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「おんな城主 直虎」から「西郷どん」まで。徳川幕府264年の総復習(その17 幕末。生麦事件発生前から島津久光の動き)。

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朝廷からの勅使と共に江戸に向かった薩摩藩主の父・島津久光は、薩摩から率いてきた武力を背景に幕府に幕政改革を迫り、成功させています(文久の改革)。

江戸からの帰り道、大名行列を横切った4人の英国人に対し、薩摩藩士は無礼討ちにしてしまいます。これが生麦事件です。

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この事件が引き金となって、薩摩藩と英国との全面戦争が始まってしまいます(薩英戦争)。

生麦事件とはどんな事件だったのでしょうか。

目次

文久の改革

寺田屋事件により、朝廷の信頼を厚くした久光は勅使・大原重徳に随行する形で江戸にやってきました。

これまで、国政を全面的に委任されていた幕府でしたが、その権威は既に失われつつありました。

朝廷から国政に対する改革の指示が出るなど前代未聞の事態でしたが、1,000人の薩摩藩兵を率いてきた久光に抵抗することができず、混乱しながらも結局は勅書通りに改革を受け入れざるを得なかったのです。

久光が朝廷に提出した建白書の内容はほぼ認められ、勅書となりました。

勅使の圧力の下、幕府がやむを得ず行った文久の改革。

建白書の内容

人事改革

  • 若年である将軍・家茂を補佐する将軍後見職に一橋家当主・一橋慶喜を任命
  • 新設する政治総裁職に越前藩前藩主・松平春嶽(慶永)を任命
  • 従来の京都所司代の上に京都守護職を新設、京都の治安を守る。会津藩主・松平容保を任命

制度改革

  • 参勤交代の緩和-隔年交代から3年に1度に改め江戸在留期間を100日とする。
    人質として江戸に置かれていた大名の妻子の帰国許可。
  • 洋学研究の推進-蕃書調所を洋書調所と改め、洋学研究に力を入れる。
    榎本武揚・西周らをオランダ留学させる。
  • 軍事改革-幕府陸軍の設置。西洋式兵制の導入。兵賦令の発布(石高に応じて兵又は金を徴収する)
  • 服制変革の令の発布-長熨斗・長袴の廃止。それに伴いより実用的な服装による形式的な服装・儀礼の簡素化を図る。

文久の改革の成果

安政の大獄以来、政治の表舞台から姿を消していた一橋慶喜・松平慶永らが復帰することになりました。

外様大名の父で無位無冠である久光の圧力により幕政改革を強要された幕府。

これによって幕府が受けたダメージは相当なものでした。

そして、改革を成功させた久光は、意気揚々と帰国の途につきました。

帰国の途中、東海道沿道にある生麦村で事件は起こりました。

生麦事件

1862年9月14日、久光の400人を率いた行列が武蔵国生麦村に差し掛かった時のことです。

行列の前方に馬に乗った4人の英国人が現れました。

彼らは川崎大師に観光に向かう途中の英国人商人達でした。

騎馬で行列に乗り入れてきた英国人達に、行列の先頭にいた薩摩藩士は身振り手振りで馬を降りて道を譲るよう説明するのですが、言葉が通じない英国人は行列の脇を通れば良いと思い込み、そのまま進もうとしました。

大名行列は道いっぱいに広がっているため、脇に避けることができず、英国人達はそのまま行列の中心を通ることになり、鉄砲隊も突っ切り、久光の乗る駕籠の近くまでやってきてしまいました。

供回りらの怒声やその様子で、異変を感じた英国人達は、馬首をめぐらせ引き返そうとしますが、馬も落ち着きをなくし久光の行列を乱してしまいました。

大名行列の前を横切ったり列を乱したりする行為は非常に無礼な行いとされており、そのような行いをした場合、その場での無礼討ちも認められていました。

駕籠の近くを守っていた奈良原喜左衛門や有村俊斎は、英国人らの行為を不敬とみなし、彼らを無礼討ちにしました。

4人のうちの1人チャールズ・レノックス・リチャードソンが奈良原喜左衛門によって斬られ、重傷を負ったところを海江田信義にとどめを刺され死亡。

ウィリアム・マーシャルとウッドソープ・チャールズ・クラークの2名が重傷を負うことになりました。マーガレット・ボロデール夫人(マーシャルの従姉妹)は、一撃を受けはしましたが帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であったため、横浜の居留地に逃げ込み救援を要請しました。

重傷を負ったマーシャルとクラークは、血を流しながらも当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺に駆け込み、ヘボン博士の手当を受けました。

この時、駕籠の中の久光は瞑目して落ち着いていましたが、この騒動の報告を受けると自ら抜刀できるよう準備をしたと言われています。

生麦事件後の諸外国の動き

事件直後、ボロデール夫人から事の次第を聞いた横浜の居留地民たちは激怒しました。

英国公使館付きの医師ウィリアム・ウィリスは、リチャードソンの遺体を回収するために現場に向かいました。生麦村に向かう途中、3人の横浜在住の男が加勢に加わり、やがて英国の神奈川領事ヴァイス大尉の騎馬護衛隊と合流し、リチャードソンの遺体を回収し横浜へ帰りました。

英国公使代理のジョン・ニールは、この一報を聞いた時、薩摩藩との軋轢を危惧し、騎馬護衛隊の出動を禁止していました。

しかし、ヴァイスはその通達を無視し、騎馬護衛隊を動かし遺体を回収。

横浜居留地に住む外国人たちと集会を開き、程ケ谷に宿をとっている久光を襲撃・捕縛すると主張をし始めました。

その主張は、フランス公使ベルクールやオランダも賛同する素振りを見せ、居留民たちの久光への報復を望む声が高まってきました。

しかし、ニールは冷静に現実の戦力不足と戦争に発展した場合の不利を説き、外交交渉による解決の姿勢を強く見せたのでした。

一方の久光は、英国からの報復の可能性を考え、神奈川宿で泊まる予定を変更し、保土ヶ谷宿に泊まりました。

久光は大久保に命じて宿場の警備を厳重にしています。

久光は幕府にこの事件のことを報告するのですが、その書状には実際に手を下した奈良原や海江田、久木村の名を出さず、架空の藩士・岡野新助の仕業であると報告しました。

岡野は事件後出奔し、行方知れずであると報告しています。

神奈川奉行からの報告を受けていた幕府は、薩摩藩の事実とは異なる説明を糾弾するのですが、薩摩藩側はしらを切り通しました。

大名行列における外国人の不作法について、久光は江戸滞在中に幕府に訴え書きを提出していました。

京から江戸に向かう道筋で外国人たちが大名行列を横切り、道幅いっぱいに広がっている様を目撃していた久光は、藩士たちには少々のことには目をつぶれと達しているが、各国公使に不作法は慎むよう通達して欲しいと訴えていました。

久光は幕府から、そのような通達は既に出しているが、言葉も習慣も違うから、我慢して穏便に、と返答を受けていました。

しかし、実際には幕府はそんな通達は出していなかったのです。

事件後の状況

事件から2日後、1862年9月16日、英国代理公使ニールと外国奉行・津田正路とで会談が行われました。

ニールは、幕府から久光の行列が行われる通達がなかったことに対し抗議し、外交上英国に有利になるように幕府の過失を指摘しました。

1862年9月23日、老中・板倉勝静の邸でニールと老中・板倉、水野忠精との折衝が行われ、英国側から犯人の差し出しと処罰の要求が行われました。

ニールは幕府に街道や居留地の警備を厳重にするよう要求し、各国の公使たちも幕府に再発防止のための具体策の提示を求めました。

今回の事件は、これまでの個人による襲撃事件ではなく、有力な大名の家臣によって白昼堂々行われた事件です。

諸外国は幕府に対し、強硬に抗議をしたのです。

しかし、東海道筋の民衆は、久光の起こした事件に対し、好意的に受け入れ薩摩人気が高まっていました。

当時、軍艦で脅しをかけてくる諸外国への敵愾心が強まり、外国に言いなりで弱腰の幕府に対し、民衆は不満を持っていたのです。

久光の目的はあくまで幕政改革、攘夷ではありませんでしたが、この事件がきっかけとなり薩摩藩と幕府の関係はひどく悪化していきました。

幕府から犯人を差し出せとの要求に対し、薩摩藩は大名行列の作法を犯した外国人の方に非があると主張し、更には幕府が外国人たちに大名行列での作法を通達しておかなかったことに問題があるとし、幕府の落ち度を指摘しました。

薩摩藩の主張は筋が通っており、幕府に反論の余地はありません。また、薩摩藩の勢いを恐れていた幕府は薩摩藩に強く出ることができず、事件の解決は一向に進まないままでした。

両者の板挟みになり、毅然とした対応ができない幕府は英国からも薩摩藩からも見限られ、とうとう薩摩藩は直接英国と対応する用意があると言い、幕府の出る幕はないと宣言しました。

こうして、幕府の権威はさらに失墜することになったのです。

一向に解決しない事態に業を煮やした英国は、大艦隊を横浜に停泊させ、幕府と薩摩藩に対し要求を飲むようにと圧力をかけ始めました。

本国と連絡を取ったニールは、幕府には10万ポンド(現在の価値でおよそ200億円)、薩摩藩には2万5千ポンド(50億円)の賠償金と、謝罪の文書の発行、そして犯人の死刑を求めました。

このような時期に、将軍・家茂は京に上洛をしています。

将軍と天皇が顔を合わせることで公武合体を世に知らしめ、幕府の権威を回復させようという狙いでした。

攘夷思想が激しい京において、英国の要求を受け入れるのは、幕府的には難しく、朝廷には英国の要求を拒否すると報告しておきながら、英国に対しては賠償金の支払いを了承しています。

方針がふらつく幕府に対し、朝廷からの信頼は失われていくばかりでした。

攘夷の風潮が強まる中、幕府の弱腰の対応はまずいと感じた一橋慶喜は、賠償金支払いを差し止めようとします。

しかし、約束を反故にされたニールは激怒し、武力による抗議を実施しようとしたことで、江戸で交渉を担当していた老中・小笠原長行が独断で賠償金の支払いに応じたため戦闘とはなりませんでした。

この後、小笠原は独断での決断を非難され、老中を罷免されています。

薩英戦争

1863年6月24日、幕府から賠償金を受け取ったものの、薩摩藩からの返答はありません。

1863年8月6日、ニールは、薩摩藩と直接交渉するため7隻の艦隊を率いて横浜港から鹿児島湾へと出港しました。

8月11日、英国艦隊は鹿児島湾に到着、鹿児島城下の南、約7kmの位置に投錨しました。

その後さらに近づき、前之浜約1kmまで近づいています。

薩摩藩では寺田屋事件関係者の謹慎を解き、総動員体制で待ち構えていました。

先代藩主・斉彬の時代から薩摩藩は沿岸に砲台を築き、海防を強固にしていました。

この事件で英国との交戦の可能性が高まったことにより、さらに砲台を増築、大砲も増やし、薩摩藩兵は戦闘準備を整えていました。

英国の艦隊の姿を確認すると、薩摩藩士は迎撃態勢を整え、英国艦隊の旗艦・ユーライアラス号に使者を送りました。

ニールは使者に対し、生麦事件の犯人の処刑と賠償金を要求しますが、薩摩藩側は鹿児島城内での交渉を求めました。

これには、ニールや艦隊司令キューパーを拘束し、有利な交渉を行おうとする薩摩藩の意図がありましたが、英国側は薩摩藩の意図を察知し、城内での交渉を拒否、早期の回答を要求しました。

薩摩藩が英国政府の要求を拒否すると、ニールは武力行使を決断しました。

1863年8月15日、英国艦隊は薩摩藩が有する高価な汽船を含む3隻を拿捕し、薩摩藩の気勢をそごうします。

これに激発した薩摩藩も非戦闘員を市街地から避難させ、体制を整えます。

そして、薩摩藩・天保山砲台から旗艦ユーライアラスに向けて砲撃が開始、対岸の桜島側の袴腰砲台からも砲撃が開始されました。

この日の海上は台風の影響で暴風雨が吹き荒れ大荒れとなっていました。

薩摩からの砲撃を受けた英国艦隊は、猛烈な反撃を始めましたが、大荒れな海のため、照準を定めることができません。

陸から艦隊を狙う薩摩藩は、日頃の訓練の成果を発揮し、英国艦隊に甚大な被害をもたらします。

ユーライアラス号甲板付近に砲弾が命中し、艦長ジョスリングや司令、副長が戦死。

キューパー提督は左腕に負傷しました。

さらに、祇園之洲砲台に接近していた英国艦「レースホーク」は、波浪と機関故障により座礁、他の僚艦により曳航され離礁しました。

英国艦隊からの砲撃も凄まじく、砲撃やロケット弾などにより藩営の集成館が破壊、上町方面の城下では火災が発生し民家350余戸、侍屋敷160余戸、寺社など鹿児島城下の10分の1が消失する甚大な被害を与えられました。

8月17日、英国艦隊は弾薬や石炭燃料が不足に陥ったため、死者を水葬し当初の目的を果たすことなく撤退することになりました。

薩摩藩の砲撃による英国艦隊側の被害は大破1隻、中破2隻、死傷者63名(旗艦ユーライアラス号艦長や副長含む)にも及びました。

薩摩藩側の被害は、人的被害は少なかったものの、物的被害は大砲8門、火薬庫、鹿児島城内の櫓、門等の損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家、侍屋敷、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻消失など甚大でした。

薩英戦争後の処理

攘夷を実行したとして薩摩藩には朝廷から褒賞がもたらされました。

薩摩藩の健闘は諸藩からも賞賛され、国内における薩摩藩への支持が高まりました。

薩摩藩が、当時、世界最強と言われた英国艦隊を退けたことは、西洋において驚きでした。

アメリカ、ニューヨークタイムス紙では日本人は勇猛果敢であり、西欧式の武器や戦術にも長けており、侮るべきではない、と評しています。

諸外国は生麦事件に対しても様々な反応をしており、アメリカなどでは日本の大名行列に対する英国人の不作法にこそ非があるとしています。

英国の議会や国際世論は、薩英戦争前に幕府から多額の賠償金を得ているにも関わらず、鹿児島城下の民家への砲撃はやりすぎであったとして、キューパー提督を非難しています。

戦争後、薩摩藩は英国艦隊の襲来を予測し、壊れた砲台や集成館の修復を急ぎました。

その一方で、英国艦隊の強大さを認め、西欧の新しい技術の導入を考えるようになりました。

彼らをただ排除するのではなく、学ぶべきところは学び、吸収すべきだと、これ以上の戦闘ではなく、大久保たちが主張するように講和を支持する者が増えてきました。

そうして、薩摩藩と英国との和平交渉が始まりました。

和平交渉

薩摩藩は重野厚之丞と岩下方平を使者として、横浜にてニールと交渉を始めました。

1863年11月11日、第1回交渉が行われましたが薩摩・英国とも主張を引かず、交渉は決裂。

11月14日の第2回交渉でもまとまりませんでした。

11月15日の第3回交渉でようやく両者歩み寄りをみせました。

英国は薩摩藩に対し2万5千ポンドの賠償金支払いと、犯人の捜索を要求します。

薩摩藩は要求に応える条件として軍艦購入の斡旋を依頼し、2万5千ポンドに相当する6万300両を幕府から借用し、英国に支払い、犯人に対しては依然として逃亡中として処罰を免れました。

この戦争と講和交渉を通じて、英国は薩摩藩を高く評価するようになりました。

引きのばしばかりで信用できない幕府よりも、勇猛果敢で約束を守る薩摩藩に好意を抱き、以後関係を築くようになっていきます。

薩摩藩も軍艦の建造や船員の訓練法など、海軍強化に意欲を見せ、これ以降英国との友好関係を深めていきます。

最後に

生麦事件から薩英戦争に至るまで、その対応において薩摩藩は株を上げ、幕府の権威はますます下がっていきました。

英国と関係を築くことにより、戦力は強化され、国内における薩摩藩は勢いづくようになります。

政治の中心は江戸から京へ移り、京の街はこの後、大変な騒乱が巻き起こるようになっていくのです。


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