MENU

青天を衝け 第23回「篤太夫と最後の将軍」のあらすじと感想とネタバレ

二条城二の丸御殿
  • URLをコピーしました!

2021年大河ドラマ「青天を衝け」は、NHK総合にて毎週日曜夜8時から、BSP、BS4Kにて毎週日曜午後6時から、毎週土曜日午後1時5分から再放送が放送中です。

目次

前回のあらすじ

将軍となった徳川慶喜(草彅剛さん)の命により、パリ万博に参加する慶喜の弟・昭武(板垣李光人さん)に随行することとなった渋沢篤太夫(栄一)(吉沢亮さん)。

その目的は、昭武のお付として参加する異人嫌いの水戸藩士と公儀との緩衝材となること、そして昭武の支えとなることでした。

篤太夫も未だに異人に対する根強い偏見を持っていましたが、船上での経験を経て少しずつ意識を変化させていきました。

パリに到着し、凱旋門の上からパリの街を見渡した使節団一行は初めて見るパリに感嘆の声を上げました。

滞在するホテルにて、政府に出迎えられた使節団。

昭武はナポレオン三世との謁見の準備を急ぎ、家臣団はそれぞれの職務についての打ち合わせを始めます。

外国奉行の向山は、日本から同行していたイギリスのシーボルトを気に入り、通訳としてこれからも同行してもらいたいと望み、政府から正式な通訳として派遣されたカション神父は激高しました。

翌日、パリ万博の見学をした使節団は、各国の誇る最新技術に目を見張るばかり。

様々な技術を体験した篤太夫は、「参った、夢の中にいるみたいだ」と度肝を抜かれます。

日本のブースに行ってみると、日本とは別に、琉球王国と名付けられた薩摩藩のブースができていることに驚きます。

これでは、日本に国が2つあるようだと激高します。

それを仕掛けた薩摩とモンブランに抗議する外国奉行支配組頭の田辺ですが、モンブランの巧みな説得に頷き、将軍を大君、琉球表記は止めて、島津を薩摩太守と表記することで和解してしまいました。

後日、そのことは新聞に取りざたされ、日本は1つの国ではなく連邦国、将軍は日本の中の有力な一大名に過ぎない、と書かれ、日本の公儀は貶められてしまいました。

こうした中、昭武はフランス皇帝ナポレオン三世との謁見に望み、日本の徳川将軍の権威を示しました。

日本では、慶喜が各国大使との会談を行い、円滑な外交を行っていました。

薩摩と手を組み、幕府転覆を企んでいるイギリス公使パークスは、慶喜はこれまでの徳川将軍とは違い、幕府を立て直してしまうかもしれない、と危惧したのです。

しかし、パリにおける薩摩の五代才助(ディーン・フジオカさん)とモンブランによる策略は幕府の権威を着実に貶めていくのでした。

パリでの滞在で経費が嵩み節約のためアパルトマンへと移ることにした家臣たち。

昭武に相応しい屋敷を手配しようと篤太夫は奔走します。

交渉に手間取ったものの、なんとか屋敷を手配。

水戸藩士の抗議もありましたが、昭武自身が屋敷を気に入り、ようやく全員がアパルトマンに移ることができました。

忙しい公務の合間を縫って、篤太夫たちはパリを見学します。

篤太夫は様々な場所を見学し、参考になること、日本でも取り入れたいことなどを貪欲に吸収していきます。

公務は順調に進んでいますが、なぜか幕府から公費が送られてきません。

フランスからの借款もまだ手配できていません。

勘定方を務める篤太夫は先行きを案じていました。

その頃薩摩では、五代が大久保一蔵(石丸幹二さん)に報告をしていました。

幕府とフランスの結びつきは切れ、勘定奉行・小栗忠順が手配していたカンパニーの話は潰れる、と言うのです。

慶喜がいくら切れ者でも、金がなければ政はできない、と五代は言い更なる策略のために長崎へと向かいました。

江戸の小栗たちは、新聞に書かれた「将軍は一大名にすぎない」という記事に衝撃が走っていました。

このままでは将軍の名代としてパリに行っている昭武の立場が危うい、と危惧するのですが、その不安は的中し、フランスと約束していた600万ドルの借款が消えたと、使節団に知らせが入ったのでした。

前回、第22回「篤太夫、パリへ」を見逃した方は、ぜひこちらをどうぞ。

それでは第23回「篤太夫と最後の将軍」のあらすじと感想です。

篤太夫の写真

血洗島の千代(橋本愛さん)とゑい(和久井映見さん)のところに成一郎の妻・よし(成海璃子さん)が訪れ、成一郎のもとに届けられた篤太夫の写真を届けました。

久し振りに見る篤太夫の姿に千代もゑいも喜び、娘のうたにも父の写真を見せて教えます。

千代は、父は日本のために力を尽くしている、父が戻るまで行儀も心がけもいい子でいなければなりません、と厳しく教えるのでした。

消滅した借款

その頃、篤太夫たちのもとにフランスからの借款が無くなったとの知らせが入りました。

薩摩とモンブランによる謀のせいで、公儀の信用が無くなり、借款の約束が無くなってしまったのです。

篤太夫たちは憤りながらも、昭武が諸国へ挨拶回りに行くための費用を工面しようと奔走します。

外国奉行支配の田辺は、「民部公子の名義で為替を発行し、買い取らせた先から日本の公儀に対し、こちらが送り出した為替の金額分を取り立てさせる」と策を講じました。

フランスが応じないとしても、イギリスやオランダならば将軍の弟・民部公子の信用はあるはず。

篤太夫はその手配を引き受け動き始めました。

諸国への旅

こうして、当面の費用を調達した昭武一行は、条約を結んだ諸国への旅に出発したのでした。

スイス・ベルンに到着した昭武一行に、日本から外国奉行・栗本鋤雲(池内万作さん)が合流しました。

栗本は、薩摩に落とされた公儀の信用を取り戻すため、慶喜から親書を預かってきたのです。

「私は上様より日本は公儀のものであることを示す弁明を持参した。借款もやり直さねばならぬ。あの借款は公儀の命運を握る金だ。何としても信用を取り戻さねばならぬ」

そして篤太夫は、小栗から預かってきたという為替を渡され、諸国の信用を失わぬためにもそれを使って至極簡素にこれからの旅を続けるようにと命じられたのでした。

先に日本に戻ることになった杉浦愛蔵(志尊淳さん)に、篤太夫は家族に宛てた書状を託しました。

そして、見立て養子とした尾高平九郎(岡田健史さん)を案じていると話すと、杉浦は平九郎のことも引き受けると請け負ってくれたのです。

いつか必ず日の本で会おうと固く手を握り合い、2人は別れたのでした。

原市之進暗殺

その同じ日の朝、京の原市之進(尾上寛之さん)のもとに、本国寺遊撃隊と名乗る2人が訪ねて来ました。

2人は案内を振り切り部屋に押し入ると、髷を結い終わったばかりの原を強襲し、殺害しました。

原が襲撃を受け、惨殺された件は直ぐに慶喜のもとに知らされました。

犯人は同僚の鈴木と依田。

慶喜は、信頼する側近を失い慟哭します。

平九郎の旅立ち

血洗島では、平九郎が正式に栄一と千代の養子となり、江戸へ向かうことになりました。

先に江戸へ出て一橋家の家臣となっている伝蔵を頼って江戸に向かうのです。

千代は、養子となった弟・平九郎に、これからは武士として、外国に居る栄一に変わって忠義を尽くすようにと言い聞かせます。

栄一の妹・てい(藤野涼子さん)は平九郎の旅立ちに言葉を詰まらせ、頭を下げると走り去ってしまいました。

ていを追った平九郎は、ていが涙を隠して無理に笑顔を作りながら渡してくれたお守りを受け取り、栄一が帰ってきて心配がなくなったら嫁になって欲しいと告白します。

ていは泣きながらそれを承諾、2人の思いは通じ合ったのでした。

岩倉の策略

その頃、岩倉具視は薩摩の大久保に錦の御旗の図案を見せてそれを作るように命じていました。

政権が帝に戻ったところで、徳川を追い払わなければ真の王政復古とは言えない、と言い、錦の御旗があれば官軍となる、と説いたのです。

岩倉たちは、倒幕の宣旨をもらおうと、画策していました。

伏見の薩摩藩邸では、西郷吉之助(博多華丸さん)が、天璋院様御守衛という名目で兵を集め、戦の準備を始めていました。

慶喜は、薩摩の動きを敏感に察知し、今後の公儀をどのようにすればいいのか思案していました。

薩摩は倒幕のための兵を集め、いつ挙兵してもおかしくありません。

慶喜は、いっそ政を朝廷にお返しするか、と呟きました。

政権を朝廷に返還すれば、薩摩は振り上げた拳を下ろす先を失います。

500年政から遠ざかっている朝廷に力がないのは明らか、ならばまだ公儀にも見込みはある、と考えたのです。

慶喜は、政権を返上する決意を固めました。

しかし、こういったことを、1人で考えなければならないことを嘆きました。

亡き円四郎やパリへと旅立った篤太夫の姿を思い浮かべ、憂いたのでした。

大政奉還

そして、慶応3年(1867年)10月12日、慶喜は大政奉還を宣言しました。

「外国との交際が日に日に盛んになる昨今、日の本ももはや政権をひとつに纏めなければ国家を治め守ることはできない。それ故、政権を朝廷にお返しし、広く天下公平な議論を尽くして、天子様の決断を仰ぎ、同心協力してこの国を守りたい。さすれば日本は必ずや海外万国と並び立つことができよう」と老中を集めて宣言したのです。

江戸城の小栗忠順らは、慶喜の大政奉還に納得がいかず、薩長を天子様の周囲から遠ざけるため、武力蜂起をしようと団結していました。

江戸城の歌橋は、慶喜の宣言を聞き自害を試み、天璋院(上白石萌音さん)に止められます。

江戸城大奥にも激震が走っていました。

松平春嶽(要潤さん)は、二条城の慶喜を訪れ、江戸城公儀は大いに荒れているという、なぜ大政奉還を急いだのか、と問い質します。

慶喜は、あの時政権を返還しなければ京は戦となり、蛤御門の変と同じく、燃えていただろうと話し、自分はこれから天子様の皇国の力を取り戻し、天子様の元、諸侯が心を合わせ、御神君が治めた天下の大業を長く受け継ぐ手伝いがしたい、もはや他に余念はない、と決意を伝えたのです。

全てが自分の敵と頑なな時もあったが、今こそ心を広く開き、これからは春嶽や他の人々の力を借り、共に新しき日本を作ろうと、2人は手を取り合うのでした。

自分たちの企てに先んじて大政奉還をした慶喜を岩倉は感心していました。

朝廷は、急に政を返され動揺し、先のことが決まるまで、将軍職はそのままで当面の政治や外交は慶喜に任せると言います。

これでは大政奉還の意味がない、と大久保は岩倉に愚痴を零します。

そんな時、岩倉のもとに朝廷に戻るようにとの知らせが届きました。

パリ留学

外国歴訪を終えた昭武一行は、フランスでの留学生活に入りました。

昭武はナポレオン三世から派遣された陸軍大佐ヴィレットから帝王学を学ぶことになります。

ヴィレットは篤太夫たち使節団に、郷に入れば郷に従え、と言い、髷を落とし、刀を外し、洋服を着るようにと命じます。

篤太夫も髷を落とし洋装し、その姿は一変しました。

篤太夫は、陸軍大佐のヴィレットと親しく話すエラールに疑問に思っていたことを尋ねてみました。

エラールの身分は役人でも軍人でもなく銀行のオーナーでした。

フランスでは役人も軍人も商人も同じ、と言われ驚きます。

篤太夫は、ベルギーで不思議な体験をしたと話し始めました。

「一国の王が商人のように己の国の産物を売り込むとはとんでもねえことだと思ったが、よくよく考えてみるに、王が己の国の産物をよく知り、自らそれを話す、なんとありがたい心がけだと思い直した」と興奮して話します。

「異国はどこか風通しがいいのはこのせいか、日本では民がいくら賢くてもお上の思し召しで、曲がったことでもうんと言わされ、鷺を烏だと無理な押しつけをされることはよくある、ここにはそれがない、皆が同じ場に立ち、皆がそれぞれ国の為に励んでいる、本来これこそが誠のはずだ、俺や兄はずっと言っていた。身分などに関わりなく誰もがその力を活かせる場で励むべきだと。こうでなくてはならない。鉄道や、水道や、ガスもニュースペーパーもだが、この理こそ日本に移さなければならない」と感銘を受けたのです。

王政復古の大号令

慶応3年12月9日、御所の門が薩摩の兵に封鎖されました。

薩摩の西郷ら、反幕府勢力がついに動き始めたのです。

朝廷を一気に支配下に置こうというクーデターの始まりでした。

慶喜を支持する公家たちが朝廷に入ることができません。

そうした中、岩倉は明治天皇に拝謁していました。

岩倉は、これから明治天皇は後醍醐天皇以来500年ぶりに政治を行う天皇になるのだと言い、何も案ずることない、これからは万事この岩倉にお任せ下さい、と頭を下げたのでした。

そして、この日、天皇によって王政復古の大号令が宣言されました。

その夜、天皇の御前にて小御所会議が行われました。

天皇は、大政奉還を許し、王政の礎を定め、万世に伝えられる国の方針を立てよと命じました。

松平春嶽や土佐藩の山内容堂(水上竜士さん)、尾張藩の徳川慶勝らは、慶喜が行った偉業を称え、この場に慶喜が出席していないことに疑問を呈します。

この度の一件は実に陰険なことが多い、特に王政復古の始まりは門を兵で固めるなど以ての外、政権の一本化を図った立役者でもある慶喜を排除して新政府樹立などおかしいと反論し、ましてや徳川領の返還など的外れ、慶喜なくしてこの先の政が回せるのか、と岩倉のやり方に反発しました。

慶喜は人徳がない、と聞いていた岩倉は動揺し、これでは王政復古がなりえない、と困惑します。

そこに西郷が現れました。

慶喜は、橋本左内などが慕った人物であり、切れ者です。

慶喜を失脚させるにはやはり戦しかない、と言い募るのです。

岩倉は、慶喜は戦には応じないだろうと危惧するのですが、応じないなら戦をしたくなるようにするまで、と西郷は不敵に笑い、立ち去りました。

薩摩の陰謀

12月25日、慶喜のもとに江戸城二の丸が放火されたとの連絡が入りました。

薩摩の仕業と察知した慶喜は、「これは罠だ、動いてはならん」と静観するようにと言い募ります。

しかし、薩摩からの攻撃はその後も続きました。

江戸の庄内藩を襲撃され、その報復として幕府は薩摩藩邸を攻撃、焼き払ってしまったのです。

我慢しろ、我慢していればいずれは落ち着く、と声を大にして呼びかけていたにも関わらず、幕臣たちは薩摩に報復してしまいました。

慶喜が急いで家臣のもとへ向かうと、家臣たちは皆平伏し「薩摩を討つべし」と訴えてきます。

慶喜は、思いもよらない方向に事態が向かっていることに呆然とするのでした。

パリには、「新しい政権の形が作られようとしている」と電信が入り、日本がどうなっているのか、皆、不安を感じるのでした。

次回、第24回「パリの御一新」

篤太夫や昭武らがパリで新年を祝う中、幕府から書状が届く。“慶喜が政を朝廷に返上した”との文面に一同大混乱するが、篤太夫は昭武の留学費用を捻出すべく更なる節約策を講じる。そんな中、篤太夫はエラールに連れられて証券取引所を案内され、債券の仕組みを教わる。一人一人の小さな力が合わさってこの世を変えられることを知り、新たな決意を抱く。その時、日本では、成一郎、惇忠、平九郎が、新政府軍と戦っていた。

大河ドラマ「青天を衝け」公式サイトより

とうとう慶喜が大政奉還を果たしました。

慶喜自身は帝を支え、日本を支えるつもりでいましたが、倒幕派の力は強く、幕府は否応なしに戦いへと向かうことになります。

パリでの篤太夫は自分の役目を果たし、日本のため、目指していたことを知ることになるのです。

日本での苦しい展開とは裏腹に、篤太夫は生き生きとしていますね。

この対比が悲しいです。

孤独な慶喜に救いはあるのでしょうか。

次回、第24回「パリの御一新」、パリで学ぶ篤太夫の成長と徳川幕府崩壊、どちらも見ごたえたっぷりですね。

最後に

栄一の外国生活は充実しているようですが、日本は大変なことが立て続けに起こりましたね。

大政奉還と王政復古。

信頼する平岡円四郎も原市之進も暗殺という卑劣な手段で失い、円四郎の残した篤太夫もパリへ行かせてしまった慶喜は、誰にも相談できず、孤独に大政奉還を考え実行しました。

草彅剛さん演じる慶喜の悲哀が伝わり、胸が苦しくなりました。

大切にしていた家臣を2人も奪われた慶喜。

その心の傷は大きいですよね。

さらに、大政奉還の時に現れた北大路欣也さん演じる徳川家康の表情に惹きつけられました。

強い意志を感じる眼差し、そして、大政奉還の瞬間、眼を瞑り上を向いた家康の表情。

自らが作り出した幕府の終焉ですもの、何とも言えない複雑な表情が感慨深かったです。

血洗島のシーンはほっこりとしつつ、身が引き締まる気がして見ていました。

おていちゃんの真っ直ぐな気持ちが平九郎に通じたのが嬉しく、結婚の約束を交わしたことに喜びを感じたのですが、これからの平九郎を思うと、なんとも言えない複雑な気持ちになります。

栄一の見立て養子になったことで変わった平九郎の人生。

胸が苦しくなってきます。

苦しいといえば、岩倉の暗躍を見ていると非常に胸が苦しくなります。

倒幕のドラマを見ている時は、胸のすくような思いで見ていたのですが、今回はどうしても慶喜の方に肩入れしたくなっているので、岩倉の暗躍や、西郷の強引なやり方に憤りを感じます。

かつての「西郷どん」では逆の見方だったんですけどね。

岩倉役の山内圭哉さんの演技がまた、何とも言えず憎らしい、と言いますかインパクトがあるだけに余計にそう思ってしまうのですかね。

それから、何とも言えず、いい味出していた原市之進の退場も衝撃でした。

尾上寛之さん演じる原市之進は、亡き円四郎に代わって慶喜の支えとなっていました。

篤太夫や成一郎の面倒もよく見てくれていましたし、篤太夫の熱弁にうんざりしながら付き合っていた優しい姿を思い出すと、悲しくなってしまいます。

最期の時だって、美しく髷を結ってご満悦のいい笑顔を見せてくれていたので、その直後に奪われてしまった命に涙しました。

この時代は、混沌と殺伐としていた時代だったからかもしれませんが、暗殺とか簡単に人の命を奪いすぎる。

悲しい時代でしたね。

さて、次回「パリの御一新」で、篤太夫は証券取引所に案内され、衝撃を受けます。

資本主義の父、と言われる渋沢栄一の始まりになるのですね。

篤太夫の成長も見所ですが、戊辰戦争の行方も気になります。

見所満載の次回、第24回「パリの御一新」、オリンピックの関係で少し間が開いてしまいますが、総集編を見て復習しながら次回を楽しみに待ちたいと思います。



よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次