関ヶ原の戦いを制し、徳川家康は征夷大将軍となり、武家の棟梁として諸大名の頂点に立つことになりました。
江戸幕府も開かれ、日本全土を統治するべく体制を整え始めています。
しかし、気にかかるのは豊臣家の存在です。
他の諸大名は家康に屈しましたが、豊臣家とは緊迫した状態になっていました。
将軍の座を秀忠に譲り、政権を豊臣に返すつもりがないことを明確した家康。
年老いていく家康と成長著しい秀頼。
永きに渡る泰平の世を目指す家康は、江戸幕府存続を脅かす存在、豊臣家を潰しにかかります。
江戸幕府初期
家康62歳の時に征夷大将軍の宣下を受け、自領である江戸に幕府を開き江戸幕府(徳川幕府)が誕生しました。
家康は武家の棟梁となり諸大名たちの頂点に立つことになったのです。
頂点に立ったといえども、豊臣家は健在しており、豊臣方との関係は緊迫していました。
家康は今まで「豊臣政権の五大老」「豊臣政権の代行者」としての立場をとっていました。
しかし、征夷大将軍になってからは豊臣家との間の主従関係が微妙なものに変化してきたのです。
家康は、毎年元旦には諸大名とともに秀頼に対し臣従の礼を尽くし年頭の礼を行っていたのですが、将軍就任後にはこの年頭の礼を止めています。
家康は「豊臣政権の代行者」から「武家の棟梁」としての立場を明確にしようとしていきます。しかし、まだ豊臣を滅ぼすには時期尚早であったのか、豊臣との友好関係をアピールしています。
1603年、秀吉の遺言であった家康の孫娘・千姫と秀頼との婚姻を結びました。同時期に秀吉七回忌として豊国神社臨時祭を行い、豊臣家との友好関係を強調しました。
さらに家康は、幕府としての拠点となる江戸城・江戸城下町を整えるための設計にも取り掛かりました。
江戸幕府は全国の諸大名に命令し、城郭の普請や道路の整備、河川の工事などを行わせました。天下普請と呼ばれています。これは、力がある諸大名に資金と労力を出させ、家康に対抗する力をそぎ落とすための政策でした。
さらに、大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて各城の整備を進めたのです。膳所城・加納城・二条城・伏見城・江戸城・彦根城・駿府城・篠山城・丹波亀山城・名古屋城などの築城と拡張工事を秀吉恩顧の外様大名に普請させ、姫路城・伊賀上野城・桑名城などは家康の命を受けた城主により大規模な拡張工事が行われました。
秀頼のいる大坂城を取り囲むように次々と包囲網が形成されていきました。
さらに、豊臣恩顧の西国諸大名にも警戒していた家康は、姫路城・越後高田城などの重要拠点にあたる城も天下普請で改修させています。
1605年、家康は将軍就任2年という短さで三男の徳川秀忠に将軍職を譲りました。
これは、「将軍職は代々徳川家が世襲するものである」と天下に知らしめるためでした。
秀忠の将軍宣下の儀式は伏見城で行われるため、秀忠は16万という大軍を率いて上洛しました。諸大名は新将軍・秀忠に忠誠を誓いました。
家康は、豊臣秀頼に対し、新将軍・秀忠の将軍就任祝いのために上洛を要請しましたが、秀頼は拒絶。家康は6男・松平忠輝を大坂城に派遣して豊臣との融和に努めています。
1607年、江戸を秀忠に任せ、駿府に拠点を構えた家康は駿府城で政治(大御所政治)を行うことになります。そこで江戸幕府の制度作りに励みました。
1611年、家康・秀忠は二条城にて秀頼と会見をしました。秀頼はこの会見を拒絶する方向だったのですが、織田有楽斎の仲介や生母・淀殿の説得もあり、ついに秀頼は上洛し二条城で家康・秀忠と会見を果たしたのです。この会見は和やかに終わりましたが、これで豊臣氏が徳川に臣従したと明示されました。
また、家康は、在京する西国諸大名22名に対して三カ条の法令を発布して幕府への順守を誓約させ、翌1612年には東北・関東の諸大名にも同様の誓詞を提出させ、大名への統制強化も行っています。
さて、家康は諸大名には天下普請を行わせ、その力を削ぎ落としていきました。
豊臣家に対しては近畿一円の寺院の修理・造営などの事業を任せていました。
そして、方広寺鐘銘事件が起こります。
1614年、完成間近の方広寺大仏殿の落慶供養式が迫ってきた7月。大仏殿の鐘楼に吊るされた釣鐘に書かれた銘文が徳川に対する呪いの言葉であると、家康は言い始めました。
「国家安康」は家康の文字を二つに切り裂く呪い。
「君臣豊楽」は豊臣だけの繁栄を願う言葉。
この二つを口実に家康は豊臣家を討ち果たそうとしていくのです。豊臣家が再び力をつける前に、諸大名が豊臣方に与する前に豊臣家を打ち砕こうとする意図がありました。
大坂冬の陣
この鐘銘問題の弁明のために、大坂から片桐且元が駿府へ向かうのですが、家康は且元とは面会せず、随行した文英清韓を拘束し、且元を大坂へ返しました。且元は家康の怒りを解くため秀頼の大坂城退去・淀殿を江戸に置く・秀頼の江戸参勤、などを淀殿に進言するのですが、淀殿の怒りは凄まじく、次第に且元は裏切り者とのそしりを受けるようになり、大坂城を退去したのでした。
片桐且元は、豊臣の家臣でありながら家康からも領地を拝領しており、家康の家臣でもあったので、且元が豊臣から処分を受けたことは、家康に豊臣を攻撃する口実を与えることになりました。
大坂冬の陣の始まりです。
1614年10月、家康が大坂城討伐令を発令しました。10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発しました。23日には二条城に入り、江戸の秀忠は6万の軍勢を率いて出発しました。幕府方の動員数は20万にも及びました。
動員された諸将の中には豊臣恩顧の者もおり、豊臣方への寝返りを恐れた家康は、福島正則や黒田長政らを江戸城に留め置き、その子供らを大坂に参陣させています。
一方の豊臣方は、旧恩ある大名や浪人に書状を送り、豊臣方に加勢するように要請しています。兵糧の買い入れや大坂にあった諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収し、開戦に備えました。籠城のための武器の買い入れ、総構えの修理・櫓の建築など準備を進めたのです。
豊臣の招集に応じたのは、関ヶ原の戦いで取り潰され徳川への恨みがあった者、豊臣の再起を願う者、一旗揚げようとする者、死に場所を求めている者など様々な思惑を秘めている者たちでした。
その兵力はおよそ10万。明石全登・後藤基次・真田信繁・長宗我部盛親・毛利勝永・塙直之・大谷吉治らが集まりました。名だたる武将が集まったのですが、豊臣軍内の統制が取れておらず指揮系統が確立されていませんでした。
そのため実際の戦闘では混乱の元となっていたのです。
豊臣家宿老の大野治長は籠城策を取ろうと考えていました。大坂城は堅牢強固な城です。二重の堀で囲まれ防御設備も充実していたこの城に立て籠り、徳川軍を疲弊させ豊臣に有利な講和を引きだそうと考えていました。
これに対し、招集に応じた浪人衆である真田信繁は、城を出て畿内を制圧し、西上してくる徳川を迎え撃ちつつ、諸大名を味方に付けるという策を進言していました。諸大名が味方につかない場合は籠城するという二段構えの戦法を主張していました。
結局、大野治長の策が採用され、周辺に砦を築きつつ大坂城に籠城という作戦になりました。
1614年11月9日、大坂城の補給路である木津川口の砦において木津川口の戦いが始まりました。26日には大坂城の北東の守りとなる砦、鴨野・今福の戦い、29日には博労淵、野田・福島の戦い、その全てが徳川軍の勝利となりました。いくつかの砦が陥落すると、30日には豊臣軍は残りの砦を放棄し大阪城籠城の構えを見せました。
家康は豊臣軍が籠城した大坂城を20万の大軍で完全に包囲しました。じわじわと大阪城に接近していく徳川軍。天下一の堅城大坂城に対して家康が用意したのはたくさんの大砲、イギリスの鋼鉄製のカルバリン砲とカルバリン砲以上の射程距離を持つセーカー砲、そしてオランダ製の半カノン砲でした。
籠城した豊臣軍に対し、家康は川の流れを堰止め、諸将に命じて夜三度(酉・戌・寅の刻)鬨の声を上げさせて敵を不眠にして弱らせ、更に大坂城総構えの南方から大砲と鉄砲で昼夜を問わず城に砲弾をあびせ続けました。更に12月16日からは南側だけでなく全軍に一斉砲撃を命じています。
大坂城の南側に陣取った真田信繁は真田丸という出城を築き、徳川軍を翻弄していました。
対峙する徳川軍を挑発して真田丸に引き寄せ、十分に引きつけたところを一斉射撃。徳川軍は甚大な被害を出しました。冬の陣の徳川方の被害の8割は真田丸の攻防で負ったとされています。
家康が用意した外国製の大砲の威力は凄まじく、飛距離も長かったため、この大砲による砲撃が大坂城の本丸に届き御殿に命中、淀殿の侍女8名が死亡しました。このことが淀殿の恐怖心を煽り、豊臣方は家康からの和議の申し入れを受け入れることになりました。
徳川主導で行われた交渉は成立し、20日に誓書が交換され和議が成立しました。
和議の条件は
- 本丸を残し二の丸・三の丸を破壊して惣構えの南堀・西堀・東堀を埋めること。
- 淀殿を人質としない代わりに大野治長・織田有楽斎より人質を出すこと。
- 城中諸士についての不問。
この条件で和議は成立、家康は直ちに堀の埋め立てを開始しました。
松平忠明・本多忠政・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本田正純・成瀬正成・安藤直次の下、功囲軍や地元住民なども動員して外堀を埋め、次いで二の丸・三の丸も埋め立て、大坂城は丸裸にされてしまったのでした。
駿府城に戻った家康は、大砲を大量注文するなど、戦備えを強化しています。
家康に停戦の意志はなかったようでした。
1615年、京都所司代の板倉勝重より駿府に報が届きました。大坂に居る浪人たちよる乱暴狼藉、大坂城の堀の掘り返し、京や伏見への放火の風聞など不穏な情報ばかりが入ってきました。
大野治長はこの噂の誤解を解くために駿府に使者を派遣し、弁明させています。
大野治長の使者との会見で家康は、このまま秀頼が浪人衆を雇っていたのではこれからも良からぬ噂がたつだろうとし、浪人衆の追放か、豊臣家の伊勢か大和への国替えを提案したのです。
家康の提案を持って使者は大坂へ戻りましたが、淀殿はこの提案を受け入れませんでした。
家康の9男・徳川義直の婚儀のためとして名古屋に向かった家康のもとに大野治長の使者が訪れました。使者が豊臣家の移封は辞すると申し出ると、家康は常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」と答え、徳川家と豊臣家は再び交戦状態になりました。
家康は諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じます。
大坂夏の陣の始まりです。
大阪夏の陣
4月22日、二条城で軍議を開いた家康は15万の軍勢を二手に分け、河内路と大和路から大坂に向かうと同時に、道路の整備や途中にある要所の警備を行わせています。さらに、紀伊の浅野長政にも南から大坂を目指すよう指示を出しています。
一方の豊臣方は、集まった浪人たちに金銀を配り、戦準備を進めさせていました。さらに、徳川方に埋め立てられた堀を掘り返しています。
4月26日、家康との大戦を控えて、もはやこれまでとして武器を捨て大坂を退去する者、和議によって解雇された者などがいるため、10万いた豊臣方の軍勢は7万8千に減少していました。
堀を埋められ二の丸や三の丸もなくなってしまった大坂城はもはや籠城もできず、野戦にて徳川軍と戦う他に術がありませんでした。
そのため、兵力を二分させ敵が合流する前に各個撃破するしかありませんでした。
5月6日、後藤基次・毛利勝永・真田信繁らは大和路を進軍してくる部隊を討つために出陣しました。長宗我部盛親・木村重成らは河内路の本隊を迎え撃つために出陣しました。
霧が立ち込める中、到着が遅れた真田・毛利を待たずに後藤隊は戦闘を開始。そのため基次は戦死、後藤隊は壊滅してしまいました。遅れた真田・毛利隊は徳川軍伊達隊の進軍を押しとどめる善戦をしたのですが、河内路を行く徳川本隊との戦闘が敗退との知らせを受けると残兵をまとめて後退しました(道明寺・誉田合戦)。
一方、徳川本隊へと進撃した木村重成・長宗我部盛親・増田森次らの兵は、濃い霧を利用して藤堂高虎隊への奇襲に成功したのですが、徳川軍の援軍の追撃を受け壊滅。
木村重成は井伊直孝隊らと交戦し討死しました(八尾・若江合戦)。
5月6日の戦闘は徳川優位に終わり、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められています。
翌5月7日未明、天王寺・岡山合戦が起こりました。
最後の決戦と覚悟を決めた豊臣軍は、大阪城の南に軍勢を集結、天王寺口と岡山口にかけて迎撃体制を布きました。豊臣3万の兵に対し徳川軍は10万以上。圧倒的な兵力差がありました。
この決戦に臨むにあたり、豊臣方は総大将である秀頼に出馬を願い、全軍の士気を高めようとしていました。
しかし、淀殿ら大坂方の上層部がそれを許さず、結局秀頼の出馬は叶いませんでした。
正午頃に開始された天王寺・岡山合戦。
家康の首一つを狙って討ち死に覚悟で討って出た豊臣方の突撃は凄まじく、徳川方の大名・侍大将に死傷者が出るなど徳川方の被害もありました。
真田隊の激しい攻撃は家康本陣にも及んだと言われています。
それでも、数に勝る徳川軍の攻撃に、ついに豊臣軍は多くの将兵を失って壊滅。
唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により、豊臣軍は大阪城本丸に撤退しました。
堀を埋められた大坂城にもはや成す術はなく、大坂城に火の手が上がり落城。
秀頼や淀殿は毛利勝永に介錯され自刃。
豊臣家は滅亡し、戦乱の時代が終わったのでした。
まとめ
150年にも及ぶ戦国乱世を制し、見事天下統一を成し遂げた家康。
家康が戦国の覇者となり得た要因とは一体何だったのでしょうか。
まず、時勢を読む力があったことでしょうか。名だたる戦国武将たちが群雄割拠する中で政局を見極め潰されることなく頂点まで上り詰めました。
次に、「狸」と言われる程の狡猾な政治手腕があったこと。祖父・清康も父・広忠も家臣の裏切りにあい亡くなるという過去を持っている家康は、自身の命を守るためには狡猾にならざるを得なかったのでしょう。戦国の世を生き抜くために、常に知略を振り絞っていました。
何よりも最大の要因は「忍耐力」がずば抜けていたからでしょう。長きに渡る人質時代を乗り切り、独立を果たした後も機が熟すのを待ち続けました。
とうとう豊臣を倒し、後顧の憂いがなくなった家康は、1616年、大阪夏の陣の1年後に永眠します。
平和の礎を作った家康は75歳(満73歳4ヶ月)で生涯の幕を閉じました。
これから260年に渡る戦のない世が始まります。
次回は、家康が基礎を作り、秀忠が強力にし、家光が完成させたという徳川幕府の仕組みについてです。