長きに渡る江戸時代を作り上げた初代将軍・徳川家康。
家康が江戸幕府を成立させるまでには長い年月が掛かりました。
幼少期から11年に渡る人質生活を経て、晴れて独立を果たし、岡崎に戻ったものの、まだ若く力のない家康は、有力武将と同盟を結び、自領を守りつつ力をつける必要がありました。
家康はどのようにして力をつけていったのでしょうか。
清洲同盟
今川義元討ち死にの混乱に乗じて岡崎に戻った松平元康(後の徳川家康)。
1561年、東三河における今川の拠点である牛久保城を攻撃し、元康は今川氏からの独立の意思を明確にし、三河における支配権を取り戻すべく諸城を攻撃し始めました。
その頃、織田信長に討たれた義元の跡を継いだ今川氏真は、独立を果たそうとしている元康に対し、「松平蔵人逆臣」「三州錯乱」などとして後々まで憤りを顕にしています。
今川の盟友であった武田や北条は、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎の北条攻め(小田原城の戦い)の対応に追われており、今川に加勢することができませんでした。
その後も元康は今川の同族である吉良氏の東条城を攻め落とし(藤波畷の戦い)、西三河の諸城を攻略していきました。
1562年には、先に織田家と同盟を結んでいた実母・於大の方の兄で元康の伯父にあたる水野信元の仲介により、松平氏にとっては仇敵であった織田信長と同盟を結びました(清洲同盟)。
翌年、1563年には、今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して、名を「家康」と改めました。
1564年には西三河方面で起こった三河一向一揆の勃発に苦しめられましたが、家康はこれの鎮圧に成功しました。その後も三河平定のための戦は続き、1566年までには東三河・奥三河を平定し、三河国統一を果たしました。
これに伴い、家康は軍制を改正しました。西三河の旗頭として石川数正を配置し、東三河の旗頭には酒井忠次を置き、家康直轄の旗本の三備に再編され、旗本には旗本先手役という家康の護衛だけでなく、戦闘にも積極的に参加する部隊を置いたのです。
また、この頃家康は「松平姓」から「徳川姓」に改姓しています。
対等関係から従属関係に
家康の三河平定後、武田や北条、今川との同盟関係がめまぐるしく変わっていくことになります。
まず、今川の娘を正室としていた武田の嫡男・義信が廃嫡されるという事件が起こり、長年同盟関係にあった武田と今川との間に亀裂が入ります(義信事件)。
今川と手切れとなった武田は、今川領への侵攻を開始。織田と婚姻同盟を結び、駿河割譲の条件で徳川にも同盟関係を求めてきました。
このことは今川と同盟関係にある北条氏と武田氏の同盟解消にも繋がりました。
駿河・遠江侵攻で今川領分割の密約を交わしていた徳川に対し、武田が密約を破り遠江に侵攻してきたため、徳川と武田の間の同盟は破棄。家康は、武田からの掛川城攻撃要請に従わずに撤兵させました。さらに、武田が撤兵中の駿府を占領し、北条の仲介を受け、掛川城に籠る今川氏真を無血開城させることに成功しました。これにより徳川は北条と同盟関係を結ぶことになりました。
そして、戦国大名としての今川氏は滅亡。駿河・遠江の支配権は北条氏に移りました。
その後、北条に対し、武田軍による第2次駿河侵攻・第3次駿河侵攻を経て1570年に武田信玄は駿河を完全に支配下においたのです。
当初の清洲同盟は信長と家康は対等関係にありました。
駿河侵攻の際に徳川と武田の間に起こった同盟破棄問題では、武田は織田を通じて家康の懐柔を図っています。しかし、家康は信長の執り成しに応じず武田と手を切っています。
このことから、この頃は信長と家康の同盟は対等関係にあったと言えるでしょう。
織田は、武田との同盟関係を続けていたものの、徳川に配慮して武田と距離を置くようになっていました。織田と徳川は互いの戦闘に援軍を送るなど良好な関係を築いていました。
この頃の信長は足利義昭を奉じて上洛戦を開始していました。しかし、信長と足利義昭との関係が悪化し、義昭が信長包囲網を展開すると、同盟国であったはずの武田も織田領に侵攻を開始しました。
1573年、信長包囲網に参加するべく上洛の途中だった武田軍を迎え撃つべく、家康は三方ヶ原にて武田軍に挑んだのですが、徳川軍は大敗をしてしまいました。
これにより織田と武田の同盟も破棄されることになりました。
武田との三方ヶ原の戦いではで大敗を喫した家康でしたが、武田信玄の死により武田軍が撤退したため勢力を盛り返すことに成功しました。
その後、信玄の跡を継いだ武田勝頼と激しい攻防を繰り返し、勝頼に遠江高天神を奪われましたが、家康は代わりに長篠城を攻略しました。長篠の戦いで織田・徳川連合軍は鉄砲を主力とする戦いで武田軍に壊滅的な打撃を与え、武田方の多くの武将を討ち取りました。
しかし、この頃から信長の勢力拡大は凄まじく、畿内・北国・西国へと統一政策を始めました。するともはや対等な同盟関係ではなく、家康の立場が弱まり従属する関係へと変化していったのです。
1579年、織田信長から正室・築山殿と嫡男・信康が武田に通じているとの嫌疑をかけられ、家康は最愛の息子・信康を切腹させ、築山殿を殺害しました。対等な同盟関係から従属する立場となってしまった家康にはもはや従うことしかできませんでした。
その後、家康は高天神城を奪還し、信長とともに武田領への本格的な侵攻を開始、武田勝頼を自刃に追い詰めました。
1582年3月、勝頼自刃により武田氏は滅亡。家康は信長から駿河を拝領しました。
1582年6月、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀に討ち取られると、堺を遊覧中だった家康は危険を察知し、伊賀国の険しい山道を越え海路で三河国に命からがら戻りました(神君伊賀越え)。
信長の死後、織田の領国となっていた旧武田領(甲斐国・信濃国・上野国)で大量の一揆が勃発しました。相模国の北条が旧武田領へ侵攻し、在郷の木曾義昌や真田昌幸も加わって、大規模な戦乱となりました。
家康も自ら軍勢を率いて攻め入りました。徳川と北条の全面対決かと思われましたが、真田昌幸が徳川に寝返り、執拗なゲリラ戦法で北条を弱らせ、徳川と北条の和睦が成立しました。
家康は、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領する大大名へと駆け上がりました。
織田の後継争い~秀吉への臣従
織田信長と嫡男・織田信忠が明智光秀の謀反(本能寺の変)によって討ち取られてしまいました。その後の山崎の戦いで光秀を討った秀吉は織田家臣内において大きな発言力を持つようになりました。
当主を失った織田家は後継者を決めるための会議(清洲会議)が開かれ、信長の三男・信孝を推す柴田勝家と、嫡男・信忠の子である三法師を推す秀吉の間で対立が起こりました。
賤ヶ岳の戦いが起こり、秀吉は勝家を撃破。勝家は自害し、織田信孝も切腹を申し付けられました。
この戦いに勝利した秀吉は、多くの織田家の旧臣を掌握することになりました。
信長の次男・信雄は北畠家の養嗣子となっており、既に家督を継いでいたのですが、織田の後継を目指し安土城に入城しました。秀吉が推す三法師の後見となりましたが秀吉により安土城を退去させられ秀吉との関係が悪化。家康を頼り秀吉と対抗する姿勢を見せました。
秀吉は、信雄家臣の三家老(津川義冬・岡田重孝・浅井長時)を懐柔し傘下に取り込もうと画策しますが、それを察知した信雄が三家老を処刑。
これをきっかけに小牧・長久手の戦いが始まりました。
半年以上にも及ぶ合戦に次ぐ合戦。双方決定打を欠くなか、秀吉は信雄に伊賀と伊勢半国の割譲を条件に講和を申し入れました。信雄はこれを受け入れ戦線を離脱しました。
これにより家康は大義名分を失い、三河に帰国。後に秀吉から講和の使者が送られ家康もこれを受諾。返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子として大坂に送り出し、こうして小牧・長久手の戦いは終わりました。秀吉と家康が講和するまで2年の月日がかかりました。
信雄・家康方に与していた紀州の雑賀衆・根来衆、四国の長宗我部元親らは信雄・家康がそれぞれ秀吉と講和を結んでしてしまったため孤立し、それぞれ秀吉に制圧され、後に秀吉に従属することになりました。
これにより秀吉政権確立へと進んでいくことになりました。
1585年、秀吉は関白に任命され豊臣政権を確立しました。
この時家康は、相模の北条と同盟していたのですが、北条との同盟条件である上野国沼田の所領を北条に渡すことに対し、沼田を領有している徳川方の真田昌幸が抵抗を示し、上杉氏に帰属してしまいました。家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢で真田昌幸の本城である上田を攻撃したのですが、地の利に勝る真田軍に翻弄され撤退を余儀なくされました(第1次上田合戦)。
10月に秀吉が仲介に入り、家康と真田は和睦。沼田は北条が領有することになりました。
また、この頃の徳川領内では、地震や大雨などの災害に見舞われ深刻な大打撃を被っていました。長く続いた小牧・長久手の戦いによる人手不足で田畑が荒廃し、飢饉に見舞われていました。
このため、家康は領国の立て直しを図らなければならず、豊臣政権との戦いを継続させることが困難になってしまったのです。
さらに、1585年11月13日、石川数正が突如秀吉のもとへ出奔するという事件が起こりました。この頃の徳川家中は、酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正らの融和派に分裂していました。
なぜ、数正が出奔したのか、理由は明らかになっていませんが、これは徳川家にとって大打撃となりました。数正は徳川の軍事機密を知り尽くしており、家康の居城である浜松のこともよく知っています。
家康は機密の漏洩を恐れ、軍制を刷新し武田流に改めたのです。
1586年、臣従を拒み続ける家康に対し秀吉は、懐柔策として実妹の朝日姫を正室として差し出しました。家康がこれを受け入れると、さらに秀吉は生母・大政所を朝日姫の見舞いと称し岡崎に送りました。生母を人質に差し出すことで、家康に配下として上洛するように促したのです。
これを受け家康は上洛し、秀吉に臣従することを表明しました。
豊臣政権晩期
本城を浜松から駿府に移した家康は、軍事力や経済の発展のために尽力することになります。5カ国総検地を行い領地内の把握に努めましたが、その直後に関東に移封を命じられてしまいました。
1590年、小田原征伐において北条氏が降伏し、家康は北条の旧領を受け継ぎ240万石となりました。その代わり領有していた5ヵ国は召し上げられ徳川に縁の深い三河も失う事になってしまいました。
しかし、江戸に移った家康の関東統治は目覚しく、関東は大きく発展を遂げることになりました。
一方の秀吉は天下統一を果たした後、朝鮮出兵を始めました。初めこそ連戦戦勝だったものの、明軍の増援が入ると戦線は膠着し、日本軍、明軍ともに兵糧不足に苦しむことになり休戦となりました。
1593年、実子誕生を諦めていた秀吉と側室・淀殿の間に秀頼が誕生すると、実子を後継にしたい秀吉は、既に養子として後継に指名していた豊臣秀次を謀反の容疑で切腹させてしまいました。
明との交渉も決裂し、再び朝鮮出兵が開始されましたが、秀吉が死亡したため継続できる状況ではなくなり全軍朝鮮より撤退することになりました。
秀吉の死後、政権は嫡男秀頼が継いだのですが、わずか6歳だったため豊臣家臣団は加藤清正・福島正則らの武功派と石田三成・小西行長らの文治派に分裂し、対立が起こりました。
五大老の一人に任命され、内大臣の官位も得て、豊臣政権の代行者となっていた家康は、秀吉が禁じていた大名家同士の婚姻を奥州の伊達政宗らと結び、縁戚関係を広げ他大名との連携を強めていきました。
五奉行である石田三成は家康の勝手な振る舞いに憤り、家康を非難するようになっていきます。
豊臣政権の支えであった前田利家が亡くなると、もはや家康に単独で対抗できる大名はいなくなり、家康は次第に政権を掌握するようになりました。
まとめ
幼少期から11年に渡る人質生活を経て、晴れて独立を果たし、岡崎に戻ったものの、まだ若く力のない家康は、有力武将と同盟を結び、自領を守りつつ力をつける必要がありました。難しい戦国の世を渡り歩くための知恵を振り絞り、時に不本意な事柄でも受け入れ我慢を重ねてきました。
しかし、少しずつ力をつけてきた家康は、武田信玄の死、織田信長の死、そして豊臣秀吉の死でとうとう天下を目指せる位置まで到達したのです。
これからの家康の課題は何だったのでしょう。
そう、長く存続する戦のない泰平の世です。
次回は、泰平の世を目指す家康が最後の障害を排除し、天下取りを目指します。