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青天を衝け 第21回「篤太夫、遠き道へ」のあらすじと感想とネタバレ

2021年大河ドラマ「青天を衝け」は、NHK総合にて毎週日曜夜8時から、BSP、BS4Kにて毎週日曜午後6時から、毎週土曜日午後1時5分から再放送が放送中です。

目次

前回のあらすじ

将軍・家茂(磯村勇斗さん)が倒れ、駆けつけた一橋慶喜(草彅剛さん)に、家茂は「このままでは死ねない」と呟きました。

攘夷を果たせなかったからこそ、長州だけは倒さなければならない、と思いつめていたのです。

慶喜は家茂の心情を理解し、病が癒えたら徳川を守ってください、と励ましたのです。

しかし、その直後に容態は急変し、この3日後に家茂は亡くなりました。

これにより徳川の運命も渋沢篤太夫(栄一)(吉沢亮さん)の運命も大きく変わることになるのです。

家茂の死により、京から大阪に急ぎ向かわねばならない慶喜に、篤太夫は「将軍になってはいけない」と建白しました。

危ないとわかっている道をあえて進む必要はない、このまま一橋に残って欲しい、自分に慶喜を支えさせて欲しい、と篤太夫は必死に訴えるのですが、慶喜は何も言わず、立ち去ってしまいました。

大阪に入った慶喜のもとに、会津の松平容保らが訪れ、朝廷、老中の総意として、次期将軍には慶喜がなるべきである、と伝えました。

慶喜は、徳川の世は滅亡するよりないのかもしれない、と否定的だったのですが、目付の永井から家茂が「政務を慶喜に委任する」と言っていたと訴えられたのです。

慶喜は、自分は自分の思う通りに徳川に大鉈を振るうかもしれないが、それで構わないのか、と問いかけ、皆の了承を得ると、徳川宗家継承を決めました。

そして慶喜は、帝から節刀を授けられ、長州征討を命じられたのでした。

これにより、一橋家家臣も長州征討に参加することになりました。

万が一のことを考えた篤太夫は、懐剣と共に妻の千代(橋本愛さん)に手紙を送りました。

手紙を受け取った血洗島の家族は呆然としました。

父は息子は武士になったのだと理解し、母は嘆き憤りました。

そして妻は、声を殺して泣き崩れたのでした。

しかし情勢が変わり、小倉城が落ち、幕府軍の敗北が濃厚になると、慶喜は直ぐに兵を引き長州との和睦へと方向を変えました。

反対する松平容保の言葉を一蹴し、慶喜は、もはや帝以外に長州征伐を望んでいる者はいない、と動き始めたのです。

長州征伐が失敗したとの知らせを受け取った孝明天皇は苛立っていました。

そしてふと、蟄居処分を受けていた岩倉具視のことを思い出したのです。

その頃、岩倉は薩摩の大久保一蔵の来訪を受けていました。

岩倉は、公儀を踏み台にして朝廷に力をつけようと画策していたのですが、朝廷を司る公家の頭が古すぎる、と苦々しく吐き捨て、その愚痴を大久保に聞かせていたのです。

大久保が岩倉に、薩摩も長州も幕府を見限り天子主導の政権を目指したい、と告げると、岩倉は興奮し、王政復古を目指す、と息巻くのでした。

慶喜の宗家相続に伴い、一橋家家臣の一部も徳川宗家に召抱えられることなりました。

篤太夫と成一郎(高良健吾さん)も徳川宗家の御用人となり、陸軍奉行所の書記官として働くことになりました。

しかし、嫌っていた幕臣になってしまった篤太夫はくさり、いっそ辞めてしまおうか、と考え始めます。

成一郎は、臣下として慶喜を守りたいという気持ちは変わらない、と告げます。

意見が食い違った2人は口論から取っ組み合いのケンカに発展し、それから2人の間に気不味い雰囲気が漂うのでした。

そんな中、陸軍奉行所に謀反人捕縛の仕事が入ってきました。

荒くれ者の捕縛という危険な任務は嫌がられ、気が荒い、と噂される篤太夫に白羽の矢が刺さりました。

新選組の副長・土方歳三(町田啓太さん)が篤太夫の護衛となり、謀反人捕縛任務に向かいます。

土方は、自分たちが捕らえるのでその後篤太夫が役目を果たせばいい、と告げるのですが、それでは筋が違う、自分が先に奉行の命を伝えるのが筋である、と告げ、意見が食い違ったまま篤太夫は1人で突入することになりました。

篤太夫が正面から入ると、謀反人は抵抗を示し、護衛に篤太夫を襲わせます。

篤太夫も剣を持ち応戦するのですが、多勢の敵に囲まれ追い詰められてしまいます。

そこに土方が駆けつけ、賊を一掃したのでした。

助けられた篤太夫は土方を労います。

筋を通そうとした篤太夫の覚悟を褒めた土方。

篤太夫は自嘲しながら、自分が進んできた道を簡単に説明しました。

かつては大嫌いだった幕臣になってしまったと腐る篤太夫。

土方は自分も元は百姓であると告白し、自分は戦うのが目的だったから後悔はない、と話します。

土方の話を聞いていた篤太夫は、初心を思い出し、すっきりとした表情を見せたのでした。

その頃、江戸の小栗忠順(武田真治さん)は、慶喜にパリ万博の随行人は誰がいいかと相談の手紙を書送っていました。

その手紙を読んだ慶喜は、篤太夫の存在を思い出したのでした。

前回、第20回「篤太夫、青天の霹靂」を見逃した方はぜひこちらをどうぞ。

それでは第21回「篤太夫、遠き道へ」のあらすじと感想です。

パリへの打診

将軍・徳川家茂が逝去、慶喜が徳川宗家を継ぐことになりました。

篤太夫は、慶喜が手の届かない所へ行ってしまったと嘆き涙を浮かべていました。

そんな中、パリ万博の話が慶喜のもとに届き、慶喜は「渋沢はどうしているか」と原に呟いたのです。

パリ万博に慶喜の弟・民部公子(徳川昭武)(板垣李光人さん)が参加することになりました。

慶喜の側近・原市之進(尾上寛之さん)は、篤太夫を呼び出し、内々の話だとして、慶喜の意向を伝えたのです。

「フランスのパリにて、博覧会というものが催される。なんでも、東洋、西洋の万国が己の国の自慢の物産を持ち寄り、これはいい、あれはいいなどと品定めをする会らしい。

その会に我が国も初めて公に参加することになった。

その博覧会には各国の威信をかけて各国の王族が集まる。それゆえ、フランスは我が国からも王族を送るように求めておる。天子様は異国に行くなどもってのほかゆえ、上様の弟君、民部公子を送ることになった。民部公子は会津松平家に養子入ることになっていたが、上様のご意向により清水家をご相続することになった。これほどの身分の方が国を出るのは初めてのこと。しかし、お付の水戸の者が反対し、行くなら30人は付いて行くと言ってきた。

どうにか数は減らしたものの異人と見れば斬ってかかるような連中ばかりだ。

それゆえ、上様がこう申された。「渋沢であれば公儀との間を取り持つのに適任ではないか」と。つまり、お主に頼みたいのは、一行の一員としてパリへ参ることだ。

俗事の会計を勤めながら、水戸侍を見張ることは大変なことであるが、上様の思し召しゆえよく考えてから返事を…。」原が言葉を終える前に、篤太夫は声を漏らし「誠にたまげたことだい」と胸を押さえました。

「誠にたまげたことだい。某は数年前にも道に詰まり、その時にたまげた道を開いてくださったのが平岡様だった。それを今度は殿が開いてくださるとは…。これは、僥倖。参ります!行かせてください」と訴えたのです。

原は「待て待て待て、もっとよく考えろ」と篤太夫に詰め寄るのですが、篤太夫は考えを変えません。

「どのような艱苦も厭いません。どうか某をパリに行かせてください」と原に頭を下げたのでした。

そして、篤太夫は大目付の永井から、異国に行く際の説明を受けました。

一冊の帳面を差し出され、異国に出る際に、公儀が旅費を前貸しにする、帰国したらそれをどのように使ったのか報告し、そなたが勘定を仕上げなければならない、と教えられます。

異国とのやり取りについて疑問をぶつけると、外国方から通詞同行させる、医師もいるからと言われます。

そして、異国に行く際には、家を途絶えさせないため、先に後継を定める見立て養子を立てる必要があると教えられます。

永井は、家の者や友には知らせたのかと尋ねました。

篤太夫は、無二の友に話しておきたいのだが、今江戸に御用に行っていてまだだと答えたのです。

成一郎、故郷に戻る

その頃、江戸での御用を終えた成一郎は、血洗島に戻って尾高惇忠(田辺誠一さん)や平九郎(岡田健史さん)に会っていました。

成一郎は、攘夷を志し京へ向かったものの、一橋の家臣となり今は幕臣として慶喜を支えたいと思っていることを告げました。

話を聞いていた惇忠は、今の一橋慶喜の考えに異論なし、と成一郎の主張に賛同したのです。

惇忠の答えを聞いた成一郎は安堵しました。

他の者に何を言われてもかまわないが、兄いにだけは道が違うと言われたくなかった、と呟いたのです。

そして、惇忠と平九郎に、共に徳川で働かないか、と勧誘したのです。

惇忠ならば慶喜の軍師となれる、と成一郎は言い募りました。

新屋敷の家に戻った成一郎のところに、千代(橋本愛さん)が訪ねてきました。

栄一の様子を聞くと、栄一と自分はお役目が変わってしまった、と言い、今栄一は状況が変わってしまい世を拗ねている、自分とは少し考えが違う、と教えました。

不安そうな顔をする千代に呼びかけるのですが、千代の顔は曇ったままでした。

孝明天皇の崩御

孝明天皇の強い希望もあり、慶喜は15代征夷大将軍の座に就きました。

慶喜は、外国公使と接見を急ぎたい、と大目付や老中に告げます。

天皇にも急ぎ謁見したい、と申し出るのですが、今宵は内侍所の御神楽が予定されているため、後日に回して欲しいと言われてしまいます。

御神楽は、天皇が国の安寧を願う神事で、およそ4時間もかかる大変な行事でした。

体調が優れない天皇を側近は心配するのですが、天皇が神事を疎かにしてはいけない、とふらつきながらも神事を行ったのです。

その日は雪の降る寒い日でした。

慶喜は、長時間の神事に参列する天皇の体調を慮るのでした。

翌日、孝明天皇は体調を崩し、臥せってしまいました。

側に控えていた睦仁親王に「うつる」と注意を促すと、親王は自分は種痘を受けているから大丈夫と告げます。

そうして、孝明天皇は自分が天然痘に罹患していると悟ったのです。

慶応2年(1867年)12月25日、孝明天皇は崩御しました。

幕府は、これから朝廷と一丸となり公儀を盛り立てる好機であったのに、孝明天皇の後を祐宮が践祚したことで、不安を募らせていました。

祐宮の背後に付いているのが、先の帝に追い出された、公儀に歯向かう公家ばかりだったためです。

蟄居中の岩倉は、天皇崩御の報に嘆きました。

自分が支えられなかったことを悔み、今度こそ自分が幼帝を守り、王政復古を成し遂げるのだと決意したのです。

出立前の対面

フランスへの出発が迫る中、篤太夫は慶喜に呼び出され久しぶりに直に会うことが叶いました。

面を上げよ、と言われ顔を上げると、慶喜が見慣れる洋装をしていることに驚きます。

それは、フランスのナポレオン皇帝から贈られたフランスの軍服でした。

似合わないのはわかっている、と笑う慶喜に、篤太夫は驚いただけ、と告げました。

慶喜は、フランスに赴く弟・昭武に篤太夫を紹介しました。

慶喜は昭武に、フランスでの5つの心得を伝授しました。

1、会が終わった後は、条約を結んでいる各国を回りその地の王に挨拶をすること。

2、それが終わればフランスにて学問を修めること。3年から5年。それでも足りない時は、それより長く学んでも一向に構わない。

3、学んでいる間は、師を必ず重んじること。

4、もしも日の本に、常ならぬ事変が起きたと風聞を耳にすることがあっても、決してみだりに動かぬこと。

5、この度の渡欧の一行は一和に円満に務めること。

これを伝えると、昭武を下がらせ人払いもし、慶喜は篤太夫と2人きりになりました。

慶喜は「久しぶりだな、渋沢。どうする?もう将軍になってしまった」と問いかけます。

篤太夫は「あれほどおなりにならないで欲しいと申しておりましたのに、こうして見ると存外にその座がお似合いなことが何とも言えぬ心持ちでございます」と告げました。

慶喜は、原が父の願いが叶ったと泣いていた、あるいは円四郎も喜んでいるかもしれない、と言います。

この内外多難の今、斯様な重き荷を負っても私の力では及ばぬこともわかりきっている、と続けます。

そして、「故に、行く末は欧州にて直に広き世を知った若き人材に将軍の座を継がせたい、それには昭武が相応しい。清水家は将軍を出せるため、昭武にこれを継がせ徳川を称させることにした。昭武が戻ればもしわたしに子があっても昭武を世継ぎに押す所存だ」と告げたのです。

慶喜の考えに驚く篤太夫。

問題は昭武が戻るまで自分が公儀を潰さずにいられるかだ、と慶喜は言いますが、こうなったからには簡単には潰されない、とも加えたのです。

篤大夫は徳川家康の遺訓を暗唱し始めます。

慶喜と交互に遺訓を暗唱し、最期は声を揃えて暗唱を終えました。

篤大夫は、慶喜と大権現様の遺訓を唱えることができた、と感動します。

慶喜は「渋沢、遠き道、苦も多くあろうが弟を頼んだぞ」と昭武を託したのでした。

翌日、昭武一行は京を出発、横浜に入りました。

そこで、幕府の外国方や勘定方と対面、さらにフランス公使のロッシュとの対面も果たしました。

外国の作法に慣れない篤大夫は、ロッシュが昭武と握手したことに馴れ馴れしいと不快感を持つのです。

そこに外国方の杉浦愛蔵(志尊淳さん)が現れ、篤太夫と医師・高松凌雲(細田善彦さん)を案内します。

着いた先には、福沢諭吉(中村萬太郎さん)と福地源一郎(犬飼貴丈さん)がいました。

福地は、フランスには2度行ったことがあると言い、モンブランというフランス人には気をつけろと忠告しました。

公儀の使節が行くたびに交わりを求めてくる人物だというのです。

何度も断っていたら次は薩摩に近づいていると言うのです。

勘定奉行の小栗は篤太夫を呼ぶと、パリ万博に赴く2つ目の目的を話します。

それは600万ドルの借款でした。

篤太夫は算盤を弾き、150万ポンド、450万両のことだと理解しました。

小栗は飲み込みの早い篤太夫を褒めます。

借款の手はずについて書き記したものを手渡し、出発前によく読んでおくようにと告げます。

篤太夫は、当面の旅費は公儀から出るとしても、3~5年昭武が外国で学ぶための資金はどうするのかと小栗に問いました。

すると小栗は、かつて栄一が画策していた高崎城奪取や横浜焼き討ち計画のことを話、かつて攘夷浪士だった篤太夫が徳川に仕え、5年後先の金子について案じているのかと、小栗はからかいます。

今はそんな考えではない、と告げる篤太夫に自分が勘定奉行の職にいる限り、きちんと仕送りをすると約束したのです。

小栗は、公儀が5年はおろか3年先、1年先もわからない、と呟きました。

小栗が米国に入ったのは6年前のことです。

そこで、色々な所に見学に行ったと話します。

そこで見た造船技術は素晴らしく、日本が勝てるわけがないと知ったと言います。

小栗は、ピカピカ光るネジを篤太夫に見せました。

船も蒸気機関もネジにより組み立てられています。

米国ではネジでさえも機械で驚く程の速さで作っているのだといいます。

小栗は、日本にも今すぐ造船所が必要と考えていると言い募ります。

今更造船所が出来たところで、その頃公儀がどうなっているかはわからないが、いつか公儀のしたことが日本の役に立ち、徳川のおかげで助かったと言われるなら、それもお家の名誉になる、と話したのです。

篤太夫ならば異国でも多くを学べるだろう、日本へ戻ってきたら共に励もう、と話すのでした。

成一郎、長七郎との対面

外国への出立を2日後に控えた篤太夫は、見立て養子をどうするか迫られ、翌日には必ず戻ると許可を得て、成一郎に会うために、江戸へと向かいました。

江戸に行ってみると、成一郎はもうすでに京へ向かったと告げられてしまいます。

うなだれた篤太夫ですが、次は小石川の奉行所へ行き、長七郎への面会を申し出ました。

そこに、成一郎が現れたのです。

成一郎は、江戸にいる間、金や薬を持って度々奉行所を訪れていたのだといいます。

篤太夫は成一郎にパリ行きについて話しました。

たどたどしく説明しながらも楽しそうな篤太夫を見て、成一郎は笑みをこぼしました。

出発が迫っているため、故郷には文で知らせるしかありませんが、成一郎にはどうしても会っておきたかった、と篤太夫は告げました。

牢に捕われた長七郎との面会は、成一郎が何度も訪ねても叶うことはありませんでしたが、今宵は面会できると役人に告げられました。

2人はやつれ果てた長七郎の姿を見て驚愕しました。

長七郎は、満月の夜に3人で陣屋の牢へ行ったことを思い出した、と話します。

弱気になった長七郎に、成一郎は「いつか出られる、いつかは出られるぞ、望みは捨てるな」と励ましました。

「ここは生きたまま死んでるみたいだ、捨てるべきだった命を捨てることもできないまま、ここでこうして月を思い浮かべるしかない」と呟いた長七郎。

2人は、長七郎に何も言えませんでした。

牢を出ると、2人は並んで蕎麦を食べていました。

篤太夫は、見立て養子の件を話し、尾高の平九郎はどうかと口にしました。

平九郎が養子になれば、千代やうたと一緒に堂々と江戸や京に来ることができる、と篤太夫は主張します。

成一郎も、惇忠や平九郎を徳川に呼びたいと思っていたと賛同しました。

そして、他に心配事がないかと尋ねると、篤太夫は千代から手紙の返事が来ない、と不安を漏らしたのです。

千代はかなりの器量よしなのに、自分のせいで長く放って置いている、もしや…、と不安がるのですが、千代の思いを知っている成一郎は、そんな篤太夫を笑い飛ばしました。

そして、自分が千代にしっかりと伝える、と胸を叩いたのでした。

篤太夫が戻る頃には日の本は一体どのようになっているか、と成一郎が呟くと、篤太夫は、今よりきっと良い世になっていると願いたい、と答えたのでした。

出航

慶応3年(1867年)1月11日、昭武一行は横浜港からアルフェー号に乗り込み、フランスへと旅立ちました。

篤太夫からフランスに行く、と書かれた文を受け取った千代は呆然とし、父・市郎右衛門も二度と会えないかもしれない、と不安を募らせます。

母は、また遠くへ行ってしまう息子を心配していました。

千代は、栄一が形見として送ってきた懐剣を取り出すと、胸にしっかりと抱きしめたのでした。

成一郎は、徳川でフランス式の軍事修練に励み、慶喜はそれを満足そうに眺めています。

篤太夫は船の上で、かつて高島秋帆(玉木宏さん)が、日本を憂い、誰かが日本を守らなければならない、と言った言葉を思い出していました。

船の先端に行き海を眺めながら、篤太夫はこれからのことに思いを馳せるのでした。

次回、第22回「篤太夫、パリへ」

パリに到着した篤太夫たちは、さっそく万国博覧会の会場を視察。蒸気機関やエレベーター…最先端の西洋技術を目の前にして度肝(どぎも)を抜かれる。しかし、日本の展示ブースに行くと、そこには薩摩の紋が高々と掲げられていた。幕府使節団は薩摩に抗議するが、モンブランと五代が裏で手を引き、幕府と薩摩は同格の政府であると風聞が流れる…そんな中、昭武はナポレオン三世の謁見式に出席し、堂々と慶喜の名代としての役目を果たす。そのころ日本では、慶喜が次々と幕政改革を打ち出していた。

大河ドラマ「青天を衝け」公式サイトより

大河ドラマ「青天を衝け」公式サイトより

とうとうパリへと旅立った篤太夫。

そこで、見るもの聞くもの目新しいことばかりで度肝を抜かれてしまいます。

早速行った万博にて、薩摩の暗躍に憤る篤太夫。

ディーン藤岡さん演じる五代との篤太夫の対決が楽しみですね。

洋装の人々の中で、衣冠束帯で堂々と皇帝と対峙する昭武の凛々しい姿も見所です。

好奇心旺盛な篤太夫が、パリでどのように活躍するのか、楽しみですね。

最後に

今回は、栄一がパリ万博の随行員として打診されるところからパリに出発するまでの物語でした。

栄一の表情の変化がとても面白かったです。

一橋でのお役目を途中で終わりにさせられ、目標を見失っていた栄一。

新しい道が開けたとたん、表情が生き生きと輝き始めました。

慶喜との語らいのシーンも素敵でした。

2人が本音で言葉を交わし、最後は東照大権現の遺訓を一生に暗唱して終わる。

2人が通じ合っている様子がよくわかりました。

栄一が様々な人々と会うところも見所でした。

福沢諭吉と会うなんて、新旧お札の顔の人そろい踏みですね。

小栗との対面も面白かったです。

小栗が積極的に事業を起こし、熱意を持って幕府の懐を安定させようとしているのを聞き、栄一も奮起します。

自分が勘定奉行の職にあるうちは仕送りする、なんて頼もしいですよね。

外国での見聞を広めたことにより、日本と外国の差をしっかり見極め、徳川の名誉のために頑張る人でした。

先行きに不安は多いですが、こういう幕臣がいるのは慶喜にとって、嬉しいことですよね。

そして、不気味なのは岩倉具視の存在です。

蟄居中でありながら、帝のために考え続け、実行しようとする要注意人物。

かつての大河ドラマで岩倉役を演じた役者さんも、存在感もアクも強い演技で私たちを魅了していました。

今回の岩倉役の山内圭哉さんもまだ出番が少ない割にはとても印象に残る演技で、幕府にとっての台風の目のような存在になっています。

これから表舞台に出てきますが、活躍が今から恐ろしく感じられます。

久しぶりに尾高3兄弟が見られたのは嬉しかったです。

惇忠や平九郎が元気そうで良かったです。

これまで故郷で頑張って来たのですから、これまで培ってきた知識を活かして、自分の好きな政治の世界に身を置く日も近いですかね。

楽しみです。

長七郎の変貌に心が痛みました。

「生きているのに死んでるみたい」なんて、悲しいセリフですよね。

長七郎の心の中は、あの日、桜田門外に行けなかったことをずっと悔やんでいたのですね。

武士に成りきっている成一郎は長七郎の気持ちを理解しているようですが、やはり死んだら何にもならない、という栄一の主張に同意したくなってしまいます。

でも、史実では長七郎は若くして亡くなってしまうのですよね。

長七郎の苦しい人生を思うと、切なくなります。

さて、次回第22回「篤太夫、パリへ」では、薩摩との対決が待っています。

早くから外国へ来て、幕府を出し抜くために画策してきた五代才助の存在が恐ろしいですね。

というより、早くから先を読んでいた、先の薩摩藩主・島津斉彬が素晴らしかったのでしょうか。

少し前の大河ドラマも見ていたので、ちょっと思い出してしまいました。

まだ、物語にあまり登場していない大久保一蔵の存在も恐ろしい。

パリで見聞を広げる篤太夫の活躍、成長も気になるところですが、篤太夫がいない日本でも大変なことが起こってしまいます。

次回第22回「篤太夫、パリへ」での篤太夫の活躍と、慶喜の運命。ハラハラドキドキしながら視聴しようと思います。


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