NHK大河ドラマ「西郷どん」の第6回「謎の漂流者」に、ジョン万次郎が登場。西郷吉之助との交流が描かれました。
こちらは史実では無く、また林真理子さんの原作にも無いストーリーで、完全な脚本家・中園ミホさんのオリジナルです。
ジョン万次郎は漂流してアメリカに渡り、のち帰国して幕末に活躍しました。ドラマのように、薩摩藩に滞在し藩主・島津斉彬に厚遇され、西洋の知識を伝えたことは史実として残っています。土佐の漁師だった万次郎は、いつどうやってアメリカに渡り、どのような経緯で帰国したのでしょうか?
今回は、波乱万丈なジョン万次郎の生涯をまとめててみました。
少年時代~アメリカに渡るまで
1827年土佐藩の中浜生まれ、漁師の家に生まれました。ちなみに西郷隆盛は1827年生まれ、同年代です。9歳のときに父を亡くし、病弱な兄の代わりに働き一家を支えます。寺子屋に通う余裕が無かったため、日本語の読み書きはできませんでした。
14歳の頃、漁船で炊事・雑事係として働いていました。乗組員は、船頭の筆之丞、筆之丞の弟・重助、もう一人の弟・五右衛門、そして櫓係の寅右衛門、そして万次郎の5人です。
1841年のある日、足摺岬の沖で嵐に巻き込まれ、無人島に流れ着きます。そこは八丈島からさらに300kmも南にある「鳥島」という島でした。万次郎ら5人は洞窟に住んで、溜水や海藻、そしてアホウドリを捕まえて食べ、5ヶ月もの間サバイバルをして生き延びます。
この鳥島には江戸時代の間に、万次郎一行以外にも何人かの日本の漁民が流れ着いています。そのうちの何人かは、自力で船を作るなどして故郷に帰ることができました。
5ヶ月後、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号が植物やウミガメの卵など新鮮な食料を調達するために島に立ち寄ります。5人は救助されましたが、日本は鎖国中で外国の船が近寄ることはできず、故郷に帰ることはできませんでした。
捕鯨船の船長・ホイットフィールドは、5人をハワイで下ろすことにしました。しかし万次郎はアメリカ本土に行くことを決意。船長が受け入れたのは、本人の希望もありましたが、万次郎が賢く、積極的に英語を覚えるなど、乗組員にも馴染んでいたことも大きかったようです。
アメリカでの経験
万次郎は船名にちなんで「ジョン・マン」と呼ばれました。
1842年、万次郎はアメリカ本土の地を踏みます。そして船長の養子として、マサチューセッツ州で暮らします。1842年にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーという学校に入学、英語や数学、航海術などを学びます。
万次郎は熱心に勉強。主席を取るほどの高い学力でした。欧米の進んだ技術や、自由や平等などの思想に触れる一方、極東アジア人に対する人種差別も経験します。
学校を卒業後、3年ほど捕鯨船の副船長として生活します。その後、日本に帰る決意をした万次郎は、ゴールドラッシュに湧くカルフォルニアで財産を作り、かつての仲間に会いにハワイに渡ります。
日本への帰国
漂流した仲間のうち、寅右衛門はハワイ永住を希望、重助は病死していました。筆之丞と五右衛門の2人は、万次郎と共に日本に戻ることに。1850年、上海行きの商船に、購入した小舟「アドベンチャー号」をのせて、ホノルルの地を後にします。
商船が沖縄に近づいたタイミングで小舟に移ります。3人は漕いで進み、沖縄本島の南端に上陸しました。沖縄…当時の琉球は薩摩の支配下にありました。薩摩藩の侍に調べ上げられ、半年後、薩摩に送られます。10年ものアメリカ生活で、万次郎はすっかり日本語を忘れていたそうです。
沖縄に滞在したのはわずか半年でしたが、意外にも沖縄ではジョン万次郎についてよく知られ愛されており、上陸した場所には記念碑もあります。万次郎は半年の間に琉球の言葉を学び、島民と親しくなったそうです。
薩摩藩にやってきた万次郎一行は厚遇され、藩主の島津斉彬自らが海外の情勢などについて質問する場面もありました。万次郎は航海術や造船技術を藩士や大工に伝えました。その後、長崎にある幕府の奉行所などでも尋問を受け、約2年後にやっと故郷に帰ることができました。
幕末~明治での活躍
故郷の土佐藩でも、尋問を受けます。尋問に立ち会った絵師・河田小龍によって、万次郎の漂流から米国生活、日本帰国までの様子が「漂巽紀略全4冊」という本に挿絵付きでまとめられました。
その後、幕府に招聘され江戸に行き、アメリカの事情を老中などに伝えます。職を失うことを恐れたオランダ通詞や保守的な藩から、スパイではないかと疑われ、ペリーとの通訳のメンバーからは外されてしまいました。
開国後は開成学校…後の東京大学で、英語の教授となります。咸臨丸に通訳として乗り込み、さらに普仏戦争視察団として欧州に派遣されるなど、活躍。欧州視察の帰りにアメリカに立ち寄り、恩人のホイットフィールドとの再会も果たすことができました。
晩年
欧州からの帰国後、脳溢血で倒れます。回復しますが、その後は静かに暮らします。優秀な人材であったことから政治の道にも誘われましたが、断って教育者としての道を選んだそうです。
万次郎は口語の通訳は有能でしたが、英語の文章を的確な日本語文に訳すことは苦手だったそうです。そのため、開国後に英語で書かれた本の体系的な知識を日本に導入する際は、あまり能力を発揮することができませんでした。幼い頃から日本語の読み書きを学んでいれば、開国後に違った仕事もしていたかもしれませんね。
そして、1898年(明治31年)に亡くなりました。晩年は英語を忘れてしまい、話すことができなかったそうです。
最後に
貧しい漁師としてその生涯を終えるはずだった万次郎は、漂流から偶然にもアメリカの船に助けられることにより、数奇な運命をたどりました。
しかしそれは、彼の賢さ、勇気によって切り開いた、彼にしか成し得ない人生だったのだと思います。