時代の寵児、幕末の風雲児、など数々の異名を持つ坂本龍馬。
大河ドラマ「西郷どん」でも、いよいよ本格的に登場しましたね。
小栗旬さん演じる坂本龍馬と鈴木亮平さん演じる西郷隆盛のファーストコンタクト、素晴らしかったですね。
不逞の輩から遠藤憲一さん演じる勝海舟を守るため、西郷と対面した龍馬。
軽口で会話しながらカマをかけて西郷の正体やその真意を探ります。
笑顔でありながら相手を見極めるような鋭い眼光、自分の腹を読ませない軽妙な語り口。
あらゆる方面から西郷を試す軽やかな龍馬と何を言われても微笑んで動じない西郷の2人の動と静。
一見和やかな雰囲気を出しながら、いつ壊れてもおかしくない緊張感。
視聴していて手に汗握ってしまいました。
そこへ勝の底抜けに明るい声、緊張が霧散しましたね。
緊張からの緩和、目が離せない素晴らしいシーンでした。
さて、数々の偉業を成し遂げ、歴史上の偉人たちから愛され、今尚ファンが多い坂本龍馬。
この偉人の人生は一体どのようなものだったのでしょう。
坂本竜馬の生い立ち
坂本龍馬は1836年1月3日、土佐国土佐郡上街本町一丁目の土佐藩郷士の家に生まれました。
父は直足(八平)、母は幸。兄・直方(権平)、姉・千鶴、栄、乙女、そして二男・龍馬。
元は豪商才谷屋の分家で、第6代当主・直益の長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されたため、坂本家が起こされ郷士坂本家が生まれました。
父・直足は郷土坂本家3代当主となります。
分家する際に才谷屋から多額の財産分与をされたため、坂本家は非常に裕福な家庭でした。
龍馬の名前の由来は、母・幸が出産前夜に龍が天に飛ぶ吉夢を見たため、それに因んで「龍馬」と名付けられたといいますが、その他にも諸説あります。
龍馬が10歳の時に実母・幸が亡くなり、その後は父の後妻・伊予に養育されました。
12、3歳まではおとなしく気弱な少年で、漢学の楠山塾に入学しましたが、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こしたため退塾させられました。しかし、これにも諸説有り、退塾理由ははっきりしていません。
それ以降、学問や武芸は三姉・乙女に習いました。
龍馬は、義母・伊予の前夫の実家・川島家(土佐藩御船蔵のあった種崎に位置していた)を度々訪れては長崎や下関からの珍しい話や数々の輸入品、世界地図などを見て広い世界への憧れを抱いたといいます。
1848年、龍馬は土佐藩の剣客・日根野弁治の道場に通うようになり、熱心な修行の結果、5年後(1853年)には小栗流和兵法事目録を得るまでになりました。
龍馬、江戸へ
龍馬17歳の時に、剣術修行のため1年間の遊学を藩に願い出て、許されました。
溝渕広之丞と共に江戸へ向かい、土佐藩の築地中屋敷や鍛冶橋の上屋敷に寄宿しながら千葉周作の弟・千葉定吉の北辰一刀流・桶町千葉道場の門人となりました。
江戸へ出立する際には、父から「修業中心得大意」を授けられ、龍馬はこれをお守りとして大切にしていました。
北辰一刀流には厳しい身分制度が有り、上級武士が通う千葉周作の玄武館(大千葉)と下級武士が通う桶町の小千葉道場がありましたが、龍馬は小千葉道場で修行を積みました。
兵学は、山鹿流・若山勿堂に学び習得しています。
1853年7月、黒船が浦賀に来航すると、遊学中の龍馬も品川の土佐藩下屋敷の守備に就きました。
この時の龍馬は、「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と家族に書き送っています。
同年12月、佐久間象山の私塾に入塾した龍馬は、砲術・漢学・蘭学などを学びました。
しかし、翌年の4月、門弟の吉田松陰がペリー艦隊密航に失敗し、それに関係したとして、象山が投獄されたため、龍馬が象山に師事した期間はとても短いものでした。
1854年、15か月の遊学を終え龍馬は土佐に戻りました。
江戸遊学中に「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得した龍馬は、土佐日根野道場の師範代を務めるようになりました。
また、国際情勢を川田小龍から学びました。
川田小龍は、アメリカ渡航経験があるジョン万次郎と関わりがあった絵師で、ジョン万次郎から聴取した話を「漂巽記略」という本に編み、外国事情に詳しい数少ない人でした。
世界と対等に付き合うために、日本には船と操舵技術を持つ人材が必要であると、海運の重要性を知りました。
そして、攘夷ではなく開国の考えを持つようになったのです。
そこで河田から後に同士となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されています。
同時期に、土佐藩の御持筒役を務める徳広孝蔵に砲術とオランダ語を学びました。
安政2年12月4日(1856年1月11日)、父・八平が他界し、坂本家は長男・権平が継ぎました。
龍馬は同年7月に再度江戸遊学を申請し、9月から江戸剣術修行に向かいました。
この時、大石弥太郎や武市半平太らと共に築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿しています。
再度桶町の千葉道場で学びながら上級武士が通う玄武館でも一時期修行をしていました。
安政5年(1858年)1月、千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられました。
この目録は一般にいう剣術ではなく薙刀術のことです。
龍馬は、「北辰一刀流免許皆伝」と伝えられていますが、発見・現存されているのはこれだけのようです。
千葉道場で塾頭を務めていたこともありますし、優れた剣術家であったことは間違いないようです。
同年9月、土佐へ帰国しました。
土佐藩の動き~土佐勤王党
1858年は黒船来航の余波で、幕府内は様々な問題が起こった年でした。
土佐藩主・山内容堂は吉田東洋を参政とし意欲的な藩政改革を行っていました。
将軍後継問題では、水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らと共に一橋慶喜を推し、幕政改革を企図していました。
しかし、4月に彦根藩主・井伊直弼が大老に就任し、将軍後継問題に敗れると、一橋派であった者たちは粛清の憂き目にあいました(安政の大獄)。
一橋派であった容堂も粛清の対象となり、家督を養子・山内豊範に譲り隠居を命じられました。
1860年3月、桜田門外の変が起こり、井伊直弼が暗殺されると、土佐藩下士の間で尊皇攘夷思想が強まり始めました。
同年7月、龍馬の朋友である武市半平太は、門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内と共に武者修行の旅に出ると称して西国諸藩を巡り時勢の視察をして回りました。
1861年4月、江戸にて水戸・長州・薩摩などの藩士と交流を持った武市は、土佐藩の勤王運動の遅れを感じました。
武市は長州の久坂玄瑞や薩摩の樺山三円らと盟約を交わし、自藩の同士を結集し、藩論をまとめ、朝廷の権威強化と幕府への抵抗を約束しました。
この盟約を果たすため、同年8月、武市は江戸にて少数の同志と共に「土佐勤王党」を結成。
土佐に戻った武市は勤王党の同志を募り、192名の同志を得ました。
その中で龍馬は9番目、国元では筆頭として勤王党に参加しました。
尊皇攘夷を藩の政策とすることを目的とした勤王党でしたが、その当時、土佐藩の藩論は「公武合体」が主論でした。
武市は藩内で薩長二藩の情勢を伝え、土佐も二藩と同様に尊皇攘夷を訴え続けましたが、藩内の支持を得ることはできませんでした。
脱藩
龍馬は、勤王党の指導者である武市の指示のもと、四国・中国・九州など動静調査で各地を巡りました。
1861年10月、龍馬は日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かると丸亀藩に剣術修行として赴き、1月には長州萩に10日程滞在し、そこで久坂玄瑞と面会しました。
その頃、ちょうど長州を訪れていた薩摩藩・田中藤蔵や長州藩の有志と会い、各地の情勢・情報を得ました。
萩を離れるにあたり、龍馬は久坂から武市宛の書簡を預かりました。吉田松陰以来の「草莽崛起、糾合義挙」を促す書簡でした。
2月に土佐に戻ると、薩摩の国父・島津久光が挙兵上洛すると土佐に伝わり、土佐勤王党の志士たちは脱藩して薩摩藩の挙兵に参加しようとする者が多く出てきました。
実際は、幕政改革のための上洛だったのですが、尊攘過激派たちは倒幕挙兵と勘違いし、京に集結し始めたのです。
土佐勤王党では、まず吉村虎太郎が脱藩し、ついで沢村惣之丞、龍馬も誘いを受けて土佐藩脱藩を決意しました。
脱藩した者は、家族友人をも連座して処罰されることになります。
久坂は藩としての行動を重んじていたため、脱藩には反対でした。
龍馬脱藩の危険を察知した兄・権平は、龍馬の佩刀を全て取り上げ、その挙動に注意していましたが、既に脱藩していた沢村や那須信吾の助けを受け龍馬は脱藩に成功しました。
この時、二姉・栄または三姉の乙女が、兄・権平秘蔵の刀「肥前忠宏」を倉庫からこっそり持ち出し、龍馬に授けたという逸話が残っています。
せっかく脱藩までした龍馬でしたが、倒幕挙兵との噂が流れた島津久光は、薩摩藩の過激派が集まる寺田屋を襲撃し、自藩の尊攘過激派を鎮撫しました。
そのため、伏見で義挙を起こそうという各地から集結した尊攘過激派の計画は潰れてしまいました。
龍馬は目標をなくし、薩摩藩の動静を探るために潜伏しました。この時、九州に向かったという話も残されていますが、正確な足取りは掴めていません。
文久2年(1862年)4月8日に土佐藩参政・吉田東洋が暗殺されると、土佐藩の藩論は武市の尊攘論に転換し、武市は藩主に上洛を促しています。
7月、龍馬は大阪に潜伏し、龍馬が吉田東洋暗殺の容疑者とされていることを知りました。
勝海舟との出会い
8月、江戸の小千葉道場に寄宿していた龍馬は、長州の久坂や高杉晋作ら尊攘派との交流を深めていました。
12月、龍馬は福井藩主で幕府政治総裁職である松平春嶽に拝謁しました。
当時、脱藩の身であり、下士であった龍馬が藩主・松平春嶽に会えるなど、ありえないことですが、龍馬が通っていた小千葉道場の千葉定吉が福井藩の剣術指南役を務めていたので、そのつてで松平春嶽に会えたといいます。
春嶽は、龍馬の良き理解者となり幕府軍艦奉行並の勝海舟や福井藩の顧問・横井小楠に紹介状を書きました。
紹介を受けた龍馬は、門田為之助・近藤長次郎と共に勝に会いに行き、勝の門人となりました。龍馬は勝に心酔し、姉・乙女に勝のことを「日本第一の人物」と紹介しています。
龍馬と勝の出会いは、龍馬が勝を暗殺しに行ったところ、逆に勝から世界情勢と海軍の必要性を説かれ感銘を受けて門人になったという逸話が残っていますが、実際は春嶽からの紹介で、この逸話は勝の誇張ではないかと言われています。
勝は龍馬を可愛がり、土佐藩主・山内容堂に龍馬脱藩の罪を赦免するよう取り成し、文久3年、龍馬は脱藩の罪を許され、また、土佐藩士の勝の私塾入塾も認められるようになりました。
当時、勝が進めていた海軍操練所設立のために龍馬は奔走し、設立が認められても足りない資金を調達するために、福井藩に交渉に赴き、春嶽から千両を借入れました。
同年4月、土佐藩の藩論は公武合体から下士階層の武市半平太の尊皇攘夷論へと変化していました。下士である武市が藩論を主導していることに不満を抱いた山内容堂は、参政であった吉田東洋暗殺の犯人探しを開始し、土佐勤王党の粛清を始めました。
長州の勢いが増し、尊攘思想が強くなってきたこの頃、攘夷を決行した長州は下関戦争を起こし大敗を喫し、8月には薩摩と会津が手を組み八月十八日の政変を起こし、長州を京から追放、佐幕派の勢いが増してきました。
同月、大和国で天誅組が挙兵しましたが翌月には壊滅状態になり、土佐脱藩浪士の吉村虎太郎や那須信吾らが討ち死。武市も投獄され土佐勤王党は壊滅状態になっていました。
元治元年(1864年)、帰国延期申請を拒否された龍馬は藩の命令を無視し、海軍操練所設立の仕事を続けることを選び、再び脱藩。
勝が関門海峡封鎖の調停役として長崎に行くと、龍馬も同行し、熊本で横井小楠を訪ねて会合するなど、各地を巡り情勢を探るため精力的に活動しています。
5月、神戸海軍操練所が発足、6月には蝦夷地開拓と通商の構想のための資金集めに奔走していました。
しかし、6月に池田屋事件が起こり多くの尊攘志士が落命、その中には土佐の北添佶摩と神戸海軍塾の望月亀弥太もいました。
度重なる長州への苛烈な仕打ちに爆発した長州藩は、京の政治中枢に戻ることを目的として禁門の変を起こし、御所に発砲したことで長州は朝敵とみなされ、長州征伐が始まりました。
8月中旬頃、龍馬は勝の紹介で西郷隆盛と面会しました。
その時の西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評しています。
池田屋で粛清された望月に続き、禁門の変で長州軍に安岡金馬が参加、塾生の多くが尊攘思想を持つことが問題視され、神戸海軍操練所は1年で閉鎖することになってしまいました。
勝は江戸に召喚され、軍事奉行も罷免。
残された塾生を心配した勝は、江戸に出立する前に薩摩藩家老・小松帯刀や西郷隆盛に塾生を託しそれ以降薩摩藩の庇護を受けることになりました。
亀山社中の結成
薩摩藩の援助を受けることになった龍馬は、長崎の亀山に貿易や物資の輸送の会社を設立しました。亀山社中です。商業活動で利益を得ながら航海訓練に努め、さらに国事にも介入していました。
グラバー商会と取引をし、薩摩藩名義で購入した武器や軍艦を長州藩へ渡すなど、薩長の関係修復に努めました。これは後の薩長同盟に大きな貢献を果たしました。
薩摩と会津によって京の政治から駆逐された長州藩は、両藩に対し、根強い反感を持っていました。薩摩憎しの風潮は強まり、薩摩と会津を表す「薩奸會賊(さっかんかいぞく)」の4文字を下駄底に書き踏みつける者が現れるほどでした。
しかし龍馬や中岡慎太郎は薩摩や長州が啀み合うのではなく、結盟し武力倒幕に向かうことを望んでいました。
龍馬は大村藩の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を説き、渡辺と懇意であった桂小五郎と引き合わせてもらいました。
龍馬は桂を説得し、西郷との会談を承服させ、同時に中岡は西郷に桂との会談を承服させました。
しかし、一回目の会談予定は、朝議が長州再征へと傾き始めたことを察知した西郷が、それを阻止するために京に向かったため実現できずに終わりました。
両藩の和解を諦めない龍馬たちは武器弾薬の取引が禁止されていた長州に薩摩藩名義で購入した武器を転売、兵糧米調達に苦慮していた薩摩には長州の米を渡すことを提案し、両藩の和解に努めました。
8月にはグラバー商会から買い付けたミニエー銃やゲベール銃を長州藩に斡旋し、イギリス蒸気船2艦の購入にも成功し、長州と薩摩が1艦ずつ所有することになり、その運航は亀山社中に委ねられることになりました。
薩長の和解は着実に進み、9月、長州再征の勅命に薩摩は従わないとの決断を下しました。
薩長同盟
薩摩藩は、国父・島津久光の意向もあり公武合体を主張していましたが、幕府改革の場で自藩の主張を展開することができず、西郷を中心に、幕府強硬論に傾き始めていました。
龍馬らの活動は実を結び、慶応2年(1866年)1月8日、京の小松帯刀邸で、桂と西郷の会談が行われました。
しかし話し合いは難航し、なかなか同盟にまで発展できずにいました。
1月20日、下関から京都に到着した龍馬は、膠着した話し合いを纏めるべく奔走しました。
長州から同盟を持ちかけることは援助を請うているようでできない、という桂の思いを受け止めた龍馬は、西郷の元へ赴き長州の事情を説明、薩摩から同盟を切り出すように説得しました。
龍馬の努力が実を結び、1月22日、薩長同盟が成立しました。
翌23日、伏見寺田屋に宿泊していた龍馬は、伏見奉行の捕縛命令により深夜2時、襲撃を受けました。
恋人・お龍が危険を知らせ、龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で応戦、負傷しながらも三吉慎蔵が助けを求めた薩摩藩に救出され、薩摩藩邸で匿われることになりました。
6月、第2次長州征伐が始まりました。龍馬は長州藩の求めに応じて高杉晋作指揮の小倉藩への渡海作戦に参加、ユニオン号を指揮して実戦に参加しました。
長州藩は、薩長同盟の恩恵により西洋の新式兵器を装備、対して幕府は旧式の武器で戦い、圧倒的な兵力を持ちながら長州藩の前に敗れました。
思わしくない戦況に心労が重なった将軍・家茂は7月10日に大阪城で倒れ、その10日後に病没。享年21歳でした。
将軍病没により長州征伐はなし崩しに終わり、勝海舟と長州藩との話し合いにより9月19日、幕府軍は撤退しました。
海援隊
14代将軍・家茂の後、15代将軍に就任したのは一橋慶喜でした。
この頃の土佐藩は、時勢の変化を察して武器弾薬を購入し軍備を整えていました。
航海と通商の専門技術を持ち、薩長とも関係の深い龍馬に注目し、土佐藩参政・後藤象二郎は慶応3年(1867年)龍馬と会談し、龍馬の脱藩赦免と亀山社中を土佐藩外郭団体とすることが決まりました。
亀山社中は海援隊と名を変え、龍馬は海援隊隊長となりました。
5月、西郷や小松らは有力諸侯に働きかけ四侯会議の招集に成功、伊達宗城・松平春嶽・山内容堂・島津久光、そして一橋慶喜と摂政・二条斉敬を加えたメンバーで会議が行われました。
薩摩藩主導で行われた四侯会議で、薩摩は政治の主導権を幕府から雄藩連合へと移し、朝廷中心の公武合体を目指していましたが、慶喜の巧みな政局操作と粘りの議論で朝廷から勅許を得ることができた慶喜の完全勝利となり会議は失敗。
会議失敗により薩摩藩は戦略の変更に踏切、慶喜の将軍職剥奪と一会桑権力を打ち破る武力倒幕路線が始まりました。
大政奉還
四侯会議に参加していた前土佐藩主・山内容堂は、会議の失敗を早くから実感していました。
土佐藩の武力討伐派・乾(板垣)退介と谷干城は脱藩中の中岡慎太郎の仲介を受け京の小松帯刀邸にて西郷・吉井友実らと会談し薩土討幕の密約を交わしました。
後藤は容堂の呼び出しで、龍馬と共に土佐藩船夕顔号で京に向かっていました。
この船中で龍馬は後藤に「船中八策」と言われる新国家体制の基本方針を献策しました。
その案は議会制度の元、
- 大政奉還
- 上下両院設置による議会政治
- 不平等条約の改定
- 人材の登用
- 日本国憲法の制定
- 海軍力の増強
- 御親兵の設置
- 金銀交換レートの変更
などでした。
龍馬の提案を受けた後藤は、容堂の承認を得てこれを藩論としました。
さらに、6月22日、薩摩藩の西郷・小松・大久保、土佐藩の龍馬・中岡・後藤・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心らが会合を持ち、船中八策に基づいた薩土盟約が成立しました。
しかし、薩摩側の思惑と土佐側の思惑は違っていました。
薩摩は長州との盟約によりあくまで武力倒幕を目指し、土佐は話し合いによる大政奉還を主張していました。
薩摩は、大政奉還を慶喜が拒否すると推測しており、破棄された時の名分として話し合いによる大政奉還を支持したのです。
そのため、薩土盟約は9月には解消されてしまいました。
10月3日、二条城にて後藤は大政奉還建白書を提出しました。
慶喜は13日に諸藩重臣に意見を求め、14日に明治天皇に上奏、15日に大政奉還の勅許がくだされました。
近江屋事件
龍馬は、寺田屋事件襲撃を受けた寺田屋ではなく、三条河原町近くの材木商鮓屋、次は近江屋を拠点としていました。
11月15日、中岡は土佐藩士が三条大橋西詰北の制札を引き抜こうとして新選組に捕縛された三条制札事件のことを龍馬と話し合うために近江屋を訪れていました。
夜、十津川郷士を名乗る人物が龍馬に会いたいと近江屋に現れました。
案内をしようとした山田藤吉は背後から斬られ、音もなく階段を駆け上ってきた刺客は部屋に侵入し、龍馬の額を斬りつけました。さらに後頭部から背中、再度額を深く斬られ龍馬は死亡。
中岡は全身数十箇所を斬られましたが、脇差で防戦、そのまま気絶しました。
中岡はその後2日間生きて、谷干城に暗殺時の状況を伝えましたが、出血多量で死亡。
襲撃された日は、龍馬33歳の誕生日でした。
実行犯、黒幕には諸説有り、京都見廻組、新撰組、薩摩藩、後藤象二郎、外国陰謀説、紀州藩など、様々な説が取り沙汰されていますが、現在の定説としては箱館戦争で捕虜となった元見廻組の今井信郎が龍馬殺害を自白したため、これが定説となっています。
坂本龍馬演じる小栗旬さんの演技に期待
小栗旬さんは、
1982年12月26日生まれ。
東京都出身。O型。トライストーン・エンタテイメント所属。
映画、ドラマ、舞台に多数出演し、イケメンでありながら二枚目、三枚目もこなし、シリアスからコメディ作品でも十分に実力を発揮し、人を惹きつける演技でお茶の間を魅了しています。2010年には「シュアリー・サムデイ」で映画監督を務めるなどマルチな才能を発揮しています。
主な出演作として
映画
- クローズ ZERO
- 花より男子 ファイナル
- ルパン三世
- 信長協奏曲
- ミュージアム
- 銀魂
など多数。
ドラマでは
- GTO
- 花より男子
- 花より男子2
- 花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~
- スマイル
- リッチマン、プアーウーマン
- 信長協奏曲
- ウロボロス~この愛こそ、正義。
などなど。大河ドラマにも多数出演されています。
坂本龍馬は何にも囚われず縛られず自由な人です。
今のような便利な連絡手段が全くない時代に、自ら足を運び人と人を繋いで世の革新を目指しました。
時代を先取りし、未来に向かって突き進み、多くの人に愛されながら非業の死を遂げました。
これまで数々の名優が演じ、それぞれ味わい深い龍馬を魅せてくださいました。
「冒険家みたいな人になればいいなと思って演じています」と語った小栗旬さんの坂本龍馬が楽しみです。期待大ですね。
最後に
幕末の風雲児・坂本龍馬の生涯は波乱に満ちたものでした。
外国への興味、好奇心に溢れ、時代の先を読み、嵐を巻き起こしながらも進む人生。
2017年11月の朝日新聞で、高校と大学の教員らによる「高大連携歴史教育研究会」が近年の高校の歴史の授業が暗記中心であり、覚える用語が多すぎるとして、入試用語を半減にする提言を行ったと報じられました。
削減案の中には、「実際の歴史上の役割や意味が大きくない」という理由で、吉田松陰や坂本龍馬ら、歴史上の偉人たちの名が挙げられていました。
もしかしたら高校の歴史の教科書から坂本龍馬の名が消えてしまうかもしれません。
確かに時代の流れを見た時に、坂本龍馬が前面に出て活躍した場面は多くはないかもしれません。
しかし、龍馬が労を惜しまず人と人を繋げなければ成し遂げられなかったことはたくさんあったのです。
歴史の偉人たちに愛された龍馬は、その特出した才能と魅力ゆえに暗殺の憂き目に遭ってしまいました。
古き時代を新しい時代に導こうと奔走した龍馬の人生は、私たちを魅了し、今尚惹きつけられてしまいます。
幕末の風雲児、大河ドラマ「西郷どん」での龍馬は我々にどんな風をもたらしてくれるのでしょう。楽しみです。