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どうする家康 第43回「関ケ原の戦い」のあらすじと感想

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嵐の松本潤さん主演の2023年大河ドラマ「どうする家康」。

脚本は、稀代のストーリーテラー・古沢良太さんです。

毎週日曜BSプレミアム午後6時~、NHK総合午後8時~放送されます。

徳川家康の生涯を新たな視点で描く、スピード感溢れる波乱万丈の戦国エンターテインメント。

こちらでは、大河ドラマ「どうする家康」のあらすじ、ネタバレ、感想をお届けします。

さて、第43回「関ケ原の戦い」では、主力軍が到着せず、数の上で圧倒的不利に追い込まれた徳川軍が、石田の大軍勢と戦うことになります。

関ケ原という野戦場を戦場に選んだ三成の意図は。

受けてたった家康に勝算はあるのでしょうか。

目次

前回のあらすじ

徳川家康(松本潤さん)が上杉討伐に向かった隙を付いて挙兵した石田三成(中村七之助さん)。

石田三成には、毛利、宇喜多という大老、そして奉行衆らが味方に付きました。

ということは、大阪を抑えられたと言うこと。

大阪方に妻子を人質として捉えられてしまったのです。

家康たちは、大阪に残してきた阿茶(松本若菜さん)や鳥居元忠(音尾琢真さん)を心配しますが、阿茶は北政所(和久井映見さん)に保護され、無事との知らせが入りました。

豊臣の家臣たちを気にしつつ、家康は共に行動する兵たちの心を1つにします。

家康は石田勢と戦うと決め、秀忠(森崎ウィンさん)を信州・真田に、結城秀康を上杉への抑えに、井伊直政(板垣李光人さん)は福島正則らと西へと向かわせ、自身は江戸へと入りました。

7月29日、石田勢は手始めに鳥居元忠が守る伏見城へ兵を向けました。

2千の兵が守る伏見城。

それを取り囲むのは2万5千の大軍です。

粘り強く戦う鳥居の戦いにより、なかなか決着がつかず西軍諸将が焦り始めた頃、小早川秀秋も西軍に着陣。

総勢4万の兵が伏見城を総攻めにします。

8月1日、鳥居元忠始め、妻の千代(古川琴音さん)も家臣たちも力の限り戦い続けてきましたが、松の丸が落とされ、城内へ敵兵の侵入を許し、伏見城は落城しました。

その頃、江戸では家康が各地の諸将に書状を書き続けていました。

伏見城落城の知らせを聞き、家康は沈痛な面持ちとなりますが、死んでいった元忠のためにも腕が折れても書状を書き続ける、と激しい調略戦に挑んでいました。

その頃、西へと向かった徳川勢も怒涛の勢いで三成軍に迫っていました。

しかしそれは家康の予想よりもだいぶ早い。

これでは本軍の到着を待たずに三成軍と戦うことになってしまいます。

家康は、秀忠に直ちに西へ来るようにと伝令を出し、自らも西へと出立しました。

しかし秀忠は、西軍に付いた真田昌幸(佐藤浩市さん)、信繁親子に翻弄され、時間ばかりが過ぎてしまいます。

秀忠は真田の忍びの妨害で、家康の指定した期日に到着は絶望的となってしまいました。

真田は初めから秀忠軍の足止めをするつもりだったのです。

そして9月9日、秀忠軍が真田の罠に嵌り到着できないと知った家康は呆然としますが、三成の誘導に乗り、数の上で圧倒的不利でありながら、関ケ原での戦いに挑もうとしていたのでした。

前回、第42回「天下分け目」を見逃した方はぜひこちらをどうぞ。

それでは第43回「関ケ原の戦い」のあらすじと感想です。

それぞれの動き

「武を持って治めるを覇道、徳を持って治めるは王道なり」今川義元の教えを胸に刻み戦い続けてきた徳川家康。

1560年、桶狭間の戦い

1572年、三方ヶ原の戦い

1575年、長篠の戦い

1584年、小牧長久手の戦い

徳川家康は、これまで様々な戦を経験してきました。

敵陣を突破し大高城に兵糧を入れた桶狭間の合戦。

武田信玄との戦いで、弱き主君は害悪、と叩きこまれ、その圧倒的強さに大敗を喫した三方ヶ原の戦い。

多くの家臣を失いました。

信長の鉄砲隊による新しい戦法により、多くの武田勢を蹂躙した長篠の戦い。

小牧長久手では戦には勝利したものの、天下を取るという勝負では秀吉に惨敗しました。

そして、関ケ原の合戦が始まります。

この戦は、家康と三成、2人がより多くの味方を付けた方が勝ちとなります。

慶長5年(1600年)9月14日、一里の間をおいて睨み合う石田三成と徳川家康。

天下分け目の合戦が始まろうとしていました。

9月14日、大阪城にて、毛利輝元(吹越満さん)は茶々(北川景子さん)から秀頼の出陣の時は今ではないのかと責められていました。

茶々は三成から矢のような催促を受けていると訴えますが、輝元はのらりくらりと躱してしまうのです。

毛利が総大将の器かどうか問われている、機を見誤るな、と茶々は言うのでした。

京の新城に匿われている阿茶は、北政所に自分を匿って立場が悪くならないかと心配します。

北政所は、自分は別にどちらの味方でもない、これは元をただせば豊臣家中の喧嘩。

豊臣と徳川が手を携えるのが一番いいと思っていると零します。

阿茶は、北政所にお願いがあると訴えました。

赤坂・徳川の陣にて、福島正則は、さっさと取り囲んで攻めましょう、と進軍を申し出ました。

しかし大垣城は堅牢で、城を攻め落とすには人数が足りません。

直政は本軍到着を待った方がいいと進言します。

徳川本軍3万を預かった秀忠は、西へ向かって懸命に急いでいました。

現在、西軍も本軍が到着していない状態です。

毛利が秀頼を伴って三成側に付けば、危ういと忠勝は懸念していました。

家康は、黒田に調略の状態はどうなっていると尋ねました。

黒田は、既に内応を約束している吉川広家を通じて、小早川・毛利には調略を繰り返していると言います。

しかし、蓋を開けてみなければわからない、と答えます。

家康は直政に小早川に何枚も文を書けと言います。

そして、各陣所にばらまき、既に小早川は家康に内応していると噂を流せと言うのです。

家康の作戦は功を奏し、大垣城の石田勢も小早川の動きに不安を覚え始めました。

家康は、秀忠の到着は諦めると宣言。

大垣城を捨て、大谷刑部の守る西の関ケ原へと兵を向けると言うのです。

そうすれば、三成は城を出てこざるを得ない、というのです。

しかし三成に後ろを塞がれ、小早川や大阪からの軍勢が後ろから加われば自分たちは危うい、と直政は言います。

家康は、それが三成の狙いだと考えていました。

しかし、大軍勢を率いるとは思い通りにはいかない、と家康は言います。

そして家康たちは動き出しました。

三成は、家康が思い通りに動いたことに満足そうに笑みを浮かべます。

そこに、小早川勢が松尾山に陣を敷いたとの報告が入ります。

どちらに付くか見極めるには最適の場所に布陣した小早川に、三成は激高し、小早川を警戒しろとの伝令を出しました。

9月15日、こうして、両軍勢合わせて15万人の兵が動き出したのです。

一夜明けると雨は上がり、辺りは深い霧に覆われていました。

家康が布陣したのは小さな丘・桃配山。

それを守るは徳川軍最強の本多忠勝。

前線の平野にて、敵に対するは井伊の赤鬼、井伊直政。

そして猛将・福島正則、藤堂高虎、黒田長政など歴戦の猛者たち。

対する西軍は笹尾山に石田三成。

その横には島津義弘。

天満山には小西行長と五大老の宇喜田秀家。

その南、中山道筋に大谷刑部。

松尾山には小早川秀秋。

そして南宮山に吉川広家率いる毛利勢と長曾我部。

徳川勢は、見事に西軍に取り囲まれてしまいました。

形の上では我らの勝ち、と言いたいところだが、小早川秀秋の動きが気になると三成は言います。

秀頼と毛利本軍が到着すれば勝利は見えてくる、という言葉に三成は勝ってみせる、と力強く言うのでした。

徳川陣営

徳川本陣に忠勝と直政がやってきました。

霧が濃く、身動きが取れないため持ち場を離れてやってきたのです。

「見事に取り囲まれましたな、このままでは…」と声をかけた忠勝に、家康は「ここが我らの果てる地じゃ」と言います。

そんな弱気な、と諫める盛綱。

しかし気分は悪くない、と家康は晴れ晴れとした顔で言いました。

忠勝も不謹慎ながら家康と共に戦うのが好き、と言い、直政も同意します。

そしてここまで来たらじたばたせず、思う存分楽しみましょう、というのです。

家康は、儂は感じるぞ、先に逝った者たち、今は遠くにいる者たち、その皆の心。ここに集まっている、と目をつむります。

穏やかに笑いながら、皆と共に居る、と言うのです。

霧が晴れてきました。

忠勝と直政が立ち上がります。

直政は、先陣を申し出ました。

家康は快諾し、檄を飛ばします。

去り際に直政は、「殿、おいらを家臣にしてよかったでしょ」と家康に問いかけます。

家康は笑みを浮かべ「ああ」と答えます。

「おいらもでございます。取り立ててくださって、ありがとうございました」と一礼すると戦場へと向かったのでした。

開戦

そして先陣を任された直政は、宇喜多勢に向かって発砲。

関ケ原の戦いが始まりました。

それを見た福島勢も奮起し、進軍を開始。

戦いは地の利を生かした三成勢が優位のうちに進み、三成の思惑通りに進みました。

しかし小早川秀秋は陣にこもり、戦況を見極めています。

吉川広家に背後を突かれたら終わり、と危惧する渡辺盛綱に、家康はそうなったら終わりよ、だが…毛利や吉川広家ら家臣はおろか、小早川秀秋も纏めきれておらん、調略の成果を祈るのみ、と言います。

西軍が焦る中、吉川は動きません。

吉川が動かないため、その背後の長曾我部も動けないのです。

その知らせは毛利輝元の元にも届きました。

吉川は勝手に徳川と手を結んでいるとの報告を聞きました。

小早川も家康と手を結んだと言う噂があると聞いた毛利は、どう動くか決めかねていました。

阿茶の交渉

西軍ではなぜ吉川は動かないのか、毛利は動かないのかと不満が出てきていました。

茶々もなぜ毛利は出陣しないのか、毛利を呼べ、と騒ぎ立てます。

そこに、北政所の使いの者が来たとの知らせがやってきました。

使者として現れたのは阿茶の局。

阿茶は、北政所も同じ考えのため、やってきたと言います。

そして秀頼はこれ以上この戦に関わらない方がいい、と忠告したのです。

徳川の調略はかなり深くまで進んでいる、すぐに勝負は決するはず、毛利が動かないのはその証拠と訴えます。

家康は信頼できる人物。徳川は秀頼を大切に守る、どうか徳川にその身を預けて欲しい、と進言したのです。

茶々は激高し、それは過ぎたる物言い、と阿茶に剣を向けさせます。

一触即発の危ういところでしたが、制止が入り、双方落ち着きを取り戻しました。

茶々は何とか笑みを浮かべると、秀頼を案じてくれてありがとう、と口にします。

そして、「誠に不愉快な女子よ、2度とお見えにならぬがよろしい、帰り道には気を付けよ」と阿茶を追い返しました。

阿茶が立ち去ると、茶々は大きく息を吐いたのです。

家康の戦略、決着

家康のもとに、吉川も小早川も動かないとの知らせが入りました。

家康はこれを機と見て、自ら前に出ると言います。

ここが勝負所と見た家康は、2万の主力を三成の目と鼻の先に押し出しました。

総大将自ら敵の真ん前に出ると言う行為により、敵は怯み、自陣は奮い立ちました。

家康は、「決断する時ぞ、小早川」と呟きます。

家康の動きを見た小早川は、「さすが戦巧者よ」と呟くと立ち上がりました。

「我ら小早川勢、山を下り、一気に攻めかかる、目指す敵は大谷刑部」と指示を出したのです。

小早川の攻撃を受けた大谷勢。

大谷刑部は自らの死を悟り、戦場の三成に向かって「さらばだ」と叫びました。

小早川の裏切り、それを機に徳川勢は勢いを増しました。

多くの兵が傷つき、命を落としていきます。

三成は表情を歪め、家康は無表情に戦を眺めていました。

西軍の兵は雲の子を散らしたように逃げ出しました。

徳川勢の勝利が決まったのです。

家康は静かな声で、皆、大義であった、と労いました。

そこに島津勢が突っ込んでくるとの知らせが入りました。

家康は放っておけと言いますが、直政がそれを迎え撃とうとしていると聞くと、忠勝が直政を止めに走ります。

向う見ずにも島津へと向かった直政は、鉄砲隊に撃たれ落馬しました。

戦の決着がついたと各方面に知らせが飛びました。

文にて西軍の負けを知らされた毛利は、こんなに早く決着がつくなどおかしい、三成がしくじったのだ、と大げさに言い募ります。

それを見ていた茶々は笑みを浮かべつつ、毛利に近づくと、その顔を思いきり叩いたのです。

「其方を頼った私の過ちよ、去れ!」と怒鳴りつけたのです。

毛利輝元は、徳川方との交渉の末、大阪退去、減封。

宇喜多秀家は改易、配流。

上杉景勝、減封の上移封。

真田昌幸、高野山配流のち紀伊九度山に蟄居。

小西行長、京・六条河原にて斬首。

大谷刑部、自害。

嶋左近、行方知れず。

石田三成、敗走。

鉄砲に撃たれた直政を見舞う家康。

敵が徳川の前を通り過ぎるなど徳川の名折れ、しっかりと打ちのめしてやりました、と笑う直政。

家康も「ようやった」と労います。

そして、「ついに…、ついにやりましたな、天下を取りましたな!信長にも秀吉にもできなかったことを殿がおやりになる、これから先が楽しみだ」と直政は嬉しげに笑うのでした。

石田三成

9月20日、近江大津城に入った家康は、縄を掛けられた石田三成と対面しました。

「戦無き世に出会いたかった…。さすれば、無二の共となれたはず。このようなことになったのも、行き違いが生んだ不幸。甚だ残念だ」と家康は言います。

「さにあらず、これは豊臣の天下のために成したること、その志、今もって微塵も揺らいでおりません」と三成は言います。

「何が其方を変えた、共に星を眺め語り合った其方は確かに儂と同じ夢を見ていた、これから共に戦無き世を作っていくと思っていた、それがなぜ、なぜこのような無益な戦を引き起こした、死人は8千人、未曽有の悲惨な戦ぞ!何が其方を変えてしまったんじゃ、儂はその正体が知りたい」

三成は家康のその言葉を聞いて笑い出しました。

「思い上がりも甚だしい、私は変わっておりません。この私のうちにも戦乱を求むる心が確かにあっただけのこと。一度火が付けばもう止められぬ。恐ろしい火種が。それは誰の心にもある。ご自分にないとお思いか?うぬぼれるな!この悲惨な戦を引き起こしたのは私であり、貴方だ。そして、その乱世を生き延びる貴方こそ戦乱を求むる者。戦無き世など成せぬ。まやかしの夢を語るな!」

そう吐き捨てた三成を家康はじっと見つめていました。

「それでも、儂はやらねばならぬ」

家康がそういうと、三成は憎々し気に睨み続けます。

家康は立ち上がり歩き出しますが、廊下で立ち止まり、三成の後姿を見つめました。

石田三成は京・六条河原にて斬首。

享年41歳でした。

次回、第44回「徳川幕府誕生」

家康(松本潤)は大阪城で、関ケ原の戦勝報告を行う。茶々(北川景子)から秀頼と孫娘・千姫の婚姻を約束させられ、不満を隠せない。時は流れ、征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた家康。ウィリアム・アダムス(村雨辰剛)らと国づくりに励むが、秀忠(森崎ウィン)の頼りなさが不安の種。そんな中、忠勝(山田裕貴)が老齢を理由に隠居を申し出る。一方、大阪では大野治長(玉山鉄二)が茶々の下に戻り、反撃の期待をうかがっていた。

NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト

関ケ原の戦いで勝利を収めた家康は、江戸に徳川幕府を開き、征夷大将軍となります。

国づくりに励む毎日ですが、跡継ぎの秀忠が頼りなく、それが不安の種。

そんな中、頼りになる忠臣・本多忠勝が隠居したいと申し出ます。

落ち着いたかに見えた世の中ですが、大野治長の出現で、またも不穏な空気が漂い始めました。

関ケ原はまだ終わっていないようです。

最後に

とうとう関ケ原の決着がつきましたね。

激しく悲惨な戦シーンに胸が痛くなりました。

必死に戦う兵たちの姿、刀を振るい敵を刺す、時に蹴り飛ばし隙を作る。

鉄砲の弾が行きかう中、敵に向かう兵たち。

常に死の危険にさらされ続ける恐怖。

兵の戦闘シーンは、見ていてそんな恐怖を感じさせられました。

松本潤さん演じる徳川家康が戦を見ている様は何とも言えない表情を浮かべていました。

無表情ではなく、無の表情、とでもいうのでしょうか。

哀しそうに遠くを見つめるようなそんな表情をしていたように思えます。

戦無き世を目指していたはずなのに、未曽有の悲惨な戦が起こっていることに複雑な感情があったのでしょうね。

三成は悔しそうな表情をしていましたね。

これが戦を望む火のついてしまった三成の表情だったのでしょうか。

最期、家康を睨む表情にも迫力があって、妄執と言うか、とても恐ろしい表情でした。

恐ろしいと言うと、茶々と阿茶のやり取りも怖かったですね。

笑顔で毒を吐く北川景子さん演じる茶々と、冷静に返す松本若菜さん演じる阿茶。

喜怒哀楽の激しい茶々の怒りは本当に恐ろしかったです。

笑顔でいたかと思ったら次の瞬間には鬼の形相になって怒りを吐き出していました。

毛利輝元を殴った時は本当に恐ろしかったです。

大迫力の茶々でしたね。

今回はたくさんの複雑な感情が沸き起こった回でしたね。

戦の虚しさは前述しましたが、徳川の悲願が達成された戦でもありました。

自ら負傷しながら、家康の勝利を子供のように喜ぶ板垣李光人さん演じる井伊直政の笑顔が印象深かったです。

家康と出会った時のように、おいら、と一人称が変わった直政。

家康に心酔し、心の底から家康の勝利を喜びました。

あんなに悲惨な戦であっても、直政が喜んだ瞬間だけは、その勝利が明るく輝いたような気がしました。

井伊直政は、この時の負傷がもとで、関ケ原の2年後、若くして亡くなってしまいます。

戦後処理にも大活躍するのですが、大河ドラマでは退場なんですね。

若々しく元気が良かった井伊直政、素晴らしかったです。

さて、次回第44回「徳川幕府誕生」では、山田裕貴さん演じる本多忠勝が隠居を願い出るようですね。

杉野遥亮さん演じる榊原康政も史実的には危うい時期になってきました。

とすると残る古参の家臣は松山ケンイチさん演じる本多正信のみ。

残り回数も少ないですから仕方ないとはいえ、最初からいた家臣団が1人減り2人減りと退場していくと悲しくなりますね。

いよいよ徳川幕府が誕生しますが、まだ火種は大阪に残っています。

これをどのように消すのか、老獪な狸となった家康の手腕、楽しみですね。

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