桜田門外の変に続き、坂下門外の変が起こり、幕府の権威は下落するばかりでした。
水戸藩を始めとする尊攘過激派の動きはますます活発になり、京には攘夷志士を名乗る荒くれ者が街を跋扈するようになってきました。
そこでついに薩摩藩主の父・島津久光が兵を率いて上洛する決意を固めたのです。
寺田屋事件経緯~薩摩藩の動き
1858年に島津斉彬が亡くなると、斉彬の遺言により弟・久光の実子である忠徳が薩摩藩12代藩主となりました。
しかし、若年であったため祖父の斉興が後見につき実権を握り、斉興が死去すると実父である久光が後見につき藩政を掌握することとなりました。
藩政の中心になると久光は、大久保正助(大久保利通)や小松帯刀、中山中左衛門、税所騎三左衛門(税所篤)、伊地知貞馨(堀中左衛門)、岩下方平、有村俊斎(海江田信義)、吉井仁左衛門(吉井友実)などが所属する精忠組の下級藩士を重用するようになりました。
精忠組とは
精忠組とは、大久保利通や西郷隆盛らが中心となって朱子学の教本である「近思録」を読む読書サークルのようなものでした。
近思録は、14章からなる朱子学の入門書です。江戸時代の後期には各地の儒学塾で講義されました。
西郷たちは、尊敬する秩父太郎の愛読書である「近思録」を研究することで、秩父のような武士になることを目指し、人間形成に努めるようになりました。
この「近思録」という本は、西郷隆盛らが生まれる20年も前のこと、薩摩藩で起こったお家騒動に大きく関わりのある本です。
薩摩藩お家騒動 – 近思録崩れ
前藩主である薩摩藩8代藩主・島津重豪と9代藩主である島津斉宣の実権を巡る争いが始まりました。
前藩主・重豪の放漫財政により財政難に陥った薩摩藩。
9代藩主となった斉宣は、秩父季保(太郎)を家老として登用し、財政改革を断行しました。
しかし、それが重豪の怒りを買い、秩父ら財政改革推進派は切腹させられる事件が起こりました。
秩父は城下に聞こえた気骨のある人物で、「近思録」を愛読し、研究していました。
秩父らは「近思録派」と呼ばれるようになっていました。
斉宣は「近思録派」を重用し、隠居して尚、力を持っていた父・島津重豪に対抗しようとしていました。
しかし、重豪は斉宣の藩政改革に激怒し、近思録派やその一族など77名を大量処分しました。
さらに、斉宣を廃し、孫である島津斉興を10代藩主に据えました。
改革が失敗し大量処分者が出たそのお家騒動が「近思録崩れ」です。
お家騒動 – お由羅騒動
その後もう一つ、「お由羅騒動」(高崎崩れ)と呼ばれるお家騒動が起こりました。
側室お由羅の方が息子・久光を藩主の座に付けようと画策し、正室の子である斉彬を廃嫡しようとしたことがきっかけとなりました。
斉彬の子が次々と亡くなり、それが側室お由羅の方の呪いであると考えた斉彬派の近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門らがお由羅の方を暗殺しようとし、失敗した事件です。
このお家騒動により、斉彬派50名が処分され、大久保正助の父は遠島となり正助も免職処分を受け、謹慎になるなど、影響を受けてしまいました。
このお家騒動では、老中・安部正弘の働きかけで将軍・徳川家慶が介入し、斉興を隠居させ、斉彬が藩主となりました。
この騒動で斉彬派であった西郷や大久保らが集まり、結成されたのが精忠組です。
彼らは、精忠組と名乗ったことはなく、「精忠組」は、後年に命名された名前なのです。
西郷や大久保が「近思録」を研究する勉強会を開くことになったのは、藩政改革を目指しながらも志半ばで倒れた秩父太郎を尊敬し、彼の持っていた高い志に近づいたいという願望があったからです。
この勉強会において、若い下級藩士が集うようになり、やがて志の高い藩士たちが育ち、薩摩藩の中心となる人物たちが輩出されるようになるのです。
将軍後継問題に敗北
11代藩主となった斉彬に重用された精忠組は、斉彬へ忠誠を尽くし、斉彬亡き後は斉彬の遺志を継ぎ、日本の改革を目指すようになりました。
精忠組の中心であった西郷は、斉彬に見出され側近として江戸で斉彬の手足となって活躍していました。
14代将軍に一橋慶喜を据えるため、奮闘していましたが、1858年4月に井伊直弼が大老に就任し、南紀派が推していた紀州の徳川慶福(家茂)が14代将軍となると、一橋派は粛清を受けることとなり、西郷にも危険が及び始め、西郷は僧・月照とともに薩摩に逃れることになりました。
代替わりした薩摩藩内では、幕府に狙われている月照の扱いに困り、西郷に「日向送り」(実質の死刑)を命じました。
月照を殺すことができなかった西郷は、1858年11月16日、月照と一緒に入水することを選びました。
久光の上洛計画
西郷が僧・月照と入水し、助けられた後に、奄美大島での蟄居を命じられ失脚すると、薩摩藩御蔵役だった大久保は、西郷の代わりに新藩主・島津忠義(忠徳)の父である久光に接近するようになりました。
1861年久光は藩内における政治的影響が増大し「国父」の礼を持って遇されるようになりました。
久光の権力拡大の過程で精忠組の取り込みを図り、久光は大久保ら精忠組の中核メンバーを重用するようになりました。
斉彬亡き後の薩摩藩は、幕府に恭順の意を表していました。
安政の大獄で尊攘派の憎悪の対象となった大老・井伊直弼が桜田門外の変で殺害され、次に幕府の中心となったのは、老中の安藤信正でした。
公武合体でもって幕府の権威を守ろうと画策し、皇女和宮の降嫁が決まりましたが、それは尊攘派の怒りを買う行為でした。
安藤も坂下門外の変で襲撃を受け、幕府の権威は下落するばかりでした。
坂下門外の変がきっかけとなり、公武合体の動きも鈍くなり始めました。
公武合体を声高に叫ぶと、過激尊攘派の襲撃を受ける危険性が高まってしまうためです。
しかし、そんな中、薩摩藩の島津久光は公武合体を推し進めるために兵を率いて入京する決意を固めます。
兄・斉彬が計画し、果たせずにいた率兵上京計画を実行しようとしたのです。
出府上京するにあたり、久光は奄美大島にいる西郷を召喚しました。
大久保からの強い嘆願もあり、大事を成すために、藩内の人心を統一させるには、西郷の力が必要との判断でした。
西郷召喚
1861年11月21日、西郷に久光からの召喚状が届き、1862年2月、西郷は鹿児島に戻り久光と面会しました。
そこで西郷は、久光の上洛計画を批判、計画を延期し、藩内の充実を図った方が良いとの考えを述べ、久光の反感を買いました。
鹿児島に入ってから、大久保たちからこの上京計画についての説明を受けた西郷は、計画の杜撰さに呆れていました。
朝廷からの勅諚を受けるためのコネ、根回しもなく、運良く勅諚を貰えたとしても、その後の幕府の対応如何によっては、何年も薩摩から離れなくてはならない、その準備が出来ているのかなど、西郷は疎漏な上京計画の問題点を指摘していました。
さらに、西郷としては、久光は斉彬のように江戸で生活した経験もなく、藩主の父というだけで無位無冠の久光が上洛しても、斉彬のような政治力を発揮できるわけがないと、久光の野心に反対したのです。
それでも大久保の説得を受け、久光に従うことになった西郷は、久光から肥後の形勢を視察し下関で待て、との命を受け1862年3月13日、村田新八を伴い鹿児島を発ちました。
下関に向かう途中、西郷たちが目にしたのは九州諸藩の有志や志士たちが我先にと京・大阪に向かおうとする異様な光景でした。
これは、平野国臣や真木和泉、清河八郎という尊攘派が久光の上洛を各地に喧伝したことによるものでした。
西国を中心とした諸藩有志の間で、久光の上洛を機に倒幕の兵を挙げる動きが起こり始めたのです。
下関に到着した西郷は、薩摩藩士の森山新蔵から諸藩の浪士達が京・大阪に集結しており、緊迫した情勢であると伝えられました。
森山は、商人から士族になった藩士です。久光の上京に合わせ兵糧の買付け等を任され西郷よりも先に下関に到着していました。
森山は下関の白石家に逗留しており、そこで長州の久坂玄瑞や土屋矢之助、山田亦介、土佐脱藩浪士の吉村虎太郎、沢田尉右衛門、久留米藩の原道太などが久光の上京に乗じて倒幕の兵を挙げる計画を聞いていたのです。
さらに、筑前の勤王志士・平野国臣や豊後岡藩の小河一敏も白川家に逗留していて、倒幕挙兵のために藩士20名を従えていました。
森山の報告を受けた西郷は、京・大阪に集結した志士達を統制すべく、久光の命令を無視し、大阪に向かいました。
下関に到着した久光は、西郷が命令を無視し大阪に向かったことに激怒しました。
久光の側近として随行していた大久保は、西郷の命令無視を知り、京・大阪での事態を確かめるとともに、西郷に会い、事の真相・西郷の意思などを確認するため、久光に願い出て、行列に先行して西郷の後を追い大阪に向かいました。
その後大久保と入れ違いにやってきた報告では、西郷が志士や浪人たちを扇動していると言われ、久光は激怒し、西郷捕縛を命じたのです。
1862年3月27日、大阪に到着した西郷一行は、薩摩藩大阪藩邸には入らず、加藤十兵衛という人物の屋敷に入りました。
これは、薩摩藩邸や普通の宿屋に入ってしまったら、浪士や薩摩藩精忠組過激派の者が大勢押し掛けてくる恐れがあり、身動きがとれなくなってしまうからです。
1862年4月、伏見に到着し、西郷に会えた大久保は、西郷に事の真意を尋ね、西郷が必死に攘夷志士達を抑えていたことを知り、安堵し久光の行列に戻りました。
しかし、大久保がいない間に西郷が志士達を扇動していると誤った報告を受けた久光から西郷捕縛命令が出されていました。
大久保は必死に久光の誤解を解こうとするのですが、久光の怒りが解けることはありませんでした。
大久保は西郷が久光の逆鱗に触れ、罪に問われ捕縛されることに心を痛め、刺し違えて潔く共に死のうと西郷を浜辺に呼び出しました。
大久保の決意を知った西郷は、自分はおとなしく捕縛されるといい、共に死のうとする大久保を諌めました。
こうして西郷は村田や森山と共に捕縛され、鹿児島に送還されることになりました。
その後、再び島流しとなり、今度は奄美よりも遠い沖永良部島に流されることになったのです。
久光入京
西郷が鹿児島に送還されると、4月16日、久光一行が入京を果たしました。
久光は朝廷の権大納言・近衛忠房を通じて幕府と朝廷の関係改善の献策を行いました。
すると久光は朝廷から粗暴になってきている倒幕を企む尊皇過激派の動きを抑えるよう命令を受けました。
寺田屋事件(薩摩藩士粛清事件)
西郷という抑えがなくなった急進派たちは、久光の上洛を機に倒幕の先鋒として関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃する計画を企てました。
有馬新七を中心とした薩摩藩の急進派・柴山愛次郎、橋口壮介らや久留米藩の真木和泉田中河内介らは伏見にある薩摩藩の定宿であった船宿・寺田屋に集結し始めました。
この計画を察知した久光は、側近の大久保や有村俊斎・奈良原喜左衛門らを派遣して説得を試みましたが、有馬らは既に藩邸を脱していました。
4月23日、薩摩藩邸で藩士を抑えようと奮闘した有馬らの上司・永田佐一郎は、彼らを説得できなかったことを悔やみ切腹していました。
久光は、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けており、藩士にも軽挙を慎むよう厳しく戒告していました。
それにも関わらず、暴挙に出ようとしていることに久光は激怒しました。
久光は急進派を抑える鎮撫使8名(奈良原喜八郎・道島五郎兵衛・鈴木有右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・大山格之助・江夏沖左衛門・森岡善助)を寺田屋に向かわせ連れ帰るよう命じました。
しかし、彼らが命令に応じない場合には「臨機応変に処置するよう」と命じました。
夜22時頃、鎮撫使8名に加え、鈴木有右衛門の家来・上床源助を加えた9名が寺田屋に到着しました。
奈良原らは有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮介を階下に呼び出し説得を試みますが、彼らは奈良原らの説得に耳を貸しませんでした。
両者が睨み合う中、しびれを切らした道島が「上意」と叫び、戦闘が始まりました。
道島は掛け声と共に田中の眉間を斬り、それを見た有馬は道島に斬りかかり薩摩藩同士の壮絶な斬り合いが始まりました。
道島と闘って剣が折れた有馬は、道島を壁に押し付け急進派同志の橋口に向かって「自分ごと刺せ」と命じました。
橋口は一瞬ためらいを見せましたが有馬の声に急かされそのまま2人の背中に刀を突き立てました。
有馬と道島は絶命し、この騒動を聞きつけた急進派達が寺田屋2階から降りてきました。
奈良原は柴山ら急進派に降伏を呼びかけ、別部屋にいた真木和泉や田中河内介らも鎮撫使に説得され投降、事態は終息しました。
寺田屋に集まった浪士はおよそ40名。今回の騒動で死亡したのは鎮撫使1名急進派6名でした。
剣の達人ばかりを厳選した鎮撫使との戦いは壮絶を極めていました。
寺田屋に集い残った急進派は24日未明に錦小路の薩摩藩邸に入りました。
重傷を負った田中と森山は久光の命で翌日切腹、急進派に属していたのに風邪で療養していた山本四郎は謹慎を命じられましたがその処分を不服としたため切腹。
9名の急進派が死亡となりました。
彼らは薩摩藩士としての籍を剥奪され、遺体も埋捨処分となりました。
投降した藩士たちは謹慎処分となり、逃亡した志士を除いた他藩の志士たちはそれぞれ所属する藩に引き渡されました。
引き取り手のない浪士たちは薩摩藩にて日向送り(処刑)となりました。
自藩の尊攘派過激分子を粛清した久光の株は上がり朝廷からの信望が高まりました。
久光の働きかけにより、朝廷は幕政改革要求のための勅使を江戸に派遣することを決定し、久光は勅使随従を命じられ、江戸に向かうことになりました。
最後に
薩摩藩士同士の苛烈な戦いで多くの犠牲者が出ました。
過激急進派に属していた森山新五左衛門の父・森山親蔵も寺田屋事件の犠牲者です。
西郷に京・大阪の異変を伝え、同行し、西郷と共に捕縛された森山新蔵。
息子・新五左衛門の処分を聞き、親蔵もまた切腹し果てました。
明治天皇の教育係として慕われていた田中河内之助親子も薩摩で日向送りとなり命を落としました。
この事件により精忠組は事実上壊滅となりました。
精忠組同志の壮絶な闘いは避けることはできなかったのでしょうか。
説得の途中で捕縛された西郷がそのまま説得を続けていたら、少しは変わっていたのでしょうか。
後に、寺田屋事件での犠牲者は全員名誉を回復、賞されています。
事件の2年後、薩摩九烈士として伏見の大黒寺にてお墓が建てられました。
お墓を建てたのも、墓石の文字も西郷の手によるものです。