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西郷どん。大隈重信の波乱の生い立ちと、演じる尾上寛之さん。

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大隈重信と聞いて、パッと思いつくものはなんでしょう。

早稲田大学、大隈講堂、総理大臣を務めた人物、こんな感じでしょうか?

大河ドラマ「西郷どん」では、尾上寛之さんが演じています。

明治留守政府内では、強硬な発言をする大隈重信を熱演しておられますね。

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この、大隈重信という人物、歴代総理大臣中最高齢の78歳6か月に退任するまで、総理大臣として活躍していました。

死後は、日比谷公園で国民葬が行われ、約30万人もの人々が大隈の死を悼んだといいます。

国民に大人気であった大隈重信、一体どのような人物だったのでしょうか。

目次

生い立ち

大隈重信は、1838年3月11日、佐賀藩の石火矢頭人(砲術長)大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれました。

大隈家は知行300石の上士家柄でした。

1844年、重信は藩校・弘道館に入学、江戸時代中期の佐賀鍋島藩士・山本常朝が延べた武士の心得をまとめた「葉隠」を基にした儒教教育を受けました。

しかしその内容は、学問よりも精神に重きを置いたもので、鎖国下の緊張状態にある時代に「葉隠」だけを学んでいては事足りると考えるのは大間違い、という古賀穀堂の建言により、藩の教育は実用的な洋学へと移行していきました。

1855年、大隈重信は同士とともに藩校の改革に乗り出し、儒学派への反対運動を起こしました(弘道館南北騒動)。

その結果、首謀者である重信は退学となり、佐賀藩の尊皇派の中心人物である枝吉神陽に国学を学び、枝吉神陽が結成した義祭同盟に参加するようになりました。

弘道館退学処分を受けた重信でしたが、直ぐに復学が許されたものの、弘道館には戻らず、蘭学寮への転入を望みました。

その後、重信を追って蘭学寮に進む生徒が増え、これまでの儒学から実用的な洋学へと視野が広がる大きな契機となりました。

1861年、重信23歳の時に、佐賀藩10代藩主の鍋島直正にオランダ憲法について進講、藩主に認められ、蘭学寮と合併した弘道館の教授として蘭学を教えることになりました。

1865年には、長崎五島町の佐賀藩校英学塾「致遠館」の教頭格になり、副島種臣とともに指導にあたりました。

この時に、校長であり宣教師のフルベッキに英語を学び、新約聖書やアメリカ憲法やイギリスの議会制度などの英学を学び、重信は大きな影響を受けたといいます。

また、藩貿易に携わり、外国商人との交渉をするようになると、世界情勢に強く関心を持ち、政治家への道を決意することになったのです。

1867年、副島とともに脱藩し、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めようと画策しましたが、捕縛され佐賀に強制送還された上に、1か月の謹慎処分を受けることになりました。

明治維新

明治維新がなされると、元薩摩藩士・小松清廉の推挙を受け、徴士参与職、外国事務局判事に任じられました。

キリスト教禁令について、イギリス公使・パークスとの交渉では見事な手腕を発揮しました。

キリスト教を弾圧する「浦上信徒弾圧事件」により、政府はパークスの猛抗議を受けていたのですが、重信は、パークスの発言は万国法で禁止されている内政干渉に当たると言い返し、パークスを黙らせることに成功したのです。

1869年には会計官副知事を兼務、高輪談判といわれる明治政府首脳と、イギリス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5か国の駐日公使による会談での贋貨回収などの処理や新貨条例の制定に尽力し、金融行政にも携わりました。

同年、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、社会基盤整備と殖産興業を推進する工部省の開設に尽力しました。

1870年には参議、1872年には伊藤博文らと協議し、富岡製糸場を設立しました。

1873年5月には大蔵省事務総裁となり、同年10月には参議兼大蔵卿となりました。

1874年にはウィーン万国博覧会事務局総裁に就任、政府が初めて参加した万国博覧会では、日本館は連日大盛況だったといいます。

重信の私邸には伊藤博文や井上薫など若手官僚らが集まるようになり、さらに木戸孝允の協力も得て、当時、権力が集中していた大久保利通を牽制しました。

政治談議にふけったその私邸は約5000坪の広大な土地で、多くの食客が常時滞在していたといいます。

明治の近代化を導いた人々が集まり、常に議論していたことから「築地梁山泊」と呼ばれるようになりました。

征韓論では西郷に反対し、大久保の意見に賛同していました。

1869年に重信が会計官副知事に就任してから、明治十四年の政変と言われる大隈重信失脚までの12年半、財政に携わったこの時期は「大隈財政」と呼ばれています。

前任の元福井藩士・由利公正が行っていた「由利財政」を批判していた重信は、由利の後任となり、国家財政の基礎を作り出す地租改正に乗り出し、また、旧特権階級の家禄の処分もあわせて行い、これまで歳出の30~40%を占めていた家禄費を約20%まで減らすことに成功しました。

これにより、財政の基礎が整い始めた政府は、殖産興業政策の推進を進めることになりました。

明治六年の政変後、大久保が内務卿、大熊が大蔵卿になると、1875年に3回にわたり財政に関する重要建議を提出しました。

1877年に西南戦争が起きると、戦費調達の調整や大ダメージを負った政府財政の立て直しに尽力しました。

しかし、重信の財政対策を批判し、政府財政の大改革を主張する声が高まりました。

それにより、重信と薩長藩閥は激しく対立することになります。

1880年、会計検査院が設立され、翌年には統計院を設立、初代院長になりました。

この頃、自由民権運動に同調するようになり、国会開設や早期の憲法公布を説くようになりました。

やがて、北海道開拓使払下事件が起こり、政府への批判が高まると、自由民権運動が一層盛り上がってきました。

大蔵省内の大隈派が黒田の払い下げ内容が不当に廉価であると主張し、払い下げ中止の提議を出すと、自由民権運動と結んだ重信の謀略と受け止められ、政府内で大隈追放の声が高まってしまいました。

政府は、重信の参議罷免を決定し、重信は政府を追われたのです。

下野後

政府を辞めて重信についてきた者達とともに、1882年3月に立憲改進党を結成、10月には「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現在の早稲田大学)を開設しました。

日本が西洋の列強と対等になるためには後進の育成、教育が必要だと考えたのです。

学校経営に勤しんでいた重信は、1887年、伯爵に叙されました。

外務大臣から総理大臣へ

第一次伊藤内閣の時、不平等条約改正を成し遂げるためには重信の外交手腕が必要と感じた伊藤博文は、外務大臣に重信を、と望みました。

同年、黒田清隆が組閣した時も重信は留任していました。

この時代、重信はテロ行為により、大怪我を負うというアクシデントに見舞われます。

大審院に外国人判事導入を検討していたところ、反対派の抵抗に合い、1889年10月18日、国家主義玄洋社の一員である来島恒喜の爆弾襲撃に合い、右足を切断する大怪我を負いました。

右足切断手術は、日本人初のドクトルを取得した順天堂医院院長の佐藤進や、重信の主治医、ドイツ人のエルヴィス・フォン・ベルツ医師が行いました。

1896年、第2次松方内閣の時に、再び外務大臣に就任しますが、薩摩勢と対立し、翌年には辞職することになりました。

1898年6月に板垣退助らの自由党と大隈重信の進歩党を合併させて憲政党を結成しました。

薩長閥以外からの初めての内閣総理大臣となり、日本で最初の政党内閣を組閣、俗にいう「隈板内閣」が誕生しました。

内閣の主要ポストに自分の党の人材を配置し、民間人登用などにも取り組み、8月の総選挙では多くの議席を獲得できたのです。

しかし、閣内対立が激しく、大隈内閣は4か月で崩壊、総辞職となってしまいます。

対立のきっかけは、尾崎幸雄文相による演説でした。「日本に共和政治が行われたと仮定すれば三井・三菱は大統領候補となろう」という発言は、金権政治を批判したものだったのですが、新聞には天皇批判に当たると報じられ、旧自由党勢力もこれに賛同し、尾崎は辞任することになりました。

さらに、尾崎の後任をめぐり、旧進歩党と旧自由党が争うことになり、10月、大隈内閣は総辞職したのです。

旧自由党は、そのまま憲政党と名乗り、重信は、旧進歩党をまとめ、憲政本党として率いることになりました。

政界引退

1907年、政界を引退した重信は、早稲田大学総長に就任しました。

早稲田大学は、創立20周年の時に、東京専門学校から早稲田大学へと改名しています。

重信は、理工科再設置するための資金集めとして、全国で講演活動など行い、さらに文明協会を設立、数多くの著作を残しました。

「早稲田の大風呂敷」という悪口もありましたが、豪放磊落な性格は民衆に好かれ、「民衆政治家」と呼ばれ、国民からの人気は高かったようです。

政界復帰、再び総理大臣へ

1914年、第一次山本権兵衛内閣が汚職事件で退陣すると、その後任として重信が選ばれました。

第2次大隈内閣です。この時、重信は76歳になっていました。

重信は、文政一元化の名のもとに、内務省の所管だった伝染病研究所を文部省に移管したのですが、北里柴三郎所長以下が猛抗議し、全員が辞職するという事件を引き起こしてしまいました。

結局、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、所長の北里は独自の北里研究所を開き、しのぎを削ることになりました。

7月に第一次世界大戦が起こると、中国大陸をめぐり、ドイツに宣戦布告を行い、翌年1月には中国に対華21ケ条要求を提出しました。

重信が乗った馬車に、福田和五郎らが爆弾を投げつける事件が起こりますが、爆弾が不発だったため、事なきを得ました。

8月には内閣改造を図るのですが、次第に国民からの支持を失っていき、1916年10月、内閣は総辞職、重信は完全に政界から引退しました。

歴代総理大臣中最高齢記録である満78歳6か月まで首相を務めました。

さらに、第1次大隈内閣総辞職からブランクを16年あけての再就任も歴代最長記録になっています。

死後

1922年1月10日、胆石症のため早稲田の私邸で亡くなりました。享年85歳。

1月17日に私邸で告別式が行われましたが、日比谷公園で未曾有の国民葬が行われました。

30万人もの一般市民が参列し、重信を悼みました。会場だけでなく沿道にもたくさんの人々が集まり、重信がどれだけ国民に慕われていたかがよくわかります。

逸話

大隈重信にはたくさんの逸話が残されています。

大隈が設立した早稲田大学、ライバルとしては慶應義塾大学が有名ですが、その創設者は福沢諭吉。

この2人、とても仲が悪いと評判でした。

しかし、とある雑誌記者が仲の悪い2人を会わせようと画策し、宴席を設けたところ、2人は意気投合し、福澤の「あなたも学校をおやりになられたらどうですか?」という一言で、早稲田大学創設を決意したのです。

その後、2人は友情を深め、福沢が亡くなった時の葬儀では、他の人々の献花を断っていた遺族が、重信の花だけは受け取ったと言われています。

来島恒喜が起こしたテロにより、重信は右足を失いましたが、その足はホルマリン漬けにされ、現在は、大隈家の菩提寺である龍泰寺に保管されているようです。

義足は、当時最高と言われたアメリカのA.A.マークス社製で、現在は、大隈重信記念館で見ることができます。

また、重信はメロンが大好きで、外国から持ち帰り日本で初めて栽培したという話もあります。

アメリカ大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部が試合を行った時、その始球式を重信が行ったのですが、重信が投げた球は大暴投。

一番バッターは、重信の投げた球をボールにしてはいけないと咄嗟に空振りしたそうです。

それ以来、始球式のボールはわざと空振りするという習慣になったといいます。

大隈重信を演じる尾上寛之さん

1985年7月16日生まれ

大阪出身

特技はエレキギター・バスケ

身長166cm

血液型はA型

1994年NHK連続テレビ小説「ぴあの」で子役としてデビューしました。

その後、朝ドラに数多く出演するようになり、「朝ドラ王子」と呼ばれています。

主な出演作品として、近年の映画では

2018年

  • 億男
  • 悪と仮面のルール

2017年

  • こどものつかい
  • 3月のライオン

2016年

  • 殿、利息でござる

2015年

  • 王妃の館

2013年

  • 俺はまだ本気出してないだけ
  • ルームメイト

その他多数

テレビ作品では

2018年

  • ハラスメントゲーム
  • そろばん侍
  • モンテクリスト伯
  • ラブリラン
  • シグナル長期未解決事件捜査班
  • アンナチュラル
  • ザ・ブラックカンパニー

などなど。2018年だけでもこれだけの作品に出演されている、大人気の尾上さん。

映画、テレビ、舞台とマルチに活躍し、CMにも引っ張りだこな、今、大注目の役者さんです。

特に、TBS放送の「アンナチュラル」での見事な演技は、ネット上でも大評判でした。

至って普通の人を装いながら、隠し持った狂気でだんだんと歪んでゆく姿、非常にサイコパス、最高に怖い見事な悪役で、視聴者の目を釘付けにしました。

珍しい苗字のため、歌舞伎関係と思われている方も多いようですが、特に関係ないようです。

子役時代から数えて芸歴は20年以上、カメレオン俳優と称されるほど役そのものになりきってしまう、素敵な役者さんです。

大河ドラマ「西郷どん」の中での大隈重信は、西郷と対立しているためか、悪役っぽい雰囲気をだしつつ、己の信じる正義のため、国のために次々と革新的な案を提案しています。

議会での厳しくも情熱に満ち溢れた表情がとても印象的ですね。

最後に

大隈重信は、豪放磊落な人物で、多くの支持者を得ていました。

晩年の楽しみは、私邸に客が訪れることだったそうで、毎日20~70人ほどの客と過ごし、雨の日など人が少ないと、今日は入りが少ない、と寂しがっていたそうです。

豊富な知識と好奇心、卓越した交渉力でもって日本の外交を担い、逼迫していた明治政府の財政を支え、後進の育成の大切さから早稲田大学を創設しました。

テロ行為で右足を失い、さらに、不発とはいえ爆弾が投げつけられるという経験も味わい、それでも日本の未来のために尽力し続けた大隈重信。

30万人もの人々が参列したという未曾有の国民葬から、重信がどれだけの人々に慕われ愛されていたのかがわかります。


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