大河ドラマ「西郷どん」で又吉直樹さんが演じる徳川家定が、カラスに挨拶する様子や米国公使ハリスに「幾久しく友好を保ちたいと大統領に申し述べるべし!」を5回も繰り返した姿が描かれていました。
後の世の人からは「暗愚(あんぐう)」とか「変人」などと言われた徳川家定の生涯と3人目の妻・篤姫との仲についてまとめてみました。
徳川家定の生涯
お菓子作りが大好きで「イモ公方」と越前福井藩主・松平春嶽からも呼ばれていたと伝えられる徳川家定、饅頭やカステラまで作って家臣にも食べさせていました。
その優しい性格の徳川家定の生涯は、可哀想なほど大名や幕臣たちの思惑に翻弄され続けた一生でした。
徳川家慶の4男として1824年に母・本寿院から江戸城内で生まれた徳川家定は、家慶の子供の中では唯一成人するまで生き残った子供だったのです。
しかし、幼少の頃に患った天然痘が原因で顔にあばたが残り、人前に出るのを極端に嫌がったと伝えられています。
また、そんな性格が災いして12代将軍家慶の跡継ぎとなる時にも、父・家慶はそんな家定に躊躇を示し一橋家の徳川慶喜を押す動きもあったと言います。
しかし、幕府の重鎮たちがそれを止めて、血筋が保たれる家定を推挙し世継ぎに決まったという経緯もあります。
そこには将来、才気あふれ優秀な徳川慶喜が将軍職に就くと自分たち重役の立場が危ぶまれるという思惑があったのかも知れません。
思い通りにコントロールできる家定の方が処しやすいと考えたようです。
そして、歴史はその通りに動いてゆきました。
黒船でペリーが浦賀沖に現れて開国を迫り、ハリスが通商を求めて江戸城にいる将軍を訪ねた時も家定は教えられたとおりに「幾久しく友好を保ちたいと大統領に申し述べるべし!」と返答しているのです。
ただし、生涯で一度だけ家定は自分の意思を貫いたことがあります。
それは、将軍を退く際に自分の後継ぎに紀州藩主の徳川慶福を将軍継嗣に据え、反対する一橋派の諸大名を処罰したことです。
安政の大獄と呼ばれる幕府の粛正は、大老の井伊直弼の裁断との説もありますが、慶福(後の家茂)への将軍継承には家定の意思も影響していると言われています。
しかし驚くなかれ、家定がその意思を表明したその理由は、「慶喜が自分より美男子だから」だったのです。
安政の大獄が始まるとすぐに35歳の若さで家定は病気で亡くなります。
将軍職にいた期間は5年。
短く哀れな生涯だったとも言えます。
徳川家定の人柄や趣味は?
「癇癪(かんしゃく)持ち」とか「うつけ」などと酷評される徳川家定ですが、それは歴史上勝者となった者たちが後に言っていることです。
自分で考えたものかどうかは別にして、家定がハリスに伝えた開国の判断は間違っていなかったと歴史が証明しています。
もしかすると国の大局を正しく見極める能力を備えた偉大な将軍だったのかも知れません。
趣味が饅頭・カステラなどのお菓子作りで煮豆が得意だったとされる家定にとって、料理に打ち込む時間がきっと一番幸せだったのではないかと想像します。
カラスがお友達なのは嘘だとしても、庭にやって来る鳥や動物たちと親しむ優しい趣味は人柄を映し出すものです。
篤姫との仲は?
薩摩藩主・島津斉彬の推挙によって迎えられた家定の3番目の正妻・篤姫との結婚生活は仲睦まじいものだったとする説があります。
一方、ペリー来航によって当時窮地に立っていた幕府の将軍として悩む日々が多くて会うこともあまりなかったとする説もあり真実は定かではありません。
大河ドラマでは北川景子が演じる篤姫が本当の家定を知る良き理解者として描かれていましたが、実際はどうだったのでしょう。
輿入れしてから家定が亡くなるまでの結婚生活は1年9ヶ月。
二人の仲が短くても幸福なものであって欲しいと思う次第です。
又吉直樹さんの演技は?
徳川家定を演じている又吉直樹さんに絶妙だとの評価があります。
家定の世評に沿った完璧な「うつけ」の演技に妥協が無いとの評判が立っているのです。
2008年に同じ大河ドラマ「篤姫」で家定を演じた堺雅人も好評でしたが、どこか世評とは違う聡明さを隠しているような演技に違和感を覚えたドラマファンも多くいました。
ところが、又吉の家定は篤姫の前でも暗寓な姿を全面的に出してちっとも憚(はばか)りません。
それは一橋派の斉彬が送り込んだスパイだと篤姫を疑っていたからでしょうか?
しかしそれでも、篤姫はそれを芝居だと見破り家定を敬い続けるのです。
とにかく又吉直樹さんの家定は癖のない演技でファンを楽しませてくれています。
最後に
徳川家定の生涯は時代に翻弄されて、趣味のお菓子作りにしか幸福を見いだせない寂しいものだったのですが、篤姫との結婚生活は短くても傷ついた心を癒してくれるものであったと思いたいですね。
「西郷どん」では短い登場期間ですが、又吉直樹さんの演技にも期待しましょう。