養子の禁止などによって改易・取り潰された大名家の家臣などが浪人となり社会不安に繋がっていくことになります。
武家諸法度改正・寛永令
1635年には、武家諸法度を改訂し、
- 参勤交代の義務
- 500石以上の大船の建造禁止(商船については1638年に撤回)
- 奉公構の確認(武家が家臣に対して科した刑罰の1つ。旧主の許しがない限り他藩への士官が禁止されるというもの)
など、先の元和令13か条に6か条を追加、19条にして寛永令を発令しています。
1636年には、尊敬する祖父・家康の墓所である日光東照宮を大改装しました。
家光は家康を尊敬しており、神のように崇拝していました。
そのため、家康21回忌の法要の機会に、今のような絢爛豪華な形に改装されました。
1年5ヶ月というスピード工事であるにも関わらず、その出来栄えは神業のように素晴らしいものでした。「寛永の大造替」と呼ばれています。
島原の乱
厳しい大名統制のため、大名たちは疲弊していました。秀忠・家光らによる大名の改易処分のため、藩内には浪人が溢れ、治安の悪化、飢饉などが起こるようになっていました。
農村でも厳しい年貢の取り立てのため、農民は酷使され過重な年貢負担に困窮していました。
九州の島原半島と天草諸島のキリシタン農民が主体となった大規模な一揆が勃発しました。
島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領だったため、キリスト教信仰も盛んだったのですが、キリスト教は幕府に弾圧されていたのです。
1614年、有馬が転封になり、代わりに入った松倉重政が厳しい圧政を強いたため、飢饉や宗教の弾圧などから領民の不満は徐々に溜まり始め、小西行長・加藤忠広の改易等により街に溢れていた浪人や農民が中心となって一揆を起こしたのです(島原の乱)。
天草四郎を総大将に戴いた一揆軍は既に廃城となっていた原城に籠城し、3ヶ月にも及ぶ籠城戦を続けました。しかし、最終的には食料も弾薬も尽きて原城は陥落、一揆軍は幕府軍の総攻撃を受け全滅しました。
その後、島原藩主の松倉勝家は、厳しい年貢の取り立てが一揆を招いたとして改易処分がくだされ、後に斬首となりました。天草を領有していた寺沢堅高も領地を没収されました。
そもそも何故天草が島原の乱と連動したのかというと、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことによりました。寺沢広高は天草の石高を田畑の収穫3万7000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5千石、合計4万2千石と算出していました。
しかし天草の実情はその半分程度しかなかったため、領民に対する年貢の取り立ては厳しいものとなり、一揆が勃発したのです。
島原の乱以降、山崎家治が天草の領主となり富岡藩ができたのですが、山崎の転封により天草は幕府直轄領となり、初代代官として鈴木重成が着任しました。
鈴木重成は検地をやり直し、天草の石高を2万1000石として欲しいと幕府に対して何度も訴えました。しかし幕府は聞く耳を持たず、鈴木重成は江戸の自邸で石高半減の嘆願書を残して切腹、幕府に死をもって抗議をしたのです。領民はたいそう悲しみ、鈴木重成を奉った鈴木神社を建立しました。幕府は重成の懇願を聞き、天草の石高半減を認めました。
鎖国政策
この島原の乱が起こったことにより、幕府はキリスト教が徳川幕府を揺るがす元凶であると確信するのです。
元々1613年にキリスト教の信仰は禁止されていたのですが、今後一切布教活動を行えないようにイベリア半島勢力(スペイン・ポルトガルなど)を排除しました。オランダの貿易は長崎の出島に限定して行われるようになったのです。
秀忠の代に始まった鎖国政策は、家光の代で完成し、以降幕末まで続けられました。
まとめ
秀忠から続く苛烈な大名統制により、幕府の権力は増し、諸大名は幕府に反抗する力を失いました。確かに初代・家康から3代・家光までの政治で幕藩体制は確立し、幕府の力は揺るぎないものとなりました。
しかしその一方で、厳しすぎる大名統制は、農民を疲弊させ不満を募らせ、一揆を起こしかねないと知ることになりました(島原の乱)。
これ以降幕府はこの武断政治を見つめ直し、改革を求められるようになってきます。
次回、武断政治から文治政治へ。江戸幕府の衰退について、に続きたいと思います。