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西郷どん。有村俊斎(海江田信義)の生涯と功罪!高橋光臣さんの演技に注目。

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大河ドラマ「西郷どん」で西郷吉之助と同郷の有村俊斎は明治維新の志士として活躍が描かれています。

しかし、後の西郷隆盛や大久保利通のような大きな出世や名声はありません。

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どうしてなのでしょうか?

「西郷どん」では有村俊斎の生涯と功罪がどのように描かれてゆくのかを予想してみました。

目次

有村俊斎の生涯

歴史上の有村俊才の生い立ちからの生涯を簡単に説明してみますと次のようになります。

生い立ち

1832年に薩摩藩士・有村仁左衛門兼善(ありむらにざえもんかねよし)の次男として生まれた俊斎は11歳で薩摩藩主・島津斉興の茶坊主となります。

俊斎は剣術に優れた武家の子だったようです。

精忠組

俊斎が後に西郷吉之助や大久保正助との出会うのは「精忠組」結成に加わったことがきっかけです。

本来「精忠組」は朱子学の「近思録」を輪読する会でしたが、当時の幕府の政治や国のあり方を考える集会に変わってゆきます。

そして、俊斎は西郷よりも早く尊王論の盛んな水戸藩の藤田東湖に師事しています。

開国を進める井伊大老の政策に強い危惧を持った有村俊斎の兄弟・有村次左衛門ら尊王攘夷派の志士たちは、安政の大獄をきっかけに井伊直弼を暗殺しその後自害します。

又、直ぐ下の弟・雄助も暗殺に関わった水戸藩士と行動を共にした罪で薩摩藩内において切腹されられたのです

しかし、有村俊斎はこの時、西郷吉之助と共に月照を薩摩に逃がすため奔走し帰国したため、藩主から行動を慎めと諫められて、それに従っていたことから難を逃れます。

西郷隆盛のことを久光に讒言

弟たちが関わって命を落とした桜田門外の変から1年後、有村俊斎は安政の大獄で獄死した日下部伊三治の次女・まつの婿養子となって海江田武次信義と名前を替えて日下部家を相続します。

実は日下部家を継ぐ予定だったのは弟の有村次左衛門でしたが亡くなったので俊斎が代わりに継いだのです。

俊斎は幕府から目を付けられた有村の名前を替えたかったのかも知れませんね。

しかしその後も自身、有村俊斎の名前も使っていたこともありこの記事では有村俊斎と記します。

翌年の1862年には公武合体を提言するため上洛する島津久光の警護役として同行します。

その道中で俊斎は西郷吉之助が志士を煽動し討幕運動をしていると久光へ間違った報告をします。

そのため西郷は久光により徳之島に流されてしまいます。

単なる情報の誤りなのでしょうか?

もしかすると俊斎はそれまで「精忠組」の同志として運命を共にしてきた西郷の活躍を妬んでいたのかも知れませんね。

生麦事件

1862年9月島津久光が上洛の後、帰り路で歴史に残る大事件が起こります。

久光の大名行列の前を横切ったイギリス人商人・チャールス・リチャードソンが斬られるという生麦事件です。

その瀕死のリチャードソンにトドメを刺したのが俊斎です。

警護役として久光に付き添っていた俊斎の立場からするとこれは当然の仕事だったのかも知れません。

籠の中から久光の指示があったとも伝えられています。

1929年に刊行された「薩藩海軍史」には、最初に斬り付けたのは奈良原喜左衛門で、鉄砲隊の久木村治休が追い打ちで斬り、有村俊斎は「もはや助からないであろう」と介錯のつもりでトドメを刺したとあります。

ちょっとその話にはムリがある様にも感じますね。

大村益次郎殺害容疑

戊辰戦争で新政府軍の先鋒隊の参謀だった有村俊斎は、長州藩兵を率いる大村益次郎とはたびたび意見が対立していました。

なかでも上野戦争における作戦では、彰義隊の武力殲滅(ぶりょくせんめつ)に慎重な有村俊斎でした。

これに対し大村益次郎は三方から取り囲み相手の退路を1つにして逃げる敵兵を総攻撃する「皆殺し」作戦を主張します。

その作戦の要所に配置したのは薩摩軍。

これでは、死に物狂いになった彰義隊によって味方にも犠牲者が出ることが容易に予想できます。

有村俊斎の口から大村益次郎を「殺してやりたい」の言葉が洩れたのはこの時の事です。

結果は大村益次郎が想定していた通りの展開となって彰義隊はほぼ全滅状態になりましたが、かえってそれが大村益次郎への根深い憎悪となってゆきます。

1869年明治政府の洋式軍政改革に反対する元長州藩士の団伸二郎・神代直人(こうじろ なおと)が改革を先導する大村益次郎を京都で襲撃します。

大村益次郎はその時の怪我が元でその年の内に死亡します。

この事件で有村俊斎が裏で画策していたのではないかと疑られ取り調べを受けて謹慎処分が下されます。

その理由は、

  • 有村俊斎が襲撃犯人の神代直人と親しくしていた。
  • 弾正台(監察)としての権限を行使して捕縛された犯人らの刑の執行を差し止めた。
  • 大村益次郎を「殺してやりたい」と言ったことがある。

などです。

有村俊斎は根に持つ怖いタイプの人だったのかも知れません。

晩年の有村俊斎

謹慎処分から半年で、大久保利通が動いて有村俊斎は奈良県知事として政治に復帰しますが、手続きをきちんと踏まずに行政を執行したという理由により僅か1年で解任させられます。

これは有村俊斎が政府の中枢に多数いた長州出身者に嫌われていた表れでもありました。

故郷の薩摩に帰った俊斎は、新政府に不満をもつ薩摩の最高権力者・島津久光に求められて新政府との意見調整役に就きます。

その後、西郷隆盛や大久保利通が亡くなった後も貴族院議員にもなって、有村俊斎は75歳の人生を全うしたのです。

有村俊斎の功罪

これまで記したように有村俊斎が成した罪の方はいくつも挙げられるのですが、一方唯一最大の功績は明治政府創設後に不満募らせていた島津久光と新政府の対立を巧く調停したということです。

九州では官軍ながら恩賞にあずかることなく碌のない士族になって生活に苦しむ元武士があちこちで乱を起こしていました。

それを結集したのが征韓論であり西南の役だったわけですが、いずれも敗北に終わり九州が意気消沈している中で時代を読み切れていなかったのが元気な島津久光です。

新政府に対し14か条からなる意見書を提出しすこしも新政府に協力する構えなどありません。

対応に苦慮した新政府は久光から指名された有村俊斎を通してしか交渉が出来ず、俊斎を頼みの綱にするしかなかったのです。

その重責を背負いながら久光のメンツを守りかつ平和解決を望む新政府の意向を踏まえて、久光の上京による両者の会談の機会を設けたのは有村俊斎の功績と言えるでしょう。

これによって明治維新は本当の意味で終結することになるのです。

薩長同盟によって維新の口火を切ったのが西郷隆盛ならば、維新を完結させたのは有村俊斎だったのです。

高橋光臣さんの有村俊斎の演技は?

現在のところ「西郷どん」では有村俊斎は後に語られるような目立った登場の仕方はされていません。

水戸藩の江戸屋敷や月照と西郷の薩摩への逃亡シーンでは存在がハッキリ分りましたがそれ以外ではさほど印象に残る場面ではありませんでした。

有村俊斎役の高橋光臣さんが演技力を発揮するのはこれからのことでしょう。

もともと高橋光臣さんが演じる役柄には何かしら謎を感じさせる配役が多いのです。

昨年2017年の「ブラックリベンジ」での嘘のスキャンダルで自殺した代議士・寺田圭吾役でも妻の今宮沙織の妹・石山綾子と関係を持っていたという衝撃の場面があったのです。

「小さな巨人」でも警視庁捜査2課長松岡航平役で秘密裏に捜査を指示していました。

そんなイメージのある高橋光臣さんは、表面(おもてずら)とは裏腹な一癖もふた癖もある有村俊斎の役にはぴったりと言えるのではないでしょうか。

最後に

歴史の表舞台には出ずに有力者に近づき意を叶えようとする有村俊斎の生涯には子供の頃に薩摩藩主・島津斉興の茶坊主になって大人の世界の裏側を見てしまった影響がある様に思えます。

ですから西郷隆盛の様な一途な生き方は出来なかったのでしょう。

島津斉彬が亡くなり久光が実権を握った薩摩藩で有村俊斎を演じる高橋光臣さんの出演場面が注目されてきます。


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