大河ドラマ「西郷どん」ではジャニーズの風間俊介さんが演じる橋本左内。
鈴木亮平さん演じる主人公・西郷隆盛が同輩の中で誰よりも尊敬する存在であったと残しています。
西南戦争で西郷が自刃する際に携帯していた革文庫の中に、橋本左内から西郷に当てた手紙が入っていたといいます。
最後の瞬間まで大事にしていた橋本左内の手紙。
彼らの絆はどれほど深かったのでしょうか?
越前福井の若き天才は、安政の大獄で26歳という若さで散っていきます。
橋本左内の26年の短い生涯を考えてみましょう。
橋本左内の生涯
橋本左内は1834年4月19日、越前国で橋本長綱と小林静境の娘との間に嫡男として生まれました。諱を綱紀、字は伯鋼、号は景岳または黎園と称しています。
父の橋本長綱は越前福井藩の藩医をしており、家は代々藩医を務めていました。
家系は足利氏の連枝・桃井氏の後胤でしたが、祖先が桃井より橋本姓に改姓し、それ以来橋本姓を名乗っています。
始め福井藩の学塾で吉田東篁に学びました。秀才の誉れ高い左内ですが、幼い頃は自分に自信がなく、自分のことを
自分は何をしてもおろそかで、注意が行き届かず、しかも弱々しくてぬるい性格であるため、いくら勉強しても進歩がないように思う。これではとても父母の思いに応え、藩や主君のお役に立ち、祖先の名を輝かすような人間になれるはずもない。一体自分はどうしてこんなに駄目なんだろう。そう思うと情けなくてたまらず、毎晩涙で布団を濡らした…
と語っていました。
このような自分を恥じ、左内は15才の時に自己を律する行動指針として「啓発録」を書き上げました。
啓発録の内容
橋本左内が15才の時に情けない自分を奮い立たせるために、その決意を記すために書き上げた「啓発録」。
その内容は、5条からなるテーマで構成されています。
稚心(ちしん)を去る
稚心を去るとは、子供じみた心のことを指し、遊んでばかりで勉強や稽古事をおろそかにしてはいけない。
いつまでも父母に甘えるなどの「稚心」を抱いてはならない、ということです。
気を振るう
気を振るう、とは、決して人に負けまいと思う心のことです。努力をしないで負けることは恥であり、常に油断なく頑張る気持ちを持たなければならない。
常に、気を奮い立たせることが大切であり、そのような心構えでいることが重要である、と書かれています。
志を立つ
志を立つとは、高い目標を持ち、常に自分を省みて自分に不足しているところを努力することが大切。
目標を掲げ、地道に努力していけば、どんな人でも必ず成長する、ということです。
学に勉む
学を勉むとは、習うということ。
優れた人物の立派な行いを習い、自らもそれを実行し続けることが重要であり、自己の力を出し尽くし目標達成まで努力し続ける、ということです。
交友を択ぶ
交友を択ぶとは、良い友達を選ぶことが重要であるということ。
損友(悪い友)はすぐに心安くなるが、平時において自分の道徳を補い高め合うことはなく、非常時には自分を助けてはくれない。損友には、自分の修めた道徳で正しい道に導くことが友としての道。
益友(良い友)は、なかなか気づきにくく、とかく気を遣うものであるが、自分の間違っていることを指摘し、厳しく批判してくれるからこそ自分の気付かない落ち度や欠点を補うことができる。そのような友を大切にしたほうがいい、ということが書かれています。
適塾(適々斎塾)
啓発録を書き上げた翌年、1849年、16歳の橋本左内は大阪に渡り、適塾で医者の緒方洪庵や杉田成卿に蘭学や蘭方医学を学びました。
この適塾は、福沢諭吉や大村益次郎など多くの人材を輩出しています。
緒方洪庵は天然痘治癒に大きな貢献を果たしたことで知られています。
ここでの左内は非常に優秀な生徒で、師の洪庵から「他日、塾名を上げる者は左内、彼は池中の蛟竜である」と言われるほどでした。
左内は夜中に塾を抜け出し、天満橋の下で暮らす貧しい人々に無償で治療を施していました。
夜中にこそこそ出かけていく左内に対し、塾頭であった福沢諭吉は、女でもできたのかと思って、左内の後を付けてみたら、貧しい人々を診療していたので、福沢は反省し、左内のことをますます尊敬するようになった、という話があります。
この頃、水戸藩の藤田東湖や小浜藩儒学者の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠などとも交流を深めています。
1852年、19歳の時に父・長綱が亡くなり、福井に戻りました。そこで父の跡を継ぎ藩医となりました。
しかし、学問への探究心が止まず、1854年、21歳の時に藩に江戸遊学の許可を得て、医学以外の西洋の学問などを広く学ぶこととなりました。
坪井信良、杉田成卿、戸塚静海の下で蘭学を学び、塩谷宕陰に漢学を学びました。
1855年、左内は藩から帰国を命じられ、「医員を免じて士分に列す」との藩命がくだされました。
この藩命は左内が渇望していたものでした。適塾での経験から、左内は国事に関心を持つようになっていたのです。
しかし、母・梅尾は代々医業を伝えてきた先祖に対して申し訳ないと、左内が医業から離れることに強硬に反対しました。
左内は、母の反対にあいながら、弟・綱常を医師にすることで母の怒りを和らげました。
この、異例の抜擢には福井藩主・松平春嶽の側近であった鈴木主税の推挙が大きかったといいます。
ある時、主税が親交のあった水戸藩の藤田東湖に「わが藩は人材が乏しい」とこぼしたところ、「左内がいるではないか」と言われ、主税は左内の聡明さを知り、登用を取り計らったのです。
左内は福井藩の御書院番に抜擢され、藩政に深く関わるようになりました。
翌1856年、23歳で福井藩の藩校「明道館」の学監同様心得に任じられ、教育改革に取り組みました。
明道館の蘭学係になり、洋書習学所を開き、積極的に西洋の学問や技術を取り入れることとなりました。
1857年、24歳で聡明だった左内は藩主・春嶽の目にとまり近侍となり江戸に上がりました。そこで左内は中根雪江と協力し、春嶽の手足として条約問題や将軍後継問題に取り組むことになりました。
将軍後継問題~西郷隆盛との出会い
左内と西郷隆盛のとの出会いは1855年、江戸、水戸藩士原田八兵衛の屋敷という説と、江戸の薩摩藩邸であったとの説があります。
薩摩藩邸では、相撲をとることに夢中になっていて左内が訪ねてきたことに気付かない西郷に、危機感が足りないと左内は皮肉を言ったとされています。
西郷は、7つも年下で、やせ型、やや神経質そうな左内のことを初めは馬鹿にしたような態度を取ったといいます。しかし、話してみるとしっかりとしていることが分かり、翌朝には左内に謝罪をしに行きました。
左内の方も、期待を持って西郷に会いに行ったものの、血気盛んなだけの若者にしか見えず、たいそうがっかりしたと残しています。
越前福井藩藩主・松平春嶽は病弱で後継を望めない13代将軍・家定の後継として御三卿の1つで聡明と名高い一橋慶喜を推していました。
これまでの幕府体制において、徳川の譜代大名以外が幕政に関わることはありませんでした。
しかし、老中首座・阿部正弘が列強諸国からの開国要求に諸藩の意見を求めたことにより、外様からの幕政参加が可能となったのです。
この幕政改革に賛同したのが親藩である徳川斉昭、ご家門である越前福井藩の松平春嶽、外様の薩摩藩・島津斉彬、伊予宇和島藩・伊達宗城らでした。
当時の将軍は13代・徳川家定。
就任当時から病弱で、実の父・家慶からも将軍としての器を心配されていた人物です。さらに病弱のため後継を望むこともできないとされていたました。
将軍に実子のない場合、御三家や御三卿から選出するのが慣例となっていました。この当時、それに該当する人物は2人。
紀州藩主・徳川慶福と一橋慶喜。このどちらを支持するかによって南紀派と一橋派と呼ばれるようになり、幕政を二分するような政争となったのです。
南紀派が主張する慶福は血統的には家定の従弟にあたり申し分ありません。しかしまだ10代前半という若年のため、この時代の将軍としてはなんとも頼りない。
一橋派が推す慶喜は、血統的には慶福よりもはるかに遠かったのですが、能力的には英邁と言われる慶喜の方が、将軍としてはふさわしいとされていました。
南紀派の中心人物としては、
- 彦根藩主・井伊直弼
- 会津藩主・松平容保
- 讃岐高松藩主・松平頼胤
- 信濃上田藩主・松平忠固
- 紀州藩附家老・水野忠央
などがいました。
一方一橋派の中心人物は、
- 水戸藩前藩主・徳川斉昭
- 水戸藩主・徳川慶篤
- 越前福井藩主・松平春嶽
- 尾張徳川家藩主・徳川慶勝
- 薩摩藩主・島津斉彬
- 伊予宇和島藩主・伊達宗城
- 土佐藩主・山内容堂
などでした。
左内は一橋慶喜の将軍就任のため、薩摩藩の西郷隆盛と協力し、春嶽の手足として奔走することになりました。
左内は、春嶽の命を受け各大名家の家臣たちを説いて回りました。西郷とも度々協議し、家定夫人である天璋院(篤姫)を通じて大奥工作に奔走しました。
土佐藩・山内容堂から紹介状をもらい、朝廷の有力者を歴訪し、入説して回りました。
左内の構想は、英邁な一橋慶喜を将軍とし、その下で幕藩体制を維持したまま西洋の技術を導入して列強に対抗する、というものでした。
江戸遊学時代に神奈川で黒船を実際に見ていた左内は、攘夷は難しいと考えており、開国派になっていたのです。
安政の大獄
朝廷への工作にも手応えを感じ、勝利を確信した左内でしたが、1858年、井伊直弼が大老に就任した事で一変してしまいました。
14代将軍には13歳であった徳川慶福(家茂)に決まったのです。
また、幕府が日米修好通商条約を朝廷の勅許なしに締結したことに対し、「不敬である」として徳川斉昭や松平春嶽、徳川慶勝らは井伊直弼に抗議をするために江戸城に登城しました。しかしこれは、幕府の定めに反する行いでした。
井伊直弼は、この定めを破ったとして斉昭や春嶽らに隠居・謹慎の処分を言い渡し、政治の舞台から引きずり下ろしたのです。
さらに、朝廷から水戸藩に「戊午の密勅」と呼ばれる密命が下ったため、それを知った直弼は戊午の密勅に関わったものを処罰することになったのです。
安政の大獄が始まりました。
1858年、左内は将軍後継問題に介入したことを咎められ、尋問されることとなりました。
翌1859年、小塚原刑場にて左内は斬首され、26年の短い生涯を閉じたのでした。
最後に
二十六年 夢の如く過ぐ
平昔を顧思すれば感ますます多し
天祥の大節 嘗て心折す
土室なほ吟ず 正気の歌
橋本左内の辞世の句です。
刑場で左内は、介錯の刃が上がった時、両手で顔を抑えて泣いた、といいます。
国難を憂い、奔走した人生、26年という余りにも短い生涯、どれほどの無念があったでしょうか。
左内の死を知った西郷の嘆きはたいへん深かったといいます。
志半ばで若くして亡くなった橋本左内。
彼の故郷福井の中学校では立志式を行い、左内の啓発録に習って将来の決意や目標を明らかにし、大人になる自覚を深めているそうです。
道半ばで倒れてしまった左内ですが、彼の高潔な精神は福井の人々にしっかりと引き継がれているようです。