2021年大河ドラマ「青天を衝け」は、NHK総合にて毎週日曜夜8時から、BSP、BS4Kにて毎週日曜午後6時から、毎週土曜日午後1時5分から再放送が放送中です。
前回のあらすじ
徳川慶喜公伝の編纂をしていた際に、慶喜が語った「自分の役割」について、渋沢栄一(吉沢亮さん)は考え、実業界の引退を決めました。
その後、伊藤博文(山崎育三郎さん)と会った栄一は、アメリカに赴き、日本の移民と現地民の間の改善を図りたいと語りました。
伊藤は韓国問題を、栄一は米国を、と2人は互いの目的に向かって、激励し合うのでした。
妻・兼子(大島優子さん)と姪を含む、51名からなる渡米実業団は、特別列車に乗って米国各地を訪問しました。
米国大統領との面会では、栄一たちの訪れを歓迎し、米国は日本と商いの戦い、「peaceful war」をすると伝えられ、これからの友好を示されました。
しかし、栄一はその言葉に違和感を覚えたのです。
渡米中の栄一のもとに、韓国で活動していた伊藤博文が暗殺されたという知らせが入りました。
日本が韓国を一時的に保護国とし、その間に韓国の国力を高め、いずれは韓国の独立を目指そうと考えていた伊藤でしたが、韓国の独立運動家に暗殺されたといいます。
栄一たちがこれから訪れる西海岸は、反日感情の強い地域です。
栄一を心配した秘書たちは、サンフランシスコでのスピーチを中止するよう進言しますが、栄一はスピーチを敢行。
「no war」と自分の言葉でその思いを届けた栄一のスピーチは、集まった米国実業家の胸に届き、盛大な拍手を受けたのでした。
こうして、栄一たちの3か月に及ぶ旅が終わりました。
1910年、篤二の不祥事が新聞に載りました。
姉のうたこや義兄の穂積が言葉を尽くしても直らない篤二の遊びグセ。
栄一は、篤二の廃嫡という苦渋の決断をしたのです。
明治天皇が崩御し、大正元年、血洗島を訪れた栄一と従兄弟の渋沢喜作(高良健吾さん)。
喜作は「新しい世まで生きた」と笑いました。
そして、今度は中国に行って民間外交に励みたいという栄一に、「少しは諦める心も覚えろ。誰もがおめえみてえに前ばっかり向いて生きられるわけじゃねえんだからな」と諭したのです。
幼い頃から栄一と共に生きた喜作は、74歳で生涯を終えました。
「徳川慶喜公伝」の最終修正を受け取った栄一は、これで漸く真相を世間に知らしめられると喜びます。
原稿を渡した徳川慶喜(草彅剛さん)は、あの頃、自分はいつ死ねば徳川の名を汚さずに済んだのかと、そればかりを考えていたと語ります。
しかし今、漸く生きていて良かった、話ができてよかった、楽しかったなあ、と栄一に笑みを向けたのです。
そして、「尽未来際、共にいてくれて感謝しておる」と栄一に感謝を伝えました。
「快なり!快なり、快なり、快なりじゃ!」と満面の笑みを浮かべた慶喜。
慶喜は徳川歴代将軍一の長寿、77歳で天寿を全うしました。
中国の革命家・孫文が栄一を訪ね、援助を申し入れてきました。
栄一は孫文に経済人になることを勧め、経済のための援助ならば協力する、と約束をしたのです。
しかし、孫文は内紛に巻き込まれ、栄一との約束を果たせず、無念の思いを手紙に綴りました。
世界情勢はさらに悪化し、第一次世界大戦が勃発。
首相の大隈重信(大倉孝二さん)は、栄一に経済界の協力を求めます。
栄一は大隈の政策を批判するのですが、日本の政策は変わらず、日本は日英同盟に従いドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加することになりました。
そんな中、栄一は孫の敬三(笠松将さん)に自分の後を継いで欲しい、と懇願したのです。
前回、第40回「栄一、海を越えて」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。
それでは最終回「青春は続く」のあらすじと感想です。
平和への道
1919年、ドイツが降伏し第1次世界大戦は終わりました。
日本政府は、パリ講和会議において、人種差別の撤廃を求める一方、中国山東半島のドイツ領土の権利を求めたのです。
それにより、日本に対する各国の警戒が強まりました。
中国や朝鮮でも反日運動が激しさを増し、栄一は打ちひしがれていました。
なぜ日本は嫌われるのだ、と項垂れる祖父を支える敬三。
敬三が、中には諸外国との戦争を望む声がある、と栄一に伝えると、そんな話は絶対にしてはいけない、とブツブツと小言を言いながら、執務へと向かいました。
そんな栄一の姿に、敬三は思わず笑みをこぼすのでした。
喜寿を機に実業界から完全に引退した栄一。
長年手がけてきた「徳川慶喜公伝」も完成しました。
隠居した栄一ですがその気力は全く衰えず、毎日6時に起床、入浴後、朝食を取り、7時には栄一に面会を求めて押し寄せる人々と対面します。
公衆衛生や福祉事業、都市開発や教育事業、社会事業と毎日平均15時間は熱心に働いています。
また、たくさんの子や孫にも恵まれました。
嫡孫の敬三は、栄一の求め通り、仙台二校を卒業後、東京帝大に入り、栄一の後継として祖父を手伝う毎日です。
ある日、本を読んでいた敬三は、本の間に挟まれていた若き日の栄一の写真を見つけると、初めて祖父をもっと知りたいと思うようになりました。
栄一は、悪化するばかりだった日米関係を、民のレベルで改善しようと活動を続けていました。
日本有志協議会において、米国人たちに、なぜ日本はカリフォルニアで排斥されなければならないのか、理由を聞かせて欲しいと栄一は質問します。
米国人たちは、日本人は米国になじまず、安い賃金で働き、米国人たちの仕事を奪っているからだと答えます。
しかしそれは、米国政府が募集し要請したことです。
外国人差別はおかしい、と栄一が批判すると、米国人たちは、日本だって中国人に対して差別しているではないか、と反論を受けるのです。
米国との関係改善のために、栄一は外交官をたくさん家に招き、もてなし、互を知ろうと努め、民間外交に励みます。
ある日、首相の原敬(石丸謙二郎さん)と面会した栄一は、日本がワシントンで行われる国際会議参加に消極的であることに、苦言を呈します。
積極的に参加し、日本の移民問題を解決するべきと訴えるのですが、それは米国の内政に関わることだと難色を示されてしまいます。
1921年、敬三は東京帝大を卒業すると、横浜正金銀行で働きたいと栄一に訴えました。
栄一は、第一銀行への就職を斡旋しようとしていたのですが、まずは外で働きたいという敬三の意思を尊重し、好きなようにしろ、と許可を出しました。
病に伏せっている大隈重信の見舞いに訪れた栄一。
長年付き合いのある栄一の訪れに大隈は喜びます。
栄一は、ワシントンで行われる軍縮会議での政府の対応について不安を口にします。
日本が世界から孤立するかもしれない危機に日本でのうのうと寝ていられない、という栄一に、大隈は日本に居て余生を楽しめ、と諭します。
そして、なぜ政治家にならなかった?と問いかけました。
「いまだに君に頼るしかなかとは、情けなかことであるんである。しかし、そいでも頼む。決して、アメリカと戦争の道に進んではならんのである」と、大隈は日本を栄一に託したのでした。
栄一は、ワシントン会議に合わせて4度目の渡米をしました。
軍備縮小に賛成を唱える栄一は、駐米大使の幣原喜重郎(近藤芳正さん)にさらに会議において移民排斥問題を加えて欲しいと訴えます。
「排日移民問題は日本のために是非今すぐ解決すべき事柄です。討議の項目に加えていただきたい」というのですが、弊原は、その議題が出れば会議は必ず紛糾すると反論します。
「なぜこの会議で移民問題が大事か。それは国と国の関係が、結局は人と人の関わりだからだ。外交問題だけではない。人間の根っこの心の尊厳の問題なんだ」と訴えかける栄一に、弊原は、渋沢さんはやっぱり凄い。日本にはまだ渋沢さんが必要だから、長生きして欲しいと呟きます。
そして、首相の原敬が暗殺されたと知らせたのでした。
ワシントン会議で日本は欧米の提案を受け入れ、世界は僅かながら軍縮が進みました。
しかし、栄一が望んだ排日移民問題は取り上げられることはありませんでした。
それでも栄一は諦めず、平和を訴える旅を続けました。
その旅の途中、栄一は大隈重信の死を知りました。
1922年、敬三は岩崎弥太郎の孫・登喜子(今泉マヤさん)と結婚しました。
横浜正金銀行のロンドン支店に勤務が決まった敬三は、渡英の挨拶にやってきました。
父・篤二に会った際、父は栄一や家族に悪いことをしたと悔いていたと言います。
「人間にとって、親子の情は永遠に切れることはない、そう思っております」
父を許し、今一度再生の機会を与えて欲しいと、敬三は懇願したのです。
栄一は敬三に「お前は優しい子だ…」と答えたのでした。
関東大震災
1923年9月1日、関東大震災が起こりました。
自宅の執務室に居た栄一は、大きな揺れで倒壊する建物の中から救い出されました。
焼け出された人々や倒壊した建物を、呆然として見回した栄一。
そこに、兜町の事務所が全焼したとの知らせが入りました。
明治から積み上げてきたもの全てが無くなってしまい、栄一も皆も声を無くします。
そこに、家族を心配した篤二が駆けつけてきました。
栄一は篤二の姿を確認すると、涙を浮かべて篤二のもとに歩み寄り、力強く抱きしめ、篤二の無事に安堵したのです。
翌日から栄一は精力的に動き始めました。
渋沢家にある使えるものは全て出し、避難者の救護所を設置しようとします。
しかし、焼け出された暴民が、過激な社会主義者に扇動され、裕福な家を襲うという噂があると息子たちは心配し、栄一に血洗島に戻っていた方がいいのではと提案しました。
しかし栄一は、「何を馬鹿なことを。私のような老人は、こんな時に僅かなりとも働いてこそ生きる申し訳が立つんだ。それを田舎に逃げようとは、なんと卑怯千万な!」と憤ります。
栄一のもとに、海外からの義援金と支援物資が続々と届きます。
栄一が発信した電信に、海外の友人たちが答えてくれたのです。
反日運動をしている米国や中国からの支援に、栄一は感謝の気持ちでいっぱいでした。
栄一は、友とはありがたいものだ、と呟きました。
しかし、アメリカ議会では排日移民法が可決されてしまいました。
日本の社会主義者たちは、全てを犠牲にして戦おうと街頭で声を上げています。
栄一が平和のために費やした10年来の努力は無駄になってしまったのです。
1925年、ロンドンの敬三と登喜子の間に第一子が生まれました。
栄一に名付けを頼んだ2人は、栄一が付けた「雅英」の名で嬉しそうに呼びかけます。
敬三は、登喜子に日本に帰ろう、と言ったのでした。
日本に戻った敬三は、生物学を深く学ぶことはできなかったけれど、栄一のことは詳しく知りたいと思うと栄一に伝えました。
隣国の水害
そして、時代は昭和になりました。
1931年のある夜、孫たちが新撰組についての本を声に出して読んでいると、それを聞いていた栄一は「土方歳三は、私の友だ。誠だぞ」と告げました。
かつて、土方と一緒に戦ったことがあるというと、孫たちは興奮し、栄一の話を聞きたがりました。
その夏、中国は異常な長雨で甚大な被害を受けました。
日本では、中華民国水災同情会が立ち上げられ、91歳の栄一が会長に就任しました。
しかし、募金活動の機運が盛り上がらず、栄一はラジオで募金を呼びかけて欲しいと依頼を受けます。
家族は栄一の体を心配し、これ以上の負担をかけたくないと断ろうとするのですが、栄一は「こんな老人がまだ役に立つと言ってくれているんだ。励まぬわけにはいかぬだろう」と依頼を承諾。
ラジオ局に行けぬ栄一のために、栄一の自宅をラジオ局にして、自宅から栄一の声を届けることになりました。
初めてのことに、ちょっとぐるぐるしてきた、と興奮する栄一。
こうして、栄一の放送が始まりました。
「さて、中華民国の水災を救うために、皆さんのお力をお借りしたいのであります。中華民国と我が国は親しい交わりがあります。同じ文字を使い、昔から互いに手を取り合ってきました。その隣国が水害にあい、被災者の数は1千万人の多くきに達している。思い出してください。かの関東の震災の時、中華民国の人々は我が国を救おうとたちどころに多くの義援金を送ってくれた。当時、反日運動の最中だったにもかかわらずです。あの時、私たちがどれだけ励まされたか。思い出してください。今度は日本が立ち上がる番だ。大丈夫、大丈夫。大丈夫だい。私が言いたいことはちっとも難しいことではありません。困っている人が居れば助け合いましょう。人は人を思いやる心を、誰かが苦しめば胸が痛み、誰かが救われれば温かくなる心を当たり前に持っている。助け合うんだ。仲良くすんべえ。そうでねえと、とっ様やかっ様に叱られる。皆で手を取り合いましょう。皆が嬉しいのが一番なんだて。どうか、せつに、せつにお願いを申し上げます」と訴えました。
街頭でラジオを聞いていた人々にも、家族にも、栄一の言葉は届きました。
話し終えた栄一は、そばに控えていた敬三に、「届いたかなあ?」と呟きます。
敬三は笑みを浮かべながら力強く「はい!」と答えたのでした。
この呼び掛けにより、募金は驚く程集まりました。
しかし、満州にいた日本軍が鉄道を爆破。
満州事変を起こしました。
中国は、厳重な抗議の意思表明のため、せっかく集めた支援物資は受け取りを拒否したのでした。
栄一、最後の思い
1931年11月11日、病により臥せっていた栄一は、傍らの篤二の手を握りしめ、「あったけえなあ…。手を繋ぐんべ。皆で幸せに…」とうわ言を口にしました。
異変を感じた篤二は、敬三に兼子を呼ぶように指示を出しました。
そうして、栄一は家族に見守られながら91歳で永眠しました。
実業界が、栄一の追悼会を開き、後継の敬三が集まった人々に謝辞を述べます。
「私は、世間でよく祖父が「近代資本主義の父」だとか、「実業界の大御所」などと「偉人」のように言われるのを何となく的外れな批評に思っておりました。ある面ではそうなのでしょう。しかし、私にとっての祖父は、よく食べ、よく喋り、…本当によく喋るんです。時には自分勝手で時には子供のようにボロボロと涙を流し…。そう、偉人というよりむしろ、郷里・血洗島の青空の下で励む一人の青年、そのもののような気がしていたからです。祖父にはこの程度で満足、とか、ここまでやれば十分だ、などと力を惜しむことは少しもなかったように思います。常にもっと国を良くしたいと、もっと人を守りたいと、そればかりを考えて生きていたように思います。しかし、全力を尽くしても、その成果は棒ほど願って針ほど叶うことばかりで…。偉人という響きはどうも祖父には似合いません。皆さんには祖父の失敗したこと、叶わなかったことも全て含んで、お疲れさんと、よく励んだと、そんな風に渋沢栄一を思い出していただきたい」と語りました。
そして懐から一通の手紙を取り出すと、栄一から皆さん宛に伝言を預かっていると代読を始めました。
「長い間、お世話になりました。私は100歳までも生きて、働きたいと思っておりましたが、今度という今度はもう立ち上がれそうにもありません。これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。死んだ後も、私は皆様の事業や健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも他人行儀にはしてくださらないよう、お願い申します。渋沢栄一」
代読が終わると、清々しい笑みを浮かべ、敬三は深々と頭を下げたのでした。
ある日、敬三が血洗島の桑畑を抜けると、畑の真ん中で励んでいる若き日の栄一の姿が見えました。
「おーい、今、日の本はどうなってる?」という栄一の問い掛けに
「それが、恥ずかしくてとても言えません」と敬三は答えます。
「何言ってんだ!まだまだ励むべ!」と笑い声を上げる栄一。
その栄一の姿を目に焼き付けた敬三は、踵を返し、歩き出しました。
畑で桑を振るう栄一に、両親を始め、妻や友、懐かしい人々の声が聞こえてきました。
栄一は顔を上げ、破顔し高らかに笑うと、血洗島中を走り始めました。
青く澄んだ空の下、小高い丘に登った敬三は、天に向かって手を伸ばし、お日様を掴んだのでした。
最後に
素晴らしく清々しく、本当に素敵な物語でした。
全41回といういつもの大河ドラマより短いのが残念でなりません。
主演の吉沢亮さん始め、出演者、スタッフの方々、本当にお疲れ様でした。
当初、日本資本主義の父、渋沢栄一という人物のことをよく知らず、またそんなに興味も持てないのではと危惧しながら視聴していたのですが、初回の吉沢亮さんのエネルギーの迸る熱い演技に、栄一のこれからに大いなる期待と興味を持つことができました。
栄一の熱い思いを受け取る、草彅剛さん演じる徳川慶喜の気品溢れる佇まいに見惚れ、堤真一さん演じる側近・平岡円四郎のユーモラスな演技に惹きつけられました。
その後は、栄一の幼少時代を演じた小林優仁さんの愛らしさ、父・市郎右衛門を演じた小林薫さん、母・ゑいを演じた和久井映見さんの優しく温かい演技に魅了されっぱなしでした。
この頃は、農家の栄一と、中央で起こっていた出来事2つの視点から見ることができました。
栄一視点だけではわからなかった世情がよくわかる構成になっていました。
高度な教育を受け、田辺誠一さん演じる惇忠に導かれ、倒幕へと傾倒する青春時代。
あの頃の暗い不穏な感じは、緊張感が溢れていました。
長七郎役の満島真之介さんの切ない演技が印象的でした。
憎まれ役の酒向芳さんの演技は忘れられません。
水戸藩の徳川斉昭も素晴らしく印象的でしたね。
竹中直人さんはいつもインパクトのある演技で、私たちを魅了してくれます。
徳川の後継問題も詳しく描かれており、非常にわかりやすかったです。
13回からの一橋家臣編では、栄一の転機となる平岡円四郎との出会いにワクワクしました。
円四郎と栄一の絆、慶喜と円四郎の絆、そして慶喜と栄一の絆に高揚していました。
一橋を良くしようと、栄一がどんどん良い方向に変化していくのを毎回楽しみにしていました。
一橋家臣団の皆さんも実にいい味を出していて、本当にほっこりする場面が多かったです。
大変な時代ではありましたけどね。
円四郎との別れのシーンでは涙が止まりませんでしたよ。
22回からのパリ編では、栄一の苛立ちと慶喜の苦悩が伝わり、胸が苦しくなっていました。
外国と朝廷との間で苦しい立場に置かれる慶喜。
薩摩の暗躍に苦しめられ、回避できなかった戦争とその結末に、無常観に襲われました。
それでも、この渡欧は、栄一に素晴らしい影響を与えたのです。
このあたりは見ごたえがありましたね。
26回からの静岡編では、静岡藩立て直しのために動き出した栄一の生き生きとした姿に安心しました。
戦争によって、亡くなった人々の多さに苦しくもなりましたが…。
たくさんの人が打ちのめされましたが、前を向く栄一の姿に、勇気をもらいましたね。
29回からの明治政府編は、非常に小気味よかったです。
あれだけ徳川を貶めた新政府が、旧幕臣を頼らざるを得ない状況に胸がスッキリしました。
また、明治政府には味の濃い役者さんが勢揃いしていて、本当に面白かったです。
大隈重信役の大倉孝二さんの「であーる」は、忘れられません。
栄一と繰り広げた舌戦は、本当に見事でした。
32回からの実業〈算盤〉編では、三野村利左衛門を演じたイッセー尾形さんに魅了されました。表情、口調、仕草に間、全てに目が釘付けになりました。
不気味で恐ろしい商売人の顔をしていながら、好々爺のような剽軽な演技。
素晴らしかったです。
岩崎弥太郎を演じる中村芝翫さんの重厚な演技にも圧倒されました。
そんな濃い人物の中にあって、一服の清涼剤のような爽やかな印象を与えるディーン・フジオカさん演じる五代友厚に癒されました。
様々な事業が展開していく様や、戦争で傷ついた人物たちが立ち直り、活躍していく様は心がスっとしました。
38回からの実業〈論語〉編では、栄一の家族について、描かれていました。
偉人と呼ばれる父を持つ息子の苦悩を、言葉ではなく、表情や仕草で表現する篤二役の泉澤祐希さんは素晴らしかったです。
憂いのある表情で、篤二の不安や恐れを見事に演じていました。
後継となった敬三役の笠松将さんが最終回の語りを担当しましたが、それもまたグッときましたね。
このあたりから、栄一に関わりある人々がどんどんと旅立って行きました。
病死、暗殺、様々ありましたが、やはり心に残るのは慶喜との最後のエピソード。
「快なり!」の場面ですよね。
慶喜の穏やかで、晴れやかな表情に、清々しい気持ちになりました。
ドラマの中で、たくさんの人の死が描かれました。
藤田東湖、橋本左内、徳川斉昭、歴代将軍、井伊直弼、平岡円四郎、長七郎に平九郎、土方歳三、大久保利通や西郷隆盛、市郎右衛門やゑい、三野村利左衛門、五代友厚、岩倉具視に岩崎弥太郎、伊藤博文、井上馨、大隈重信、原敬そして、千代に喜作に徳川慶喜。
志半ばで亡くなった命や、天寿を全うした命に涙しました。
栄一の波乱万丈に満ちた人生を描いたこの作品は、栄一の成功と失敗を経て、大きな思いを知ることができました。
行動力溢れる栄一を支える家族、主君を支える家臣たち。
ほんの短い間に、停滞していた時が一気に動き出したような激動の時代を駆け抜けた栄一たちの物語は、これで幕を閉じました。
それぞれの役者さんたちについて、感動したことについて、まだまだ語り尽くせない思いがたくさんありすぎて、うまく言葉にできません。
国民的イケメンと呼ばれる吉沢亮さんが青年期から晩年までを演じましたが、それぞれの時代で表情、仕草、演技が変わり、年齢に違和感を覚えることなく見ることができました。
吉沢亮さんのパワフルな演技も素晴らしいのですが、私は吉沢さんのちょっとした間の演技が大好きでした。
緊張をフッと緩ませる間と仕草。
ピリピリした雰囲気をあっという間に変える演技、素晴らしかったです。
対して、草彅剛さん演じる慶喜の静かな演技に圧倒されました。
本当に慶喜とはこういう人物だったのではと思わせる自然な演技に魅了されました。
評価が分かれる徳川慶喜という人物の見方をがらっと変えさせてくれる、素晴らしい慶喜だったと感動しています。
そうそう、全編を通して解説として見守り続けてくれた北大路欣也さん演じる徳川家康もいいアクセントになっていました。
毎回楽しみにしていました。
それにしても、素晴らしい役者さんが多すぎて、全てを語り尽くせません。
栄一と千代の夫婦愛について、栄一と兼子の深い信頼関係について、従兄弟達との絆について、共に戦った盟友たちについて、色々語りたいのですが、全くまとまりがつかなくて、申し訳ありません。
この物語を通して、私が感じたのは、偉人と呼ばれた渋沢栄一は、私たち一般人と同じ、成功も失敗も繰り返す普通の人であったということ、皆と同じ優しい気持ちを持った人であったということです。
栄一の最後のスピーチは、本当に感動しました。
母の教えを最後まで守り通した栄一に、栄一を育てた人々に、栄一に影響を与えた全ての人達に、感動しました。
私たちは、栄一の思いをそれぞれ受け継いで未来を生きなければいけないと、強く感じました。
栄一が目指した未来になれるよう、まだまだ励むべえ、ですね。
本当に素晴らしい物語に出会えました。
1年間お疲れ様でした。
このドラマに携わった全ての人々に、ありがとうございました。