お公家さんといったらどんな印象を持っていましたか?
ゆっくりおっとりした立ち居振る舞い、直接本音を語ることをせず、回りくどい言い回し。
私が今まで見ていた時代劇のお公家さんはみんなそんな印象だったように感じます。
大河ドラマ「西郷どん」第30話「怪人 岩倉具視」で、その印象は一変し度肝を抜かれましたね。
貧乏公家の出でありながら天皇の信頼厚く、側近くに仕えましたが蟄居を命じられ失脚。
ぼろぼろの屋敷に住み、夜は博打の胴元?
勢いよく話し、庭には罠が仕掛けてある、笑福亭鶴瓶さん演じる岩倉具視、本当に驚きました。
でも不思議と「そうか、岩倉具視は奇抜な怪人だもんね」と納得してしまう魅力たっぷりの岩倉具視でした。
維新の十傑の一人と言われ、旧500円札の肖像となった岩倉具視。
数々の偉大な功績を築いた岩倉具視の人生を振り返ってみましょう。
岩倉具視の生い立ち
文政8年9月15日(1825年10月26日)、公家・堀川康親の次男として誕生しました。
幼名は周丸(かねまる)。幼い頃から容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っており、公家の子女からは「岩吉」と呼ばれていました。
朝廷学者・伏原宣明の私塾に入門し、伏原から「大器の人物」と評されました。
天保9年(1838年)8月、13歳の時に岩倉具慶の養子となり、師の伏原から具視の名を選定されました。
その2か月後には叙爵、12月に元服し昇殿を許され、翌年から出仕し100俵の役料を受けました。
岩倉家は村上源氏久我家から分家した新家だったため、位階・官職は低く家業もなかったので非常に貧乏でした。
嘉永6年(1853年)1月、関白・鷹司政通の歌道に入門したことによりツテができ、朝廷首脳とのパイプができました。
具視は鷹司政通に朝廷改革の意見書を提出しその才智を見せたのです。
内容は、
- 積立金を学習院の拡大・改革に用いること。
- 人材の育成と実力主義による登用。
でした。
即答は避けられたものの、具視の主張は時の関白にしっかりと伝わりました。
当時の公家社会は身分差が厳しく、生まれた家格によって将来の官位まで決められていました。
多くの下級公家は、朝議に参加することすらできませんでした。
具視はこのような状況を打開しようと画策していたのです。
朝廷首脳との繋がりができた具視は、1854年には従四位下に叙せられ孝明天皇の侍従に就任するまでになりました。
1857年には従四位上に叙せられ、天皇の近習となっています。
八十八卿列参事件
安政5年(1858年)、黒船が来航し幕府は対応に苦慮していました。
老中・堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を求めて上京しますが、反対派公家の抗議にあい、勅許を得ることができませんでした。
その反対派公卿をまとめ主導したのが具視です。
具視は大原重徳と共に反対派公卿88人を集め、朝廷に参内し抗議しました。
勅許賛成の立場を取る関白・九条尚忠は参内を辞退し、屋敷に篭っていました。
九条尚忠の邸を訪問した具視は、病と偽り面会を拒む九条邸に居座り、返答を聞くまで動きませんでした。
翌日に返答するという九条からの申し出を聞いた具視が九条邸を辞したのは夜の10時を過ぎてからのことです。
このことは「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれ、具視が初めて行った政治活動で、初の勝利でした。
この2日後、具視は「神州万歳堅策」を孝明天皇に提出しました。
具視はこの神州万歳堅策の序文に5つの堅策と末尾に戯言をつけたと書いてあります。
その内容は、
- 日米和親条約の締結は不適当である
- 徳川家の存続に配慮を
- 国内の一致団結と国防について
- 皇都の警備防衛及び江戸・大阪について
- 通貨紙幣の流通について
戯言の方の内容は、
- 万事は金の世である
- 官位がある公卿も物価高騰により金銭に困っている
などでした。
攘夷一辺倒な意見ではなく、幕府も含め、国として一丸となって当たることの重要性と、諸外国を知るために欧米各国への使節派遣を提案しています。
公武合体を主張し、仙台藩や薩摩藩などの外様雄藩と手を結び幕府と対立をしてはならない、と論じたのです。
安政の大獄
安政5年(1858年)6月19日、大老・井伊直弼が天皇の勅許なしに日米修好通商条約を締結しました。
井伊に抗議した徳川斉昭や松平春嶽らは幕府により謹慎処分を受け、開国派の勢いが増しました。
後に老中奉書で条約の締結を知った孝明天皇は激怒し、水戸藩に対して戊午の密勅と呼ばれる勅書を出しました。幕府をないがしろにしたこの密勅を取り返すべく、幕府は安政の大獄と呼ばれる、尊攘派や一橋派に対する弾圧を行ったのです。
この時、具視はこの弾圧が皇室や公家に広まることを恐れ、朝幕関係を悪化させないように京都所司代・酒井忠義や伏見奉行・内藤正縄らと会談し、天皇の考えを伝え、朝幕関係の改善が必要であると説いていました。
安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変が起こり、大老・井伊直弼が暗殺されました。
老中首座に就任した安藤信正は井伊政権時から検討されていきた孝明天皇の妹・和宮と将軍・家茂との婚姻をもって公武合体をなし、幕府の権威回復を画策していました。
幕府からの申し出に対し当初朝廷側は難色を示していました。
和宮には有栖川宮熾仁親王との輿入れが決定済みであり、和宮も江戸下向に乗り気ではなかったからです。
しかし、具視は「和宮御降嫁に関する上申書」を提出し、和宮降嫁を推進しました。
幕府は自らの権威失墜を認め朝廷の威光によって権威回復を狙っていると具視は分析していました。
具視は天皇に召され諮問され答えているのですがその内容は、
- 朝廷の下で人心を取り戻し世論公論に基づいた政治をするべきだが、今は公武一和を天下に示すことが必要
- 政治決定は朝廷、執行は幕府が当たるという体制を構築すべき
- 通商条約の破棄を実行するならば、今回の縁組を特別に許すべき
と答えています。
孝明天皇は具視の意見を受け、条約破棄・攘夷を条件に和宮降嫁を認めました。
文久元年(1861年)10月20日、和宮下向の準備を万事手配した具視は、和宮下向に朝廷の勅使として随行することになりました。
11月26日、江戸城にて下総関宿藩主・久世広周や安藤信正ら老中と対面し、勅書の質問はもちろん、幕府が和宮を利用して廃帝を企てているという噂の真偽を問うています。
このような噂が二度とないように、将軍・家茂が誓書を書くように促しました。
これは、朝廷の権威を高揚させるために行った具視の策略でした。
孝明天皇は将軍誓書の提出に大変喜び、「勲功の段感悦す」とその功労をねぎらいました。
失脚~
文久元年(1861年)、長州藩主が献策した「航海遠略策」は孝明天皇から高い評価を受け、長州藩は公武周旋役に内定されました。
これは、外国人排斥などの小攘夷ではなく、積極通商により国力を高め諸外国と対抗しようという大攘夷を目指すというものでした。
しかし、航海遠略策を建白した長州藩士・長井雅楽と久坂玄瑞の対立により長井が失脚。
長州藩の藩論は長井の開国から久坂らが主張する破約攘夷へと変わりました。
同時期、薩摩の島津久光は兵を率いて入京してきました。
公武合体と幕政改革のための上洛でしたが、尊皇攘夷派は討幕・王政復古の好機として京に集結、尊皇攘夷の気運が高まりました。
尊攘派は薩摩の挙兵をもって各地で蜂起する計画でしたが、久光は薩摩藩の過激攘夷派を寺田屋で粛清し、尊攘派の企てを潰しました。
久光は天皇の信頼を得て、京都の守護を命じられ、幕府の機関である京都所司代の力は急速に衰えていきました。
幕府は安政の大獄で処分を受けた一橋慶喜を将軍後見役、松平春嶽を政治総裁職として復帰させることになりました。
薩摩藩が天皇の勅命を受けたため、公武周旋の主導権を薩摩に奪われた長州は、薩摩への対抗心から尊攘運動を過激化させていくことになりました。
長州は即時の破約攘夷を主張するようになり、朝廷内の工作を進め急進派の勢いが増してきました。
全国の浪士たちが次々と京にやってきて天誅の名のもとに佐幕派の要人たちを襲うテロ行為が頻発し、京都所司代では対処できないほどになっていました。
松平春嶽は会津藩の松平容保に京都守護職への就任を要請し京の治安維持への対策としました。
薩摩の久光が江戸から京に戻った時には京の情勢は一変しており、尊攘急進派の勢いに圧倒されました。
薩摩の大久保らと会合を繰り返し、薩摩派となっていた具視は、尊攘派の志士から佐幕派と見なされるようになり、尊攘派公家らによる具視の排斥が始まりました。
まず近習を辞めるようにと勧告を受け、近習職の辞任に追い込まれ、次には「四奸二嬪」として弾劾され蟄居処分、さらに辞官と出家命令を受け、朝廷を去ることになりました。
具視への処分が甘いと土佐藩・武市半平太ら攘夷強硬論者は言い募り、具視が天誅の予告を受けるようになると、具視は自邸で蟄居ができず、西賀茂の霊源寺に身を隠し、次いで洛西の西芳寺に移り、最終的には長男が用意した洛北の岩倉村に、帰参が許される慶応3年(1867年)まで5年間も住むことになりました。
蟄居生活の中で、薩摩藩士や朝廷の同志たちが具視を訪れていました。
失意の中で悔しさをにじませていた具視でしたが、慶応元年(1865年)頃から政治意見書を書くなどの活動を再開しました。
この頃の京では八月十八日の政変、禁門の変が発生し、攘夷強硬論者が一掃されていました。
薩摩藩は公武合体の立場から討幕へ路線を変更しており、具視もそれに呼応するように倒幕派へと主張を変更していました。
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では、薩長同盟・亀山社中の働きにより、最新武器で戦った長州が数に勝る幕府軍を圧倒していました。
苦戦が続く幕府軍の外様雄藩藩主らから解兵の建白書が出され、また、将軍・家茂が心労から病に倒れ、薨去しました。
具視も外様雄藩や薩摩藩のように、解兵・長州との和解に賛成で、これまでの勤王の功績を鑑みて禁門の変は寛大な処置をすべきと主張していました。
しかし、孝明天皇や中川宮・二条斉敬ら朝廷首脳は長州征伐の続行を主張していました。
具視は、中川宮ら朝廷首脳を強く批判、朝廷の悪政を正すため、中御門経之や薩摩藩の協力を得て、再び列参を画策し始めました。
中川宮・二条斉敬の追放と近衛忠煕の関白再任、幽閉公卿たちの赦免を求めて中御門経之ら22卿が参内すると、中川宮と二条斉敬らは孝明天皇が引き止める中、辞職。
側近を突然失った孝明天皇は激怒し、列参に参加した公卿らに閉門を命じました。
廷臣二十二卿列参事件です。
その後、幕府軍が小倉にて敗戦するともはや万策尽き、朝廷首脳部も解兵に頷きました。
9月2日、長州藩と幕府は休戦協定を結び、第2次長州征伐は終了しました。
その年の12月25日、孝明天皇が天然痘により崩御しました。
慶応3年1月9日、15歳の明治天皇が即位しました。
新帝即位による大赦で文久3年の政変と禁門の変に関わった者たちが1月15日と25日に赦免されました。
具視ら列参に関わった者たちはその時は許されず、11月に赦免されています。
その年の10月14日、15代将軍に就任していた徳川慶喜は二条城で大政奉還を行い、朝廷に政権が返上されました。
王政復古
大政奉還は行ったものの、慶喜が実質的権力を握ることを危惧した具視は、薩摩の大久保利通や土佐の後藤象二郎らと共に慶喜に辞官納地させるべく画策を始めました。
諸侯会議が召集されたものの、朝廷首脳(二条斉敬や中川宮)らに慶喜を中心とした新体制を作られることを危惧した具視は、薩摩・芸州・土佐・尾張・越前藩の重臣らと朝廷首脳排除と慶喜を抜かした新体制を樹立するクーデターを計画し始めました。
それが王政復古の大号令です。
12月9日、朝議を終えた公家らが退出すると、待機していた5藩の兵が御所九門を封鎖、具視は参内し王政復古の大号令を発し、新政府が樹立しました。
王政復古の大号令の内容とは、
- 将軍職辞職を勅許
- 京都守護職、京都所司代の廃止
- 幕府の廃止
- 摂政、関白の廃止
- 新たに総裁、議定、参与の三職を置く
というものでした。
有栖川宮を政府首班の総裁、松平春嶽や山内容堂らが議定、具視や大久保利通、西郷隆盛らが参与に就任しました。
慶喜には辞官納地返上が命じられましたが、配下の気持ちが落ち着くまでとして、命令を謹んで受けながらも直ぐには実行しませんでした。
政府への恭順を示すため、二条城から大阪城に退去した慶喜でしたが、その後連絡が取れなくなりました。
大久保はこれを慶喜の裏切りと主張し、直ちに領地返上を求めるべきとしましたが、旧幕府内の過激派による妨害の可能性もあるとして、徳川の領地を調べた後、政府会議によって確定する、という方針に決まりました。
この頃、慶喜の復権を阻止するため、薩摩藩が暗躍していました。
旧幕府を挑発することによって旧幕府側から戦端を開かせようとしたのです。
江戸市中において、薩摩藩浪人たちの挑発行為がエスカレートする中、慶喜の周囲には「薩摩討つべし」の声が高まりました。
慶応4年(1868年)、朝廷への訴えと薩摩征伐のため、慶喜は京に出兵を開始しました(鳥羽伏見の戦い)。
慶喜の出兵に緊張が走った新政府は、直ちに緊急会議を行い徳川征討軍が編成されました。
徳川征討軍大将の仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を掲げ進軍したため、各藩が次々と応援を派遣してきました。
旧幕府軍は新政府軍に寝返える者が続出し、敗走が続きました。
大阪城に居た慶喜は側近数名と密かに江戸に逃れ、総大将の逃亡を知った旧幕府軍は戦意を失い大阪城を放棄して各自領に帰還しました。
新政府内で徳川征討に反対していた松平春嶽の発言力は弱まり、賛成していた具視の発言力が高まっていきました。
土佐の山内容堂とも慶喜の処遇をめぐり対立が深まりました。
鳥羽伏見の戦いは「薩長が仕掛けた不当な戦いである」と山内容堂が抗議すると、具視は「ならば土佐は幕府につけば良い」と一蹴しました。
1月7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府軍は朝敵となりました。
鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争は、以降、上野戦争、北越戦争、会津戦争、箱館戦争と続きます。
この頃の新政府総裁の有栖川宮は自ら政治的権力を振るうことを嫌い、議定・参与らが決めたことを裁定するだけでした。
4月21日、明治新政府はアメリカ合衆国の政治制度を参考に三権分立型政府へ移行しました。
具視は国内行政全般と宮中の庶務を監督する役に就任し、実質的な政府首班となりました。
上野戦争後、江戸が平定されると、8月に天皇の江戸行幸が発表され、10月に旧江戸城(東京)に入城すると、そこを新皇居と定められました。
京都市民の感情を考慮し、明治2年(1869年)1月に明治天皇が京都に還幸すると、同行した具視が突如病気を理由に補相の辞職を求め、大久保や木戸らの引き止めにも関わらず17日には辞職しました。
その後、廃藩置県が行われ、大名は華族となり、日本は一つの国家一人の元首の元、近代統一国家となりました。
同日、具視は外務卿となり、7月には右大臣も兼務することになりました。
外務卿となった具視は不平等条約改正交渉をするため、まずは近代国家の視察を行い、帰国後文明開化を成し遂げることを目的に、使節団の派遣が決まりました。
具視は自ら特命全権大使として参加し、副使として木戸や大久保、工部大輔、伊藤博文らを伴い欧米諸国を巡りました。 いわゆる岩倉使節団です。
使節46名、随員18名、留学生43名など総勢107名で構成されていました。
その中で各国元首と面会し国書を手渡したものの、条約改正の糸口は掴めなかったといいます。
1年10か月の旅の中で、直に西洋文化に触れ、多くの国の国情を知り、比較体験したこと、欧米の鉄道技術や産業を目の当たりにした岩倉使節団は驚愕し、大きな影響を受け、帰国しました。
帰国した岩倉使節団員はそれぞれ欧米諸国で学んだことを活かし、文明開化に尽力しています。
征韓論
1871年、岩倉使節団が欧米諸国視察のため、日本を留守にしていた時、留守政府を預かっていたのは三条実美・西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らでした。
明治親政府としては、これまで対馬藩を通じて朝鮮通信使との往来があったため、新政府下でも国交の継続交渉を行おうと使者を送ったのですが、朝鮮側に拒否されてしまいました。
日本は繰り返し交渉使節を送るのですが、朝鮮側の態度は軟化せず、むしろこれまで鎖国をしていたのに欧米の真似をして開国を迫るなど恥ずかしい、と侮辱されてしまいました。
日本としては、対ロシアの対策として、朝鮮の強化と独立を保つことがどうしても必要だったのですが、朝鮮側の態度に憤った板垣らは、武力でもって開国を迫るべき、という主張を始めました。
これが征韓論です。
武力でもって朝鮮を開国に導く、ということに反対したのは西郷隆盛です。
征韓論の代表の様な扱いをされている西郷ですが、むしろ、武力ではなくもう一度朝鮮に使節団を派遣して誠心誠意話し合いによって開国に導こうと主張し、その大使に自分を任命して欲しいと嘆願していたのです。
もし、自分が殺されてしまったらそれを大義名分にし、朝鮮を攻めろ、という「征韓論」ではなく、「遣韓論」を主張していました。
明治6年(1873年)、何度も閣議が行われる中、西郷の主張が通り閣議決定を経て明治天皇に報告されましたが、明治天皇より「岩倉具視の帰国を待て」との勅旨があり、決定は具視の帰国を待ってからとなりました。
9月に岩倉使節団が帰国すると、具視や大久保は内政(富国強兵や殖産興業政策)の方が重要として、朝鮮派兵どころか、西郷の遣韓論にも反対しました。
一旦は閣議で西郷の派遣が決定されたのですが、西郷と具視らは対立し、具視は抗議のため右大臣の辞意を表明、大久保や大隈重信・木戸孝允なども参議の辞意を表明しました。
この対立に太政大臣・三条実美は耐え切れず発病し、代行となった具視は閣議決定の上奏を拒否、宮廷内の工作を開始し、全権大使派遣を取りやめてしまったのです。
破れた西郷は参議・陸軍大将・近衛都督を辞職し薩摩へと戻りました。
また、征韓論に賛成していた板垣・後藤・江藤・副島らも参議を辞職、さらに元薩摩藩士を中心に政治家・官僚・軍人らが600名を超える人々が辞職しました。
この決定に不満を持った征韓論を支持する士族らから具視は命を狙われるようになり、明治7年1月14日に襲撃を受けるという事件が起こりました(喰違の変)。
2月には辞職した江藤を担いでの反乱(佐賀の乱)が発生。
そして明治10年、西郷を担いだ西南戦争が始まりました。
華族問題
明治9年(1876年)4月19日、具視は華族会館の館長となりました。
明治初期の華族は公家出身の華族と大名出身の華族らで度々対立を起こしていました。
具視は華族統制政策を取り華族の組織化を図り、また華族懲戒令を定め、華族のスキャンダルなどを華族の品位を貶めたとして処罰しました。
しかし、具視の公家贔屓の政策に武家華族が不満を持つようになり、明治10年7月、華族統制の廃止を求める要望書が提出されました。
同年11月15日に部長局は廃止、12月4日に具視は館長を辞職しました。
しかし具視は宮内省の中に華族局を作り、華族統制を続けさせたのです。
これ以降、帝国議会の貴族院が開かれ、華族の役割がはっきりしてくると、武家と公家の対立も収まるようになっていきました。
立憲問題
明治8年(1875年)4月14日に明治天皇が立憲政体の詔書を出しました。
参議に復帰していた木戸・板垣が政体改革案「立憲政体のご布告案」を作成、奏上したものでした。
具視は国体一変の恐れがあるとして立憲に反対していました。
明治13年(1880年)頃から自由民権運動が高まり憲法制定の必要性を感じた具視は、これまでの反対意見を取りやめ、憲法制定に取り組むことになりました。
大隈重信はイギリス流の議員内閣制の憲法を主張し、伊藤博史はドイツ憲法を主張しましたが、具視は伊藤のドイツ憲法を支持し、大隈を罷免したのです。
そして伊藤は、憲法調査のためヨーロッパ各国を巡ることになります。
明治16年初頭、東京大学医学部教授をしていたベルツ医師の診察を受けた具視は、咽頭癌を宣告されました。
日本で最初の癌告知でした。
7月20日、具視は亡くなり、7月25日に日本初の国葬が執り行われました。
享年59歳でした。
岩倉具視を演じる笑福亭鶴瓶さんの演技に期待
笑福亭鶴瓶さんは
昭和26年12月23日生まれ。
大阪出身の落語家でありタレント、俳優、歌手、司会者、ラジオパーソナリティです。
昭和47年2月14日、6代目笑福亭松鶴に入門、内弟子となり上方落語会会員として登録され、上方落語協会相談役を務めています。
ドラマ・映画にも多数出演し、「ふしぎな岬の物語」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。
「おとうと」「ディア・ドクター」で主演男優賞など、数々の受賞歴があります。
大河ドラマ「西郷どん」での岩倉具視役は、脚本の中園ミホさんの鶴の一声で決まったといいます。
公家として生まれながら公家らしくなく、様々な苦労をして公家社会の裏も表も知り尽くし、権謀術数を繰り広げながら明治政府を確立していく岩倉具視という役に、鶴瓶さんはぴったりだったのでしょうね。
実際、鶴瓶さんの岩倉具視に驚愕し、妙に納得してしまった自分がいます。
没落していながら諦めないバイタリティ、人を惹きつけずにはいられないカリスマ性、人々を牽引していく膨大なエネルギーを見事に演じておられました。
今後は明治政府確立のために様々な活躍をしていく岩倉具視。
鶴瓶さんの怪人・岩倉具視に期待しています。
最後に
幕末の日本の中で、討幕、新政府樹立、憲法制定、貴族の保護、鉄道会社の設立など、明治政府に多大な貢献をした岩倉具視。
日本の近代化に大きな役割を果たしました。
今はほとんど見かけませんが、旧500円札の肖像に選ばれるくらい日本に貢献した偉人だったのですね。
大河ドラマ「西郷どん」では、これから明治政府樹立に向けての緊迫したシーンが続きます。
岩倉具視の活躍が楽しみです。