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西郷どん。西郷隆盛や大久保利通らが結集した「精忠組」ってどんな組織だったの?

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江戸幕府直轄の学校では、時代が下っても旧態依然の教育を子弟に施していました。

一方、同時期の各藩は、子弟の教育に志高く取り組んでいました。

19世紀半ばになると、各藩の熱心な教育を受けた明敏な者たちを中心として、知の探究や世を憂う情などをきっかけに、組織を結成する動きが盛んになります。

各地で見られたこうした組織の活躍は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。

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来年の大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛も、薩摩藩の下級城下士によって結成された「精忠組」に属していました。

精忠組は、いったいどんな組織だったのでしょうか?

目次

精忠組のなりたち~元々は読書会~

精忠組の結成時期については、正確には分かっていませんが、島津家の有名なお家騒動「お由羅騒動」(嘉永二年、1849年)がきっかけになったと言われています。

島津家では、次期藩主の座を巡って、藩主・島津斉興嫡子の斉彬を推す一派と側室・お由羅の子である久光を推す一派が激しく対立していました。

斉彬の廃嫡を恐れた斉彬派の藩士たちは、久光派の家老たちの殺害計画を立てますが、実行前に露見してしまい、首謀者と目された13名は切腹、関わったとされる50名ほどが遠島や謹慎の処分を受けました。

切腹を命じられた藩士のうちのひとり、赤山靭負は、西郷隆盛の父親が赤山家に出入りしていた縁で、西郷に対して非常に目をかけていました。

また、西郷の盟友・大久保利通の父は遠島に処され、大久保家は困窮の憂き目にあっています。

さらには、西郷や大久保以外にも、処罰の対象となった藩士たちの流れを汲む若者たちが多数いました。

斉彬の藩主就任を望む彼らは、「近思録」を輪読する仲間として、結束を強めていきます。この読書仲間たちが同志になり、数年後には藩にとっても無視できない大きな存在になります。

西郷や大久保以外の主なメンバーには、有馬新七や海江田信義、大山綱良、西郷従道などがいました。

近思録は、9代藩主・島津斉宣と共に、逼迫した藩財政の改革を行おうとするも、斉宣の父親で8代藩主でもあった島津重豪の介入によって、切腹に追い込まれた秩父季保らの愛読書です。近思録党と呼ばれた彼らは、藩内の下級武士たちの間では藩政に殉じたと語り継がれていました。

ちなみに、「精忠組」という名前ですが、これは結成した本人たちが名付けたものではありません。後世に命名された名前です。

藩の公式組織に

島津斉彬の藩主就任は絶望的かと思われましたが、最終的には幕府の介入によって、嘉永四年(1851年)に藩主になることに成功しました。

藩主として鹿児島に入るやいなや、斉彬は殖産興業や富国強兵の策を次々と打ち出します。

精忠組の面々も、斉彬擁立の願いがかない、また、精力的な藩主の姿を見て、喜ばしく思ったことでしょう。

けれども、斉彬は安政五年(1858年)7月、鹿児島在国中に51歳で急死します。

斉彬急逝後、精忠組は「斉彬の遺志を継ぐ」ことを使命とし、国事に関わるようになりました。ここで言う斉彬の遺志とは、「幕府の大老・井伊直弼の弾圧を止めさせ、幕政を改革する」ということを指しています。

精忠組の指導者的立場にあった西郷隆盛が奄美大島に配流されていた時期に、精忠組の藩士たちが過激な動きを見せます。脱藩したうえで他藩の志士と協力し、井伊を襲撃しようとしたのです。

この大胆な企図に藩は驚き、制止をします。精忠組は自重せざるを得ませんでした。

当時の藩主・島津茂久(久光の息子)は、制止され不満がくすぶっている精忠組藩士の脱藩を恐れました。

そこで、安政6年(1859年)11月5日、茂久は、今後の有事の際に斉彬の遺志を継ぎ、朝廷のために尽くす意思があることを精忠組に向けて文書で表し、懐柔しようとしました。

これには、大久保利通をはじめとする精忠組の面々は大変感激したといいます。

以後、精忠組は、藩による公認組織と位置づけられ、藩内での発言権も大きくなりました。

同士討ちによる組織瓦解

1862年4月、藩主の実父であり、実質的な権力を持つ島津久光が1000名ほどの兵とともに上洛をすることになったことがきっかけになり、精忠組は解散することになります。

京都には過激な尊王攘夷派の志士がぞくぞくと集結し、警備を受け持っている所司代の力では、もはや治安の維持が難しい状態になっていました。

そこで朝廷は、京都に入った久光に、町の警備や無法者の取り締まりを命じます。

ところが、精忠組の中でも過激派の有馬新七たちは、尊王攘夷派の志士たちと呼応し、関白や所司代の暗殺をはじめとする討幕運動を計画していました。

朝廷から警備を任された以上、自藩の藩士が暴挙を起こすことはどうしても避けなければなりません。この当時、久光には討幕にまで思いが至っていませんでした。

久光は、何度も過激派の藩士たちに使者(鎮撫使)を送り、思いとどまるよう説得をしました。

有馬らは失望し、藩邸を出て伏見の寺田屋に集まりました。

久光は、最後の鎮撫使として同じ精忠組の藩士8名を選び、寺田屋に向かわせます。説得し、京都の藩邸に連れて帰ることが狙いでしたが、従う意思がない場合は上意打ちもありうると命じました。

説得は上手くいかず、鎮撫使と過激派の間で血なまぐさく壮絶な死闘が始まってしまいます。

死闘の末、7名の過激派藩士が死亡します。生き残った2名の過激派藩士も、翌日には自害をしています。別室に詰めていた過激派藩士は捕まって国許に帰され、謹慎を命じられています。また、鎮撫使側も1名死亡しています。

精忠組は、寺田屋での同士討ちによって瓦解し、終焉を迎えることになったのです。

最後に

2017年8月現在、NHKの公式HPで紹介されている「西郷どん」のキャストを見ると、精忠組に属していた大山綱良や海江田信義も登場することがわかります。

また、西郷隆盛に目をかけていた赤山靱負の名前もあります。

同士討ちによる瓦解という悲劇的な運命をたどった精忠組が、ドラマではどんなふうに描かれるのか、注目したいと思います。

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